倉敷ホーリネスチャーチ

聖書のみ言葉、キリスト教のメッセージ、また旅情報など、テケテケが伝えしています(日本ホーリネス教団)。

[聖霊と初めの教会]メッセージ要約

2004年05月30日 | メッセージ
2004年5月30日の調布キリスト教会主日メッセージ要約「聖霊と初めの教会」
聖書:使徒行伝 2章37節~47節
抜粋:2:38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。

<要約>
この箇所では『聖霊に満たされ』た弟子達のもとにユダヤ人達が押し寄せ、どうしたら良いか尋ねている場面です。語るペテロと聞く群衆、大きな差があるように思えますが、そうではありません。わずか40数日前、主イエスの十字架の時、ペテロは民衆と同じ思いだったからです。神は私たちに永遠の命を与えてくださるため、主イエスを私たちの罪のあがないとして十字架にかけられました。主イエスの弟子達は動揺し、どうしたら良いのかさえわからなかったのです。そして主イエスの復活。その時も大きな同様があり、今、ペテロの前に集まっている群衆と差はありません。
この箇所から以下の3つについて学んで行きましょう。
①悔い改める
主イエスを信じ、考え方を180度変える。まず主イエスの事実を認めましょう。
a:主イエスは罪人ではなく、神の御子である事
b:崇拝されていたダビデの墓はエルサレム内にあるが、主イエスのものは外にある。復活された墓であるので、当然中にはなにもない
c:今、父なる神の右に座しておられる。
②バプテスマ
天と地を結んでいるのが聖霊なる神です。主イエスの『主』とは、単なる主人ではなく、神そのものなのです。その神を群衆(私たちの罪の心)が殺してしまったのです。その事実を露わにされた時、私たちは動揺を隠せません。そこで、悔い改めが必要となるのです。この聖書の箇所で、バプテスマを受け、悔い改めた人は『3000人』ほどであった。と記されています。
③救われる
結婚を例にとって考えてみましょう。神が定められたものにもかかわらず、なぜ失敗する人が多いのでしょう?現在離婚率は30%とも言われています。現在の結婚は神によるものではなく、肉と肉との契約によるものだからです。
肉同志が一緒になるとどうなるでしょうか?お互いの違いに驚き、戦いが起こります。どうしても理解できない事があります。どうぞ神に委ねてください。
これと同じように、教会にも言えます。いろんな考え方を持っている人々が集います。自分の主張が通る通らないではなく、主に委ねてください。勝利者は主イエス以外にはないのですから。
聖霊の神を信じ、聖なる公同の教会を自分の中に受け入れてください。

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[わたしたちの目となってください]メッセージ要約

2004年05月23日 | メッセージ
2004年5月23日の調布キリスト教会主日メッセージ要約「わたしたちの目となってください」
聖書:民数記 10章29節~32節
抜粋:10:31 モーセはまた言った、「どうかわたしたちを見捨てないでください。あなたは、わたしたちが荒野のどこに宿営すべきかを御存じですから、わたしたちの目となってください。

<要約>
この箇所は今から約3500年前、モーセがシナイ半島の荒野を進んでいる場面です。この場所は映画「アラビアのロレンス」でも登場し、砂吹雪の後仲間の一人が砂に埋まり命を落としてしまう場面が描かれています。それほど厳しい道だったのです。
さて、現在に目を移すとヒューマニズムが蔓延しています。人道主義とも解釈されていますが、もう一方では『人間至上主義』とも言えます。これは人間中心で『神』不在を意味しています。神に頼らなくても人間の考えですべてがうまく行くと考え行動してしまいます。確かに『目に見える』ものは便利で豊かになりましたが、心はどうでしょう?自分が神に創られた事すら忘れ去られています。今だからこそ、私たちの人生の『ガイド』が必要ではないでしょうか。
本日のタイトルである『目となって』とは・・・
(1)神様のまなざし
創世記2:19、1:31に、神が人を見られ、生き物にどんな名前をつけるか観察されていました。神は私たちの活動そのものを見ておられます。今日から始まる一週間に私たちも名前をつけてみませんか?『素晴らしい一週間』と名前をつけましょう。神が共にいて、見てくださいます。
(2)多くの先輩達に雲のように囲まれている
ヘブル12:1に、教会は多くの先輩達に雲のように囲まれ、私たちを支えてくださっている事が記されています。神もなく友もいなかったとしたら・・・思うだけで塞ぎ込んでしまいますね。私たちは神そして多くの先輩達に支えられているのです。
(3)目がひらかれる
列王記下6:8-19に、エリシャを捕らえようとする多くの軍隊の事が記されています。エリシャと共にいた若者にエリシャは「恐れる事はない、われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから」と語りました。若者の目が開かれ敵よりはるかに多い、自軍を確認したのです。
全能の神に、私たちの目となって頂くよう祈りましょう。人生のガイドになって頂くのです。神を信じ、聖霊を信じる事で、聖なる公同の教会が現れます。
祈る時、目を閉じます。心の目が開かれるためです。
祈る時、うつむきます。ガイドになっていただく方に全てを委ねるためです。
ペンテコステを前に、心の目を開いて頂き、人生のガイドとなって頂くよう祈りましょう。

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[できる]メッセージ要約

2004年05月16日 | メッセージ
2004年5月16日の倉敷ホーリネスチャーチ主日メッセージ要約「できる」
聖書:ピリピ人への手紙 4章1節~20節
抜粋: 4:19 わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。

<要約>
本日、私たちは倉敷教会の特別伝道礼拝に参加させて頂きました。メッセージは大阪キリスト教会の岡田信常先生がピリピ(喜びの書)からなされました。何の問題もなく喜びに満ちている人もいるでしょう。そうでなく多くの問題を抱え苦しみの中にいる人もいるでしょう。主はいかなる人にも苦しみを喜びへと変えてくださるのです。この章の最初に『愛する』とあります。愛するとは主に祈る事です。具体的に『愛』について考えてみましょう。
(1)『愛』とは許し、慕うこと
この箇所に登場する女性(ユウオデヤとスントケ)はパウロがピリピに教会を建てる事において重要な女性達です。彼女たちは愛を持ち、主を伝えようと行動したのです。主は私たちにも冠をお与えになろうとされています。霊と誠とを持って祈ってください。
(2)『愛』はチャンスをとらえること
示された時、それがチャンスの時です。神様は私たちに祝福をいつ与えようかと狙っておられます。
詩篇1篇3節に、時がくると実を結ぶと記されています。必ず『時』は来ます。しかも一度だけではなく、何度も何度もチャンスを与えてくださっているのです。また詩篇ででてくる『その葉』とは生命力の事です。実を結び続ける命が与えられているのです。
(3)あなたがたに助けられた
パウロは人々に助けられている中で、神に感謝をささげ、誇りを持ちなさいと言っています。どんな時でも誇りを持ち神を賛美しましょう。個人個人で神を賛美し、愛し、行動できる内容はタラントによって違います。自分にできる事を主にあって行動しましょう。愛を持って行動しましょう。
神様は私たちを強くし、できる者と変えてくださるのです。絶対にできると信じてください。

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[福音に預かる者の喜び]メッセージ要約

2004年05月09日 | メッセージ
2004年5月9日の日野高幡教会主日メッセージ要約「福音に預かる者の喜び」
聖書:ピリピ人への手紙 1章3節~11節
抜粋:1:7 わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。

<要約>
 本日は、日野高幡教会にて主日礼拝を守る事となり、メッセージ は主任牧師の蘇先生ではなく、学院教会からユースバスター(若 者達のための牧師)の渡部恵師(通称メグ先生)がなされました 。最初にユースジャムの説明を熱く語られ、メッセージへとはい りました。
  この聖書の箇所に『福音にあずかる』が2回記されています。メ グ先生も以前、会計の役をあずかり、奉仕をされましたが、プレ ッシャーを伴う責任ある印象が強くあります。しかし、聖書が記 している『あずかる』はまったく意味が違うのです。 聖書での『あずかる』とは・・・
(1)神様との交わりの中に入れられる事
(2)福音を広めることを喜びとする事 なのです。それぞれを詳しく見てみましょう。

(1)神様との交わりの中に入れられる事とは、自分と神様が生 きた関係、すなわち父と子というような身近な関係になると言う 事です。神様は主イエスキリストを通してそのような関係にして くださっているのです。
ルカ15章に、放蕩息子の記事がありますが、父を離れやりたい 放題してきた息子が全てを失い、失望し、死ぬくらいならもう一 度父の元へ帰り使用人としてでも使って頂きたい思いで家へ帰り ます。父は遠くから息子を認め、抱き寄せて接吻するのです。父 なる神のたとえですが、どんな事があろうと私たちを愛し続けて くださるのです。誰一人として認めてくれなくても、父は認め愛 してくださるのです。
(2)福音を広めることを喜びとする事とは、コイノニア・フェ ローシップ、すなわち交わりの重要さを言われています。 そもそもコイノニアとはギリシャ語で、商売人の協同組合の意味 があり、登録している人々が投資し、得た利益を分配(分散)す る事です。福音をあずかった私たちが交わりを通して他者へ伝え る(伝道)事なのです。何も大きな事から始める事はありません 。例えば、祈ること。トラクトを配る事。教会に誘うこと。など です。
 伝道する教会はまさに福音と交わりの教会です。私には出来ない と思わないでください。なぜなら私たちの父は、完全な方ですか ら、全てをゆだね心からお願いしてみてください。
 私たちは今、神様との生きた関係にあります。決して見捨てられ る事はありません。しかもこの世のみならず先まで約束下さって いる完全な神様なのです。心を開き完全な父と交わりましょう。

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[あれは、主だ]メッセージ要約

2004年05月02日 | メッセージ
2004年5月2日の調布キリスト教会主日メッセージ要約「あれは、主だ」
聖書:ヨハネによる福音書 21章1節~14節
抜粋:21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。

<要約>
よみがえられた主イエスが、ガリラヤ湖(デベリヤの海)で弟子達の前に現れた箇所です。これで主イエスは3度現れた事になります。主イエスは現れては隠れを繰り返されています。
使徒信条には『我は聖霊を信ず』とあるとおり、主イエスは次のステップ訓練のため、現れそして隠れ弟子達を訓練されていたのです。弟子達はいつも主イエスと一緒にいたわけですから、十字架の後はさぞ心細かったことでしょう。
ヨハネ14章12節『よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。』に主イエスは、私を信じるものはもっと大きなわざを行うと言われています。聖霊による祝福を述べられているのです。
さて21章に戻りますが、ここで3つの福音が否定形で記されています。
(1)弟子達は魚を捕るため網をおろしますが魚がとれません。そこで主イエスは網をおろすように語られますが、弟子達はそれがイエスだと認識していません。主を失った弟子達の霊的弱さが表現されています。
第一のキーワードは『なんの獲物もなかった』『それがイエスだと知らなかった』
(2)弟子達はそれが主イエスとわかっていませんが、ガッカリしており誰が語られたか以前にそれに従ったのです。網をおろすと多くの魚がとれましたが、網を引き上げる事ができません。主イエスは弟子達と、あまり遠くない所におられました。ここでは、豊かな収穫と、主イエスとの距離を記していますが、主との距離は本当に近いのです。
第二のキーワードは『引き上げる事ができなかった』『あまり遠くない』
(3)網は裂ける事なう153ひきの魚を上げる事ができました。この『網』とは『教会』です。弟子達は主イエスである事が確信できたため、誰も尋ねる者はありませんでした。教会に主イエスは御臨在されている事実がここにあります。
第三のキーワードは『網はさけなかった』『尋ねる者がなかった』
再び14章ですが、『真理の御霊を見る』ことが記されています。これは聖霊の御臨在を体験する事です。あきらかに存在している御霊を感じるのではなく見るのです。
どうぞ祈り、聖霊の臨在を見てください。体験してください。私たちの中に共にいらっしゃるのです。心の目を開き、しっかりと主イエス、聖霊を見てください。いつも共にいて下さっていることを、お解りいただけると思います。

追記:昨日から映画『パッション』(主イエスの受難)が上映開始となり、私たち夫婦も観て来ました。聖書を忠実に再現されており、クリスチャンである私たちは目を覆う場面が何度も登場しました。毎日の祈りとして、皆さんも『使徒信条』や『主の祈り』をなさっていると思いますが、簡単に祈れるような12時間の受難ではなかった事を改めて知る事ができました。本当に苦しまれ、苦しまれ、苦しまれ、ムチ打たれ、そして十字架にかかられたのです。しかもその十字架にかけた者のために、お祈りなさったのです。本当に私の罪のため、あのような苦しみを受けられ、死の後よみがえられた主に改め感謝しかありません。

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