硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

夏のインフルエンザは。

2023-09-27 21:12:07 | 日記
インフルエンザが流行っているというニュースに違和感を覚えた。

例年なら、空気が乾燥し始める11月の終わり頃から流行り出すのであるけれど、今年は何故か夏日の続く季節から流行り始めている。

インフルエンザウイルスは驚くほどの速さで変化する特性を持つ細菌であることは分かっているけれど、なぜ今年になって湿度の高い季節でも流行っているのだろう。

もし、湿度の高い季節においても感染する力があったならば、もっと早くに変化を遂げていたはずである。

どうしてコロナウイルスが5類に移行したこのタイミングで流行しているのか。

この事象は余りにも不自然に感じる。

出来ることなら、今年の予防接種は受けたくないなぁ。

「それってあなたの感想ですよね」。

2023-09-23 21:30:36 | 日記
最近、「それってあなたの感想ですよね」というフレーズに対して述べている二人の文章を目にした。
偶然というべきか、必然と言うべきなのか、そのお二人の思想は僕が物事を考える指標としている方なので、少しばかりびっくりした。

「それってあなたの感想ですよね」というフレーズは「ひろゆきさん」が議論の場でよく使われる言葉なのですが、僕は肯定的に捉えていました。
それは、情報量の豊富さと経験値と彼の資質である「他者の気持ちを余り忖度しない」というマインドが、視聴している人を気持ちよくさせているからです。

もちろん、先生方の考え方も理解できるのですが、中庸や中道を保っていると、もやもやしたものは残るし、保とうと思っていても、いつしか強い口調でモノを言う人の方へ傾いてゆく傾向は強い。

だから、もやもやしたものをスッキリさせる彼の論法を支持する人は多いと思うし、そこに「分断」や「相互隔離」が生じたとしても、真似もしたくなるのだと思う。
(先生が指摘されていたように、ネット上では、「大ホールの最後列に座って舞台を観る」ように、言葉が発せられていますね。これを、ネットを使用することになった人類の問題と捉えなければ、今後、分断や相互隔離は広がっていくのではと思う)

昨日、水戸黄門を観ていて、物語の終盤、黄門様が「助さん、格さん、懲らしめてやりなさい」といって、斬りかかってくる者達をバッタバッタと倒してゆき、「その辺でよいでしょう」の一言で印籠が出され、立場が一気に逆転するという定番のシーンに改めて痛快だなと感じたのです。
もちろん何回目かの再放送なので、話の落としどころは分かっているのですが、視聴している者の気持ちの「もやもや」を物語の筋道である起承転結の結に至る過程で膨らませられるから、最後のあの展開が心に響くのだと思いました。

話がそれてしまいましたが、膨らみすぎたモヤモヤをその場で着地させるにはパワーワードで強制着地させた方がスッキリとしますよね。
とするならば、議論の場では、議論を始める前に、もやもやした部分を極力排除しておくか、もしくは、矛盾点を指摘されたときに「それは気が付きませんでした」等、自身の準備不足を認識した上で議論を進めれば、ひろゆきさんでも「それってあなたの感想ですよね」というパワーワードは繰り出さないのではと思いました。

また、もし、制作している側が彼らの議論を「エンターテインメント一つ」として取り扱っているならば、それを見聞きしている人達に「論破ってスッキリする」や「その物言いはどうなの?」という「勘違い」が生じているだけのようにも思います。
(これも、僕の感想ですけどね)

でも、かつて、世論が戦争に熱狂したように、戦後、若者がマルクスに熱狂したように、バブル経済を疑わずに熱狂した人々のように、時代において人々はなにかに熱狂してしまう。
現代も然り。多くの人の情報収集方法が、本よりもネットの動画になっているのであるから、爽快感を与えてくれる論調へ多くの人が流れてゆくのは自明の理。

ひろゆきさんを多くの人が支持している事象は、多くの大人が物事をうやむやにしていることが大きな要因だと思います。
しかし、「軍部は間違っている」「マルクス主義が全てではない」「この異常な好景気はいつか終わる」と、時代に抗う人が存在したからこそ、日本はなんとか平和を保ててこられたのだと思います。

これも僕の感想ですけどね。(笑)






ナイカクカイゾウデヨノナカガヨクナルトイウゲンゾウヲミセラレテイルノ?

2023-09-14 10:24:16 | 日記
岸田再内閣改造が朝刊の一面を飾っていた。

記事を読んでみて、次の選挙を優位に運ぶためには今なにをするべきかという想いを感じた。
それしか感じ取れなかった・・・。

女性議員の登用が過去最多であることが注目されているけれど、残りの期間で実質的なことができるだろうか。引継ぎだけでも大変であるから、職務の全容を把握したところで次の選挙になってしまうのではないだろうか。
また、短い期間での実経験を次の仕事に生かす事ができるだろうか。
ただ、権力のあるものに振り回されるだけにならないであろうか。

そして、なにより補助金という税金を使わずに、経済を立て直すことができるだろうか。
その人事によって、私たちの暮らしは少しでも楽になるだろうか。

ほんとうに「変化を力にする内閣」となりうるのだろうか。

椅子取りゲームになりさがらないであろうか。

不安要素が多すぎて、彼の言葉は一向に響いてこない。

どうしてこんなことになってしまったんだろう。

911事件は確かにあったが・・・。

2023-09-11 16:36:19 | 日記
SNSに911テロ事件の映像がアップされていた。

それは、ワールドトレードセンターに飛行機が追突しない映像やペンタゴンの一部を破壊したのがミサイルではないかというような映像であった。

たしかに様々なメディアが、このテロ事件の矛盾点を指摘しているが、それは陰謀論ともいわれている。

もし、テロが事実であるのなら、なぜこんな情報が流れてくるのだろうか。
もし、陰謀論が事実であるのなら、アメリカ政府はなぜ、そのような事件を起こしたのだろうか。

20年以上も時間が経過した今でも、矛盾点が解消されないのはなぜなのだろう。
そして、どちらの情報を信用すればよいのだろうか。

真実にしても、陰謀論としても、首謀した者がいることは事実である。
首謀者は、政治的な対立に関係のない人の命を奪う権利があるのだろうか。

中世で起こった出来事ではないはずなのに、分からない事ばかりである。


「ハヤブサ消防団」を観て思いついたものの。

2023-09-10 17:17:14 | 日記
録画していた「ハヤブサ消防団」を観る。

消防団活動が苦手で退団してしまった僕にとっては、抵抗のある設定でもやもやした感情を抑えながら観ていたけれど、さすがは池井戸さん。やっぱり面白かった。(笑)

真鍋さんが立木さんのアパートを観ているシーンの伏線がここにきて回収される展開を見せ、「アビゲイル騎士団」の存在が出始めた頃から、ストーリーの本筋はそこにあるのだろうと思いつつ、書店で原作を見かけるも手に取るのも我慢し、ドラマだけに集中。

もうすぐ最終話であるが、物語の考察よりも、先週の「ハヤブサ消防団」を観て、思ったことを一石述べておこうと思います。

アビゲイル教団が過疎化の進むハヤブサ地区に移住してくる展開を観ていて、過疎化の進む町を維持してゆくには、その方法もアリだなと思った。

しかし、こうも考えた。

ムラの生え抜きの住人にとっては、よそから来た者は「脅威」に映るので、説明したところで理解はしてくれない。だから、太陽光発電の会社を装って、土地を買収していったのであろうが、放火してまでして土地を買い上げた行為はあきらかに違法である。
もし、ムラ社会をよく理解していたならば、素性は隠したままオセロゲームのように時間をかけて「ひっくり返してゆく方法」が「アビゲイル教団」にとっては有効だったと思う。

しかし、同じ価値観を持つ人たちが、楽園を作り上げたとしても、その次世代の人達までが、その価値観を引き継いでくれるのであろうか。

2世、3世は、その想いを大切に紡いでくれるであろうか。

山間の小さな集落で平和に暮らして行けるとしても、世界はネットでつながっていて、いやおうなしに拝金主義へと誘う。
教理が通用しない外との社会に対して、子供たちはどのようにして向き合えばよいのだろうか。大人はそれを示す事ができるであろうか。
一昔前ならば、神懸った教祖が不在であっても、口伝する者が優れていれば、その威光を知らしめることもできたが、今は常にオンラインであるから、疑問に感じれば調べることも出来きてしまう。

たしかに繊細な者にとっては生きづらい世の中であるから、価値観を共有できる人たちと共存共栄することは幸福といえるが、その幸福は、次世代にとって、「閉塞感」かもしれない。

と、考えてみると、宗教が主体にある町も、いずれ過疎化してゆく予想は否めない。

ここまで文明が進んでしまうと、人が人体を離れ「バーチャルな世界」で、貨幣を得て、税金を納められるようにならなければ、田舎の町は維持できないのかもしれないが、人類が無機質なものにならないかぎり、「バーチャルリアリティ」と呼ばれる「ユートピアを併せ持つディストピア」な世界は訪れないのではないかと思う。

話はずいぶん逸れてしまったが、「ハヤブサ消防団」の最終話。とても楽しみにしています。


こんな田舎に国境線?

2023-09-08 16:58:28 | 日記
散歩をしていると、道端の土手で草を刈っている自治会の役員の方に出会ってしまった。
気まずいなと思いながらも、挨拶をすると、笑顔を見せながらこちらに近づいてきて話しかけられる。

これは長くなるぞと覚悟し、しばし話に聞き入る。

話題の主題は僕の住む地域についてであったが、長い話の中にも興味深い話があった。
今回はそれを一石。

地方都市のサイドコーナーで、過疎化の進む地域では、自治会の存続も危うくなりつつあり、次の自治会長や役員の引継ぎ問題が顕著になってきている。
つまり、「引き受けたい人がいない」問題である。

一昔前ならば、地域一帯が農家で、農業が生業であることが普通だった。もちろん、自営の農家になるので、定年もなく農業に専念することが一番大事だった。
だから、その地域の中でも、その地域で暮らす農家に向けた農業ではない職種を生業とする人や、役所勤めをされていた人たちが、これまでの自治会を取り仕切る形になっていた。しかし、今では、その人たちも鬼籍に入り、その次の世代は勤めに出ている人がほとんどなので、勤め先の事などが優先になったので、地域の事を主として活動できる人がいなくなった。

それは、田舎の自治会の「あるある」なのではないかと思うが、興味をひかれたのがそこではなくて、「区割り」の話であった。

僕の住む町では、回覧板があり、それを地区の中でもさらに9つくらいに割った区域で回している。そして、その9つの区画の中には、それぞれに「名称」があり、たとえば、「何々谷」とか「何々原」という呼び方で分けていた。

その名称は、僕の世代になると、ほとんどなじみがないのであるが、10年上の世代になると、その慣習が残っていて、80代以上の人になるとその名称に愛着のある方がいる。

最近になって、立派な門構えのあった空き家が取り壊さえ、そこに新しい家族が家を建てて移り住んできた。
その事象は、人口が増えていい事なのであるが、年配者の人達にとっては、その家族はどの区画に入ってもらうかで、揉めている。

僕からしてみれば、どこでもよいのではと思うのであるが、昔からの名称に愛着のある元役員の人が「あそこは、あの筋だから何々原に入ってもらおう」と言い出した。
すると、そのとなりの何々谷の元役員の人が「いやいや、あそこは何々谷だから、うちにはいってもらおう」という話になったようである。

そう言う事態に陥ったのは何故なのかを疑問に思ったので、なるべく角が立たないように聞いてみると、さらに不可解な話が聞けたのである。
僕の地区の住人は70名ほどで、一区画8名ほどなのであるが、なぜだか「こちらのが上だから」というような考え方をする人がいるようである。

確かに、街道沿いに立ち並んだ今では朽ちかけているお屋敷の家々からしてみれば、他の家は、戦後の農地改革によって、土地を持てたのだから、その記憶が色褪せない人々にとって、そのような価値観はまだ残っているのかもしれない。
また、先駆的な考えの人が、「名称を廃止して、数字で区分けした方が分かりやすいのでは」と意見すると、名称に愛着のある人たちから反対されたということもあったようであることから、「何々原」や「何々谷」という、住所にも載らない名称にはブランド力もあるようである。

しかし、子供がいなくなり過疎化も進んでいる状況の中で、新しい家族が住んでくれるようになったのに、新しい住人には関係のない価値観で揉めているのである。

それでいて、小学校の合併や廃校に反対をしているのだから、上手く理解できない。

牧歌的で、縦社会で、田畑や山や川が、住民の皆の力で守られていた時代の価値観そのままに、自治も執り行おうとするのは、年配者の過ぎ去った時代への執着としか思えないのであるが、それは、いつの時代の移り変わりでもあったことであろうから仕方のない事なのかもしれないとは思う。

でも、70人しか住んでいない、しかも7割が高齢者である地域で、10戸未満の区割にもこだわっている人がいる事を知って、「こんな身近な所に国境があっただなんて」と、複雑な気持ちになった。

そして、ふと思った。平和というものは意外と脆い土壌の上に存在しているのかもしれないと。

「こんにちは、母さん」を観る。

2023-09-03 16:23:44 | 日記
昨日、妻が妻の友人からの勧めで映画の前売りチケットを購入してきた。

その映画は、山田洋二監督の「こんにちは、母さん」である。

レンタルになってから観ればいいかなと思っていた映画であるが、これはいい機会に巡り合えたと思い、早速映画館に足を運ぶ。
大きなスクリーンで鑑賞する山田洋二監督の映画は、小学生の頃、親戚のおばさんに連れられて観にいった「男はつらいよ」以来。

どんな映画なのだろうと、ワクワクしながら観始めると、物語の中にすぐ没入した。
つまり、すごくいい映画だったので、熱が冷めないうちに、ネタバレしないように気を付けつつ、ここに感想をとどめておきたい。

まず、当たり前かもしれないけれど、脚本が秀逸。
そして、演者さんのセリフの言い回し、カメラアングル、カット割りも最高で、伏流には小津安二郎さんの軌跡が流れているのがひしひしと伝わってくる。

そこをもう少し掘り下げると、終戦後の小津作品は、「一人残されることを受け入れる父」の心情が物語の最後の余韻を残していましたが、「こんにちは、母さん」では、そのタイトルが示しているように、フォーカスを女性に移し、「母」の心情が物語の最後の余韻を残します。

それは、現代では、歳を重ねても女性の方がアクティブな人が多く、残されるのは「父」ではなく「母」になったので、フォーカスを女性に移して、小津のテーマを現代に再構築して作品にされたのではないかと思う。(もちろん、永井愛さんの原作が素晴らしいから)

そして、大泉洋さん演じる男は、母である吉永さんや、娘である永野さんに苦悩する。そして、男の妻である人の、「顔」が表れないところも、(宮藤官九郎さん演じる男も)女性主体であることを暗示しているように思う。
また、田中泯さん演じるホームレスが大泉さんに語る言葉の意図が、小津作品の「かけがえのないものの欠如に耐える」(内田樹さんの小津作品の解釈)を、「本当は苦しいのである」と、言葉にして表したのではないかと思った。

さらに付け加えると、寺尾聡さんが演じる牧師さんの礼拝時の言葉も、この物語の大切なピースになっているのではないかと思う。

これ以上述べると、ネタバレになってしまうので、(本当はもっと述べておきたい! )この辺りでやめておきますが、エンターテインメント性が重視される昨今の時節では、ヒット作品になりにくいとは思いますが、すごくいい映画だったので、特に40代後半の人には一見の価値ありと思います。


最後にもう一言だけ。

吉永さんの独り言の、「よいしょ。」は衝撃的でした。でも、その演技力に感動しました。(笑)

「VIVANT」に沼って。

2023-09-02 20:27:15 | 日記
テレビドラマ「VIVANT」の考察がネット上で盛り上がっているという事象を、「THE TIME」で知った。
僕も毎週録画をして欠かさず観ている「VIVANT」。考察で盛り上がるのも頷ける。

キャスティングの豪華さや、ストーリー展開も面白くて、必ず次はどうなるのかが気になりつつ毎回終る憎い演出も最高である。
たしかに、そこも素晴らしいのであるが、僕は、特に、モンゴルのロケーションの美しさに魅了され、まるで、映画を観ているようで、そこに沼ってしまった。
ラクダに乗って砂漠を渡るシーンはその美しさに見入ってしまって、思わず「砂漠に行きたい」とつぶやいてしまったほどなのです。

さてさて、考察の件なのですが、誰が裏切り者かで盛り上がっているらしいけど、僕としては、それぞれの「正義」がとても気になるところなのです。

テントという組織も公安も別班も、それぞれの正義の為に活動をしているので、その「正義」がなんなのかがはっきりしなければ、「VIVANT」の物語は、面白いだけになってしまう気がします。

とくに「テント」という組織が、資金を着服した罪を「死」を持って償わなければならなくなるくらいに目的が明確になっているので、なぜ、そこまでストイックになるのかが明らかにならなければ、公安も別班も何を追いかけているのか分からなくなるはずです。

「最終目標は日本」であるという伏線が張られているけれども、なぜ日本なのか。それが、なぜ日本の治安を守る公安の元職員である乃木の父、ベキが首謀しているのか。
おそらく、テントの全容が明らかになってゆくと公安も別班も自分たちの正義を疑わなければならなくなるのではと思う。

そこで、彼らは、初めて苦悩するはずである。正義とはなんであるかを。
そして、彼らに待ち構えているラスボス的敵は、おそらく、弱きものから搾取する「大国」であることに気が付く。

ハリウッド映画なら「自国の政治家や階級の高い軍人」という人達になるけれど、日本のドラマはそこを敵とみなしてドラマを撮れるだろうか。

たぶん、この予想は外れていると思いますが、福澤克雄さんには、「それぞれの正義」という部分もしっかりと描き切ってほしい。

そうでないと、僕ががっかりしてしまう(笑)

福澤さん。毎週楽しみにしているので、どうか、よろしくお願いします。


変わってゆく時代。

2023-09-01 10:19:35 | 日記
僕が中学生の頃のテレビ歌番組には歌番組が沢山あって、放映された次の日には、アイドルの話で盛り上がっていた。
特に女子の9割はジャニーズのタレントさんを推すという人気であった。
しかし、ジャニーさんのダークな噂はその頃からあって、時々話題になっていた。

そして現在。ジャニーズ事務所の問題が内外問わずあらゆるメディアで取り上げられている。
メディア側もその事について黙認し続けたのは、メディア側の構造に問題があったと言われている。

では、なぜ、今問題が公になったのだろうか。
その事について少しばかり考えてみた。

インターネットの普及で、若い人がテレビからネットへ移行し、Kポップアーティストが次々に現れ、LDHのアーティストの活躍も大きく、昭和70年代後半から続いたジャニーズ1強という時代が終わり、ジャニーズに付随していた広告収入が減少し、ネット上の批判が社会的に力を持ったことと、功労者がこの世を去ったことで、メディア側も「これ以上忖度しても利益は見込めない」という考えになったのではないかと思う。

テレビ局はお金と権力の流れで動くものだから、時代が変われば価値観も変わる。
それでも、今まで通りに事が進むであろうと考えていた経営陣は、時節の変わり目に対応できなかったのだろう。

そして、加害者の方たちがジャニーさんの死後に声を上げたのは、メディア側の構造の問題はどうにもならないものなので、芸能界の功労者にメディア側が忖度しないで済むタイミングが「死後」というタイミングだったのではないかと思う。

エンターテインメントは夢を売る仕事なのだから、夢見る人達の夢を奪ってはいけない。