倉敷ホーリネスチャーチ

聖書のみ言葉、キリスト教のメッセージ、また旅情報など、テケテケが伝えしています(日本ホーリネス教団)。

【聖書】マタイによる福音書7章24~29節 【説教】「聞いて行う幸い」 2020/6/28

2020年06月28日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書7章24~29節
【説教】「聞いて行う幸い」
 説教:小林光生師 要約:大元鉄也

「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。」
(マタイ7章24節)



旧約聖書で最大の預言者、説教者はモーセであろう。そのモーセはシナイ山で、十戒を神から受けた。イスラエルの民がどのように生きたらよいかが述べられている。
主イエスが山の上で語られてメッセージはそれに対応するもので、主イエスにある者の生き方が語られている。
その山上の説教のはじまりは、「心の貧しき者はさいわいである」で始まっている。終わりは、岩の上に建てられた家と、砂の上に建てられた家という「譬え」であった。
今日の鍵のことばとして、「聞いて、行う」ということばを取りあげてみたい。「聞く」ことと「行う」ということは切り離せない。
私たちが岩の上に家を建てるために、まず主のことばを「聞く」ことの大切さが言われている。主のみ旨を聞かないで、預言をしたり奇蹟を行う人は「砂の上に家を建てた人となってしまうのである。

次に「聞いて行うとはどういうことであろうか。ある所でこのような話が出た。
「聖書のことばを聞くのはそんなに難しくないが、でも実行するとなると大変だね」確かにそのように感じる。しかし、「聞くことと行うこと」について、ある説教者はこのように述べておられる。「主の言葉を聞いてはいるがまだ行えないというのではなくて、行っていないのは聞いてもいない、ということなのです」
ウーンとうなってしまった。主の約束を行えないのは実は、その約束を聞いていないということなのだろう。
イエス・キリストを信じ、信頼して、このお方のことばを聞いていくときに、耳をすませていくときに、主は聞くだけでなくて、それにともなう行いをも備えてくださるのである。
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【聖書】マタイによる福音書5章43~48節 【説教】「天の父の子となるため」 2020/6/21

2020年06月21日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書5章43~48節
【説教】「天の父の子となるため」
説教:小林和子師 要約:大元鉄也兄

45:こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

主の御名を讃美いたします。

 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 あなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。マタイ5章44,39節

 これらの主イエスの山上の説教は、私たちの生き方を教えてくれています。 しかしあまりにも水準(レベル)が高いのです。日本の文学界をリードしてきた、芥川龍之介、太宰治がこの聖書の箇所につまずいたところです。 「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」マタイ5章48節 

 この命令に至っては、「全くの実行不可能だ」という見方も多いのではないでしょうか。 まずこの主イエスの教えが、「山上の垂訓」であり、道徳教育としての命令であるならば、その通り「絵に描いたモチ」どころか大きな重荷となってしまいます。 まず確認したいこと、この山上の説教の最初が「心の貧しき者は幸い」ですというように、「祝福を告げる」ことばで始まっており、まさに「福音」です。福音とは、人間の努力ではできないことが、天の父のめぐみにより、また主イエスの十字架によるあがないによって、実現不可能のことができるようにされることです。 この所を解く一つの鍵のことばとして「完全な」という」翻訳を取り上げてみます。最近、相次いで新しく翻訳されたものもすべて「完全な者となりなさい」です。しかし、「完全な」というギリシャ語には「十分に成長した」という意味があるのです。神さまに対して「十分に成長した」はおかしいので、「完全」であるという翻訳となったのではないでしょうか。 しかし、昔の文語訳では次のようになっています。「汝らの天の父が全きが如く、汝らも全かれ」「全きもの」ということばが日本語として使われているかわかりませんが、ここでの意味をよくあらわしているのではないかと思います。 私たちの天のお父さんが、完全であるとは、私たちの必要に対して、十分を十分に知って答えて下さるお方であるのです。そして、私たちは、恵みによって、その天の父に似るものとされていくのです。

 出来ない事を認める事から始め、自分ではどうする事も出来ないが天の父に全てを委ね丸投げする信仰が与えられますよう祈る事ができる人は幸いです。

今週も主にあり、素晴らしい日をお過ごしください。

テケテケ
※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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【聖書】マタイによる福音書5章1~4節 【説教】「幸いなるかな心貧しき者」 2020/6/14 会堂での礼拝

2020年06月14日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書5章1~4節
【説教】「幸いなるかな心貧しき者」

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、 悲しんでいる人たちは、さいわいである」

 主イエスがこの山の上の説教でまずどのように語りはじめら れたのでしょうか。 イエス様が話されたのは「幸いですよ」「良かったね!」とい うことばでした。「だめですよ」ではなくて、どのような人が幸い な者として招かれているかを教えてくださっているのです。 どんな人々が幸いなのでしょうか。
 ここにある貧しさとはよく素直であるとか単純 シンプルであ るとかといわれます。自分の中には何にもないだから神様に 心から従い求める人なのです。 心の貧しい人々に、神さまは素晴らしい祝福の約束を備え てくださっています。「天国は彼らのものであるのです」とあり ます。 この天国はどのようなものであるかは、マタイの福音書の主 題ともなっていますので、これから学んでいきたいのですが、 この祝福は、幸いは、「心の貧しい人に与えられると主イエス は、語られたのです。

 今、私たちは、今まで積み上げてきたものが、ウイルス疫病 により一いっぺんに駄目にされているような状態にあります。 そのような中で、主イエスが教えてくださった「貧しさ」「心の謙 虚さ」を教えて頂き、主にある幸いを頂けるように祈っていきた く願うのです。

今週も主にあり、素晴らしい日をお過ごしください。

テケテケ
※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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【聖書】マタイによる福音書6章26~34節 【説教】「明日は明日が心配する」 2020/6/7 会堂礼拝再開

2020年06月07日 | メッセージ
【聖書】マタイによる福音書6章26~34節
【説教】「明日は明日が心配する」

34:だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

主の御名を讃美いたします。

 分散礼拝の時は、「聖書における危機」というテーマでメッセージさせて頂いた。来週は小林和子牧師が、「幸いなるかなこころ貧しき」という題で分散礼拝前から準備していた説教があり、今回はその後の「神の国とその義とを求めない」というメッセージである。

 この主イエスが山の上で話された内容は、昔から「山上の垂訓」と呼ばれている。「垂訓」とは、「教えを垂れること。また、教訓を後世の人々に残すこと」という意味であるが、この主イエスのことばは、教訓ではなくて、メッセージそのものであると思う。主イエスが、この地上で弟子たちがまた、わたしたちがどのように毎日を過ごしたら良いかが語られているのである。

 「日常」においてどのように過ごすかは「非常時」にどのように生きるかにつながっているのであると思う。「食べること」「着ること」「住むこと」それに伴う経済生活はどうしても私たちに必要なものである。しかし、そのような中で私たちは「思いわずらって」しまうのである。主イエスは「空の鳥を見なさい」「野の花から学びなさい」と話されている。

 わたしたちにとって「まず、神の国とその義」とを求めることを命じておられる。衣食住をはじめ、私たちが必要なものが多くあるなかで、最初にしなければならないことがある。この順番がおかしくなってくると、思いわずらいが私たちをおそってくるのではないかと思う。今日ではなくて、明日を見てしまうのである。
 神の国を求めるとは、「神の恵みの支配」を信じて毎日の生活を歩むことである。私たちは、新型コロナウイルスの支配の中でいるような感じがするが、決してそうではない。主の祈りでも、「み国をきたらせたまえ」とあった。国と力と栄えが、ローマ帝国ではなくて、日本国に永遠にあるのではなく、神の恵みの支配にあることを信じていきたい。「その義とはどんなことか」旧約聖書では律法を行うことを通じての「義」を求めてきたのである。しかし人間の努力では救われないことが明らかになったのだ。また自分の正しさ、「義」を相手に押しつけることも、真の救いには至らない。

 イエス・キリストの十字架のゆるしのものさしを頂いていきたい。そうして、明日のいのちは自分たちのものではなくて主のものであるから、今日、主がわたしたちを「見ていてくださる」ことに感謝してあゆめるように祈っていきたいのである。

今週も主にあり、素晴らしい日をお過ごしください。

テケテケ
※要約はメッセンジャーの説教メモを記しています。
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