倉敷ホーリネスチャーチ

聖書のみ言葉、キリスト教のメッセージ、また旅情報など、テケテケが伝えしています(日本ホーリネス教団)。

[解放された生活]キリスト教礼拝メッセージ要約

2009年02月22日 | メッセージ
2009年2月22日、倉敷ホーリネスチャーチ主日メッセージ要約[解放された生活]メッセージ要約をアップいたします。
聖書:使徒行伝9章31~43節
抜粋:6:23 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

<要約>
罪の報酬が死とは、何ともやるせない気持ちです。
「しかし」・・・
この「しかし」がこの箇所に3つ登場しています。この「しかし」に、光、希望、解放を見いだす事ができる事に感謝いたします。

まず罪の僕とは何でしょう?
そもそも罪は律法があって定められ、私たちをがんじがらめにしてしまいます。ここで言う律法は完全を求めているからです。
聖書に、ある裕福な青年が天国に入るにはと主イエスに質問した事が記されていますが、この青年は小さな時から律法を守り続け「何をしたら」天国に入れるかを質問したのです。
何をしたら・・・これはどんな「行動」をしたら良いかと質問しましたが、行いにより達成しようとすると必ず足らないものが出てしまい、完璧に成す事は不可能なのです。
「しかし」主により罪から解放され、神に仕え、清きに実を結ぶ事ができるようにされました。
昔、奴隷が主人に仕えるあかしとして誕生したと言われるイヤリング。主人に仕え続ける証として奴隷自ら耳に穴をあけました。
私たちは、罪に使えるか、神に仕えるか、どちらにも仕える事は出来ません。
では神に仕えるにはどうしたら良いのでしょう?
答えは何も行動に起こす事はありません。なぜなら既に主イエスが命を売り払い、私たちを罪から解放してくださっているからです。私たちが罪の報酬、すなわち死を受け入れる事のないよう、主イエスがかわりに受けてくださったのです。
しかも、神の賜物を頂くようにされました。報酬は計算しますが、賜物は計算するものではありません。自分の行動による見返りなどは求めないのです。ただ一つだけ計算(報酬の確認)するなら、罪から解放され神に生きている事なのです。

頂いた賜物を活かせる者としてくださいますよう、祈ります。


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[神のみ業の伸展X]キリスト教礼拝メッセージ要約

2009年02月15日 | メッセージ
2009年2月15日、倉敷ホーリネスチャーチ主日メッセージ要約[神のみ業の伸展X] ~ペテロを用いられた神~ メッセージ要約をアップいたします。
聖書:使徒行伝9章31~43節
抜粋:9:32 ペテロは方々をめぐり歩いたが、ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った。

<要約>
連続してメッセージがなされています「神のみ業の伸展」も今回で10回目となりました。使徒行伝の始まりはマルコによる福音書の最終に詳細が記されています。
[マルコ 16:19 主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。マルコ 16:20 弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕

パウロの回心もあり、『こうして』教会は成長の第二段階に入る訳ですが、初代の弟子であるペテロをここでは主が用いられています。巡回伝道するペテロがどう神に用いられたか見てまいります。

(1)ペテロを用いてアイネヤになされた神のみ業
アイネヤは中風になり8年間も寝たきりになっていました。そこにペテロが語ります。「イエス・キリストがあなたを癒してくださる。」ペテロが癒すのではなく、主イエスが癒されるのです。主のみ業により癒されたアイネヤを見て、すべての人が神に帰依します。例外はないのです。

(2)ペテロを用いてタビタ(ドルカス)になされた神のみ業
ドルカスは、かもしかの意味があり、主の弟子として良い働きをした女性です。現在の教会においても、婦人会の名称を『ドルカス会』とされ、活躍されている多くの夫人達がおられます。彼女はどんなタラントを用いて主のみ業を行ったのでしょうか?
彼女は、「針と糸」で神につかえ、まずしい多くの人々を励ましました。小さなタラントですが、多くの多くの人々に山のように肌着や着物を与えたのでした。そんな彼女ですが、病気のため亡くなりました。彼女とともにいた弟子の二人がペテロをもう亡くなっているのにわざわざ呼びに行きます。ペテロは主に期待し祈ります。以前主は「タリタ・クミ」と少女に祈られましたが、ペテロは主のみ名により祈ります。すると目を開け、ペテロから彼女に手をかして立たせました。

ペテロは主に用いられましたが、栄光は主に帰されました。
教会は、平安を保ち-基礎が固まり-主を恐れ-聖霊に励まされました。今も同じなのです。主の弟子として生きる私たちですが、それぞれ与えられたタラントは違います。しかしどのタラントも主のみ業のため、栄光を帰するためご用意くださったものです。
主は今も私たちの手をにぎってくださっています。私たちがにぎっているのではありません。今なお続く使徒行伝の中を生きる私たち。与えられているタラントを埋める事なく主のためにますます使う事が出来るなら幸いです。


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[神のみ業の伸展]キリスト教礼拝メッセージ要約

2009年02月08日 | メッセージ
2009年2月8日、倉敷ホーリネスチャーチ主日メッセージ要約[神のみ業の伸展] ~サウロの回心~ メッセージ要約をアップいたします。
聖書:使徒行伝9章1~9節(~31節)
抜粋:9:6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。

<要約>
サウロ、後のパウロの回心に至るきっかけが記されています。回心であり、単なる改心でない事に留めてください。
回心:キリスト教で、罪のゆるしと洗礼によってひきおこされる、心の大きな転換。
改心:今までの行いを反省し、心を改めること。

サウロによるキリスト者の迫害が続き、第二段階に入りました。サウロはますます弾圧や脅迫を強め、ダマスコでキリストを信じる者を捕らえエルサレムに連行する行動を起こしています。そこに主イエスキリストがサウロに臨みます。
この箇所から、後に回心するサウロ(パウロ)への関与を見てまいります。

(1)サウロの回心に直接関与された主イエスキリスト
キリスト者の大迫害の張本人、それがサウロです。ところが・・・
天から光がサウロをめぐり照らし、サウロは光によりうち砕かれ、地に倒れました。地に落ちる事などサウロは今までなかったと思います。そして主イエスがサウロに現れます。
目が見えず、口もきけないサウロに「立って町に行きなさい」と声をかけられます。完全に主イエスに打ちのめされたサウロは従い、ダマスコへと向かいます。

(2)サウロの回心に間接的に関わった背後の器3人
その人は、ステパノ、アナニヤ、バルナバ
7章54節から、ステパノが石打される場面が記されていますが、そこにいたサウロもそれに賛同し見ていました。その光景はサウロに強烈な印象を与えました。
アナニヤはサウロと神との架け橋となった人で、キリスト者を弾圧するサウロに命がけで近づき、サウロを理解した人です。サウロに「兄弟サウロよ」と手を置き祈った人です。
バルナバは慰めの人。弟子達は今まで迫害していたサウロを受け入れません。ところがバルナバはサウロ(パウロ)の世話をし、兄弟の一人に加わる事ができるよう献身的に働きかけました。

パウロが記した書簡は13。新約聖書の約半分をパウロが書きました。もしパウロ回心がなければ、現在の聖書がなかったかも知れません。またルターやカルバンがいなかったら、現在のキリスト教は存在していないかも知れません。
神は時にかなった一人を用いられます。今あなたを主の器として用いられようとされています。オンリーワンのあなたによって、リバイバルが誕生して行くのです。


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[神の恵みの支配に生きる]キリスト教礼拝メッセージ要約

2009年02月01日 | メッセージ
2009年2月1日、倉敷ホーリネスチャーチ主日メッセージ要約[神の恵みの支配に生きる] メッセージ要約をアップいたします。
聖書:ローマへの手紙6章1~14節
抜粋:6:13 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。

<要約>
病気になると、健康の大切さが解ります。でも治ってしまうと、また健康に対する意識が薄くなってしまいがちです。そしてまた病気になり、その時また健康の大切さを思います。
恵みが増し加わっているのに、罪にとどまってしまっています。
イエスキリストの救いに生かされている私たちは、もはや罪に対して死んでいるのです。罪がどれほど襲ってきても、既に罪自体がなくなっている訳ですから、それに支配される事はないのです。神の御手の中で、新しい命を与えられ、なくなった者から生かされています。これはキリスト者だけでなく、全ての人に与えられた恵みで決して例外はありません。

自分の体を罪に捧げず、神に捧げてください。ここに記す捧げるとは、そばに置くとか、そばに立っているという意味です。罪とは律法で、これに捧げてしまうと栄光を自分に求めてしまいます。ぜひ神に栄光を捧げてください。その所に主イエスキリストがそばにいて下さいます。

私たちは何度も何度も過ちをおかしてしまいます。しかしその時にも主イエスキリストが共にいてくださっている事を覚えてください。

今あなたはどちらの側に立っていますか?
律法の側ですか、それとも主イエスキリストの側ですか?
罪にとどまらず、神に栄光を帰する事ができるなら幸いです。


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