硝子戸の外へ。

善いことも悪い事もわけ隔てずよく見聞きし、考え、足らない事を知り、恥をかきつつのんびりと独り言をつぶやいてます。

宗教って無力なのか・・・。

2013-03-31 09:45:44 | 日記
朝のニュースでお坊さんが母親を殺傷したと報じていた。

お坊さんならば読経するはずである。経を詠むとは日々学ぶ事なのではと思うのだけれど、毎日詠んでいても心に響かないものなのだろうか。

仏教の祖であるお釈迦様はまず「怒るな」と説いています。それなのに自分の親を「口うるさい」という理由で刺してしまったお坊さんの心境とはどんなものであったのだろう。口うるさい親に腹を立て、怒りを爆発させたのは長年の蓄積もあるとはおもうけれども、お経を詠むことで怒りを心のなかで小さくする事が出来なかったのであろうか。

しかし、人の業はそれ以上に深く、お経を詠みすべてを仏に任せることの難しさをこの事件は物語っている気がします。

宗教は無力なのでしょうか。それとも、今以上に人の心が荒まない楔になっているのでしょうか。
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竹やぶに想いを・・・。

2013-03-30 21:04:18 | 日記
近年過疎化が進み山の手入れがされなくなっているところが多くなったように思う。竹林も同様であり、生え放題生えている。

昔、竹は資源の一つで生活用品や住宅の建材に使われていた。だから山にわざわざ竹を植林した方も多い。

しかし、わずか四半世紀で竹の需要は石油化学の登場によってほぼ活躍の場を追われることとなった。

資源としての役目を終えた竹は四方に根を広げこの季節になると隙間を縫うように地面から出てきます。地面から顔を出す前に採って食すると大変おいしいのだけど、ほおっておくとあっという間に伸びてしまいどうにもならなくなります。

ちなみに、観光地で観る見事な竹林は人の手によって手入れがなされているので美しいと感じるのです。

手入れのなされていない竹林と言うのは、本当に美しくないのです。うっそうと生い茂ります。

そして、生えすぎた為にその場所の土から栄養が採れなくなり、栄養が採れない竹から枯れてゆきます。

つまり、需要に対し供給が追い付かなくなるのです。

自然という資源が必要不可欠ならば、だれもがその資源を必要とするでしょう。しかし、その資源の量が決まっていたら、必要とする範囲が拡大すると、資源が行渡らなくなるのは必然。資源は常にリードするものによって優先される。すると資源が手に入らない処が必ず出てくる。資源が手に入らない処は消費する事も生産する事も出来ず、ゆっくりと衰退してゆくのではないかと思ったのです。

自然淘汰とはこういう事かもしれないけれど、それは私たち人間に対しても同様なんじゃないかなと荒れた竹林を見てふと思ったのです。
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何故に。ストーカー被害過去最多。

2013-03-28 21:24:49 | 日記
警察のドキュメント番組の中でストーカー事件を取り上げていた。そこで思った事を少しだけ述べておこうと思います。

女性から別れ話切り出されたが、男性がそれを認めず、再び関係を戻そうと脅迫まがいに詰め寄り恐怖感を与えたるというもの。

とても好きな人なのに、一方的に交際を断ち切られる心情はとても分かる。とても辛いものね。

別れを切り出す女性はいつも精神的に大人で別れ話を切り出される男性は狼狽する。

もちろんその逆もある。恋愛は惚れられた方が優位な立場であるが故に、別れ話の際には惚れた方が涙を飲まなくてはならない場合が多い。


その恋愛がストーカーやドメステックバイオレンスという犯罪を生じさせ、社会問題となった背景には何らかの問題が潜んでいるように思う。

男性が恐怖によって女性を拘束しようとする行為は、男性が女性の気持ちを酌めないからであるけれど、どうして相手の気持ちを無視してまで自身の気持ちを充足しようとするでしょうか。

人格形成の過程で何かが欠落していたのでしょうか。それともコミニュケーションが上手く取れないからでしょうか。

もしくはゲーム感覚の延長か、それとも、(女性=母)という概念が他者の女性にも適応されているからでしょうか。

それぞれに原因の要因はあるとは思うけれど、もし、女性=母、という概念がストーキングする男性の深層心理に根ざしていたら、彼女=母という代替え行為が働いていたのではないかと考えるのです。

精神的に母から自立できない男性は誰かに甘えていたいものであると仮定すると、恋愛関係に発展した彼女の立場は、母からの感情がそのまま移行したものと考えられる。 母は無条件に自身の子供を愛するけれど、恋愛から構築した関係は相思相愛でなければそれ以上の深さを築けない。 それが理解できていない男性は、一度付き合いだしたら「離れないだろう」と思うのは自然。彼女に対し理不尽な行為をしても母のように赦してくれるだろうと理解するのではと思う。

必ずしも結婚が恋愛の延長線上にあるとは言えないけれど、どこかしらで女性は新しい自分の人生を築こうと思っているのではないでしょうか。

方や延長。方や創造。そこがストーキングする男性側とされる側の女性の気持ちのずれであるのであろうと思うのです。

恋愛は辛いものでもあるし楽しいものでもある。明日を頑張れる活力源であるし、苦しみを分かち合ってくれる存在でもある。
時には周りが見えなくなるほど夢中になる。だから、人はいくつになっても恋愛に焦がれるのでしょう。だから、客観的、冷静になって恋愛する事は本当の恋愛ではないとも言えるでしょう。しかし・・・。


「こんなに君の事が好きなのに、どうして君は僕のもとを去ってゆこうとするの?」

悲痛な面持ちで彼が彼女に迫る。すると彼女は彼から目をそらし、

「この人とは未来を築く事ができないわ・・・。」

と、心の中で呟き軽くため息をつく。

別れたくないという気持ちが、単に甘えであることを女性に見透かされてしまうと、取り返しがつかない事を男性はなかなか気付かない。

だから、だだをこねたらなんとかなるんじゃないかなと、考えるのはないでしょうか。しかし、ストーキングが「だだをこねる」と言う行為と同じである事を本人は気付けていない。なぜならストーキングしている事を意識できないのだから。したがって、大人が駄々をこねれば犯罪になりうる可能性がある事も同様に意識できないのだと思う。

それが、ストーキングに発展する動機なのかなと考え付いたのです。

しかし、どうして現在なのか。そして年々増加傾向にあるのかという疑問は消えません。それはまた日を改めて考察してみたいと思います。


恋愛は火遊びと例えた人がいたけれど、こういう色恋沙汰が後を絶たないという事は、ある意味的を射ているなと思うのです。






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時代の風雲児。次はどこへ向かうのか。

2013-03-27 22:19:57 | 日記
堀江貴文さんが仮釈放されたというニュースを観て、思った事を一石。

逮捕された当時の印象は「かなりエッジのきいた人。」

力任せに押し切って道を開いてゆく人。それが年長者達から反感を買ったのだろうと思っていた。

しかし、よく考えてみれば、新しい時代を切り開いてゆくのは、年長者から反感を買う若者。

古きを捨てて新しきを創造する。結果的に時代はそれを求めていた。こうやって時代は変わってきたように思う。

結果論でしかないけれど、もし、彼がフジテレビの株を買えていたとしたら、フジテレビの視聴率は此処まで低迷してないのではなかっただろうか。もちろん、大きな衝突も予想されるが結果的に数字として表れたのではなかろうかと考えるのです。

しかし、彼の傍若無人的振る舞いは現代社会にとっては「出る杭」だった。

逮捕劇は失脚であったけれど、結果的には叩かれて、少し角が取れてよかったのではないかと思う。

僕は彼のファンではないけれど、人としてとても気になる存在。彼はこれからどうなってゆくのかとても楽しみである。

彼の判断によって資産の損出をされた方もたくさん見えるだろう。彼を赦さない人もいるだろう。しかし、彼の嗅覚やセンスが色褪せていなければ、時代はまた彼を召喚するのではないかと思う。

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「哲学の道」を歩いて。

2013-03-25 19:50:25 | 日記
京都府左京区にある「哲学の道」を歩く。柔らかく温かな日差し。琵琶湖疏水の清らかな流れに椿の花を見つける。見上げれば膨らみ始めたつぼみの中に散見する桜花。季節はゆっくりと移り変わろうとしている。

ガイドブックにも掲載されるほどの観光名所だけあって、平日にもかかわらず沢山の人がカメラを持って思い思いに散策している。 

「哲学の道」という名は、哲学者の西田幾多郎先生やお弟子さんの田辺元先生が好んで歩かれたことと、ドイツにある「哲学者の道」から由来しているという。

後ろ手にしてぼんやりと小径を歩いていると、石碑が目に入る。西田先生が詠まれた歌が刻まれている。

「人は人 吾はわれ也 とにかくに吾の道を吾は行く也」

どんな思いでこの歌を詠まれたのだろう。ふと考えてみる。

眼前の壁のさらにその先へ行こうとする決意から生じる苦しみを詠んだのであろうか。

僕には想像がつかない。しかし、楽しんでいても、悩んでいても時間は過ぎてゆくもの。

そうでなければ、桜の花も咲くまいし、だからこそ、儚い優美な姿は、沢山の人の心を和ませてくれるのであると思う。

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自分を守る。もしくは依存そして生活。それは正義なのか。

2013-03-24 10:26:48 | 日記
教の朝刊の国際記事欄に「いっしょに平和なアメリカを取り戻そう」という見出しで、オノ・ヨーコさんがツイッターで銃規制を訴えたという記事が載っていた。

ジョン・レノンさんが凶弾に倒れた時、銃規制を訴えれば自分や家族に危険が及ぶ事を周囲から忠告されたのだという。

世の中は矛盾に満ちていてることは分かるけれど、だからといって、どうする事も出来ない現実もあるのだという事がこの言葉から読み取れる。

常に強者が弱者を搾取する構造は、法律や宗教をもってしても変えることはできないのでしょうか。

天国も国境もない事をイメージする事は誰かにとっては大変不都合な事なんでしょうか。

人々は荒野を歩み続けるしかないのでしょうか。

人の命を守る道具は、人の命も奪う。その道具を作る事を生業にするといずれ手放せなくなってしまう。生産する事とは沢山の人の手に渡るという事である。道具には意思がないけれど、誰かの手によって人の命を奪われ、また守り続けられる。

はたして、そこに正義を求める事が出来るのであろうか。



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過ぎさった年月にため息をつく。

2013-03-22 17:05:17 | 日記
職場のテレビが春の選抜高校野球を映していた。僕はあまり興味がないのですが、何気に見ていると不意に不思議な感覚に陥った。

そして、高校球児はいつから年下の人になったのだろうか?(笑)と、考えてしまった。

人は年を重ねてゆくのだから、いつかは高校球児より年上になる。当り前である。痛い話です。(笑)

でも、不思議な感覚が自身の中に生じるのには、理由があるはずである。そこを少し考えてみた。

甲子園球場で行われる高校野球はテレビと言う媒体を通して知る。テレビと言う機器は随分進化したが、テレビを観るという行為にはさほど変化がない。したがって、人がテレビを見る時、実年齢を意識して視聴する事はないと思う。そこが思考の落とし穴である。

ぼんやりとテレビを観ている「私」はテレビと言う媒体を意識し始めた年齢からほとんど歳をとっていないのだと思う。

無論、考え方は学習や経験によって広がり、それによってものの見方も大きく異なる。しかし、ぼんやりと観ている時はおそらくいつまでもテレビを意識して見始めた年齢であると思う。だから、そのまま観ていれば今の私を忘れたまま見続ける事が出来るが、テレビを見ている「私」を突然客観視したものだから不思議な感覚に陥ったのだろうと思う。

高校球児は爽やかである。応援する女子高生も眩しい。国歌斉唱を行った少女も素晴らしかった。それを思うと僕は本当に汚れてしまったと思う。(涙)

試合が始まり、ピッチャーがボールを投げる。改めて観てみると、ものすごくしなやかに身体を使って投げているのが見て取れた。僕も思わず真似をしてみると、ビックリするほど身体が動かない事に気づく。ボールを投げるという動作を何十年としていないから無理もないが、それでも泣けるほどピッチングホームがぎごちない。バッティングもしてみるがスイングも恐ろしいくらい身体が回らない。

そして、過ぎ去った年月の長さにため息をついたのである。

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ある日突然平和ではなくなる?

2013-03-21 17:18:14 | 日記
隣国の緊張が高まっている情報がメディアを通して伝わってくる。それをどう理解すればよいのか僕には分からない。

不安に駆られながらも、只々日常の生活を繰り返して行くだけであるけれど、その日常が、ある日突然途切れてしまうかもしれない。国と国とが争い合う、戦争とはそういうものであるけれど、平民にとって無くてもいいものだと思う。歴史を顧み、今なお続く紛争地の様子を知るとつくづくそう思う。

しかし、世の中には争う事が好きで好きでたまらない人が必ず存在する。人の命を貨幣に換金することを躊躇わない人がいる。

権力と言うものを自己満足に使うことが好きな人がいる。戦争はそんな人達が支配し、その為に多くの命が奪われてゆくのではないかと思うのです。

もちろん、その争いは大義であるという理由もあるかもしれないが、双方がその方の大義の為に争い合えば、どちらかが負けを認めるまで争いは続く。

その前に対話で止揚を目指す事は出来ないのかなと思ってしまうのです。

ある日突然「開戦」という見出しの新聞記事を見る事になり、次第に戦闘範囲が拡大し、その争いの火の粉が私達の日常を奪ってゆく。焦土と化してゆく都市。そ戦後という言葉を再び見る事になるのかもしれない。

何事もない事を願うばかりです。
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博打で勝てるのは運と才能の持ち主である。

2013-03-17 16:39:00 | 日記
博打とはトンと縁がない。パチンコも年一回であるし、競輪や競馬もしない。マージャンもルールを覚える前に興味が無くなってしまった。

年一回のパチンコも一万円と言う上限を設けてその年の自分の「運」を見るのであるけれど、勝ったためしがない。
確かに換金するときには「もう一度試してみるか」という欲もでてくるし、もっと泡銭を稼ぎたいという気持ちにもなるけれど、僕にはどうも、博打における引き(運)と才能がないので早々に忘れてしまう。

しかし、宝くじは春と夏と年末に購入している。宝くじは本当に運だけであるから、その可能性を信じてとりあえず買っておく。でも、当たったためしがない。その度に来シーズンは止めておこうかな思うのだけれど、CMで流れると「とりあえずエントリーしておくか」「外れても誰かの何かの為になる基金だから」と自身に言い訳し購入してしまう。

そして、少しだけ当たった時の事を考えるのであるけれど、妄想だけで終わってしまう。

そんな僕がコンビニで買い物をしていた時、ふと目に留まったのが「toto BIG」の広告であった。

「これは、何かのお告げかも。」と勘違いし、機械の前で購入手続きを読みおそるおそるパネルを押しつつ購入してみた。
機械操作に疎いけれど、以外と購入しやすい事に気づく。

実は、サッカーはあまり興味がない。僕は球技音痴なので、プレイヤーの技術等に惹かれるのだけれど、いざ自分でボールを蹴ると大変かっこ悪いのでほとんどしたことがない。サッカーとはそれくらいの距離である。

しかし、このくじも(運)がすべてである。上限を千円としたけれど(運)があれば、六億円である。

結果はインターネットで見れるというから、チェックしてみるとやっぱり外れている。運がないのである。

しかし、もう少し多く購入していれば当たった可能性だって生まれる。そう考えると「その時に適切な金額を投資出来る事が、運を引き寄せる事につながる」のかもと考えると、やはり博打は運と才能がセットになっていないと勝てないのかもしれません。

そのどちらも有していない僕にとっては「博打に手を出さない」事が最善であるという結論に至るのかもしれません。

パスカルはいいます。

「賭けをする者は、不確実な儲けの為に確かなものを賭けるのである。」





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ローマ法王とキリスト教

2013-03-15 13:49:00 | 日記
幾度となく目を通すニュースなので、個人的に思った事をほんの少しだけ述べておこうと思います。

ローマ法王がフランシスコ1世に決まり、カトリック派に安堵感が伝わっているけれど問題は多いという。

けれども、問題の本質は「人」であって「信仰」ではないように思います。

なぜ、信仰に問題がないのかと言うと、イエスを愛していると断言しながらも、自身の弱さゆえにイエス・キリストを裏切っている人達の「罪の意識のなさ」に問題の根源があるのではないかと思うのからなのです。

たしかに、現代社会は誘惑で満ちているので、誘惑に負けてしまうのも仕方がないとは思うけれど、それではイエスに仕えているとは言えないのだと思う。

どうして、そうなるのか。それはイエスへの信仰が、いつの間にかイエスを信仰している自身を信仰してしまうからなのだと思う。

人は少しでも偉くなると、知らず知らずのうちに慢心してしまう。それは内なる神を忘れてしまうという事。

自身の心から神が居なくなれば、人の感情は欲望の赴くままに流されてしまう。

そこに「罪」が生まれる。そうなると愛すべきは自分自身のみであって、隣人や内なる神ではなくなる。

そうなってしまうと、偽りの言葉を並べるようになり、隣人に対し愛を与え無くなり、やがて「罪」がなんであるのか分からなくなるのだと思うのです。守るべきは神のみ言葉であって、蛇の言葉ではない事を忘れてしまうのです。

しかし、司祭や神父だけでなく、誰の心にもそういった部分が潜んでいて、つねに囁くのです。「あなた方はそれを食べる時、あなた方の目は開け、あなた方は神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と。


信仰とはとても身近にあるものでもあるけれど、実は深遠であるものでもあるような気がするのです。







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会合で怒鳴り合いってさ。

2013-03-12 21:16:26 | 日記
TPPをめぐり自民会合での怒鳴り合いの映像が流れていた。正直少し不快であるけれど、個人的な感情は置いといてその事について思った事を一石。

まず、同じ党内なのにまとまらない理由ってなんだろうと、不思議に思ったのです。

でも、よく考えたら同じ党でもまとまらないのが普通なんだなと言う事に気づいてんですね。

僕たちから見れば、あの光景は少し異常であるけれど、でも二人の議員さんが合わないのは、同じ党内でもお互いに守りたいものが違うからなんでしょう。

当選した地域の主な産業の後押しを受けているのだから、当選した地域によって守るものが異なる。

たとえば、戦後からの復興や高度成長といった、日本全体が目指すものが一つならばおそらくここまでもめなかったのだと思う。
しかし、日本経済は高度成長からゼロ成長におしだされてしまった。そして、自然に成長目標は分散化、多様化し、国民においても家父長制度が色褪せ、核家族化、個別化か進んでしまったのだから、その分だけ主張や権利も増えるのは必然であるように思う。

TPP交渉は海外が相手である。また、ゼロ成長からの戦略なのだから、だれもがハッピーな選択というのは難しいと思う。したがって、誰かが少しばかり涙を飲まなくては事が上手くいかない気がするのです。

もし、誰もが善い結果を望むならば、鎖国し(この場合ネットも国内のみ)自産自消することで国が生き延びれるように構造改革せねばなるまい。

それは、江戸時代に逆戻りするということだけれど、きっとそんな世界、誰も望んでいないと思うのです。

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東日本大震災。

2013-03-11 17:02:39 | 日記
あれから2年経ってしまった。時間の経過が早いのか遅いのかよく分からないけれども、ニュースを観る限り「遅い」と感じている人の方が多いような気がする。

起こってしまった事、過ぎてしまった事に対して色々言うのは簡単であるけれど、思っている事を少しだけ述べておこうと思います。

まず、原発。 使い終わった核燃料の安全な処理方法が整備されないまま、安全であると謳い施設を増設していった経緯がよく分からないのですね。小さな島国だからエネルギー資源は海外に頼らざるを得ない。それに反して製造業を繁栄させていこうと思ったらエネルギーは不可欠である。原油やガスに頼っていては円はどんどん海外に流れてしまう。国内で貨幣が回らなくなる。国内でエネルギーを生産し製造部門で消費し物を作り海外に輸出し外貨を得る。そしてなるべく国内でお金を動かし経済を発展させ国民の暮らしを豊かにするには、多少のリスクを背負っても原子力は必要であったのだと思う。

誰かの計画通り暮らしは豊かになり経済は繁栄した。しかし、それはリスクに対して怠慢になる要因だったように思う。

福島原発のデザインをする際にも、予備電源を高台に設置する事にお金を掛けるより、別の処にお金を掛けた方が善いと思った人がいたのだと思う。海の近くならば浸水する可能性も視野に入れるべきだったのだろうけれど、なぜか地下に設置してしまった。

天災によってそのリスクが表面化してしまったわけですが、結果、高台に設置するよりも高くついてしまったし、放射能という見えない脅威は人を住めなくしてしまい、着地点すらも見出す事が出来なくなってしまった。

温故知新という言葉があるけれど、人は過去の出来事から何を学べばよかったのだろうか。

豊かになりたいと思う気持ちは誰にでもあるけれど、そのすべてが人間の科学力で補えるだろうという考え方は少し間違っていたのではと考えてしまう。地球は生きているけれど、私達はその構造や動きのすべてを理解していない。それは科学力で補えなえていないということではないだろうか。どこか甘く見ているとこんな風に悲劇が生まれるのではとも感じてしまうのです。

お金は大切です。多ければ多いほど気持ちにゆとりができる。現在、円安が進み株価が上向いている。経済活性させれば、被災地に回すお金も増えるだろう。その為にはエネルギーを確保せねばならない。原油やガスに頼っては円が外に流れてしまう。これだけは何としても避けなければならないという気持ちも分かる。でも、このロジックは振り出しに戻してしまう事になる。

そして、経済が上向けば、必ず横着をする人が出現し、誠実に事を進める事よりリスクを先送りし私腹を肥やす事に目を向けるだろう。そして同じような事が繰り返されてゆく気がするのです。

これは、どんな規制を掛けても避けられないと思う。何故ならそれが人間であるように思うからです。

どうすればいいのか。僕にはわかりません。

寺田虎彦さんの言葉を最後に記して閉じたいと思います。

文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顚覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。




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やっぱり面白い。

2013-03-07 21:13:06 | 日記
職場では朝からテレビが付いている。いつもほぼ決まったテレビ番組になっている。時々仕事の手が空いたとき、認知症おばあちゃんと一緒にワイワイ言いながら鑑賞している番組がある。

それは午前中に再放送されている「暴れん坊将軍」午後の夕方から再放送されている「水戸黄門」なのですが、かなり面白い事に気づいたのです。

二つの番組はもちろんリアルタイムでも見てはいるのですが、当時、テレビは一家に一台。(笑)当然少年であった僕にはチャンネル権はない、したがって大人達と一緒に見ていたのですが、それでもつまらなくはなかったという印象は残っている。

しかし、大人になって改めてじっくり観てみると、その完成度に驚かされる。勧善懲悪という分かりやすさと起承転結という物語の進みを必ず守ってくれており、鑑賞後の爽やかさは他のドラマでは味わえない。

また、里見光太郎さんや松平健さんの殺陣の鮮やかさには思わずほれぼれしてしまう。なんていったらいいのか。リアルに刀で斬り合う泥臭さはないんだけれど、(血がどばどば出るとか、腕がすぱっと落されるとかは一切ない。当時はきっと意図的に排除されていたんでしょうね。)脈々と受け継がれている伝統芸能というんでしょうか。とにかく刀さばきが鮮やかなんですね。

そしてカメラは殺陣がどう撮ればかっこよく映るか、とても考えて撮られているんですね。当然それは少年時代には気がつかない。それがわかるようになったとき、かなり感動しました。

また、毎回同じような形で話が進んでゆくけれど、それを分かった上で話を創作し続けてゆく脚本家さんのご苦労。本当にすごいなって思います。作家ならば個人的なメッセージも込めてみたいという欲求もあったでしょう。しかし、それは表に出さずに枠にはまるように話を作ってゆくのですから、ストレスも大きかったんじゃないかなと思うのです。

それでも、思わず感動してしまうお話もあるので、その時は思わず「さすがだなぁ」と呟いてしまいます。

また、ゲストの女優さんも大変若く、当時幼心にほのかな想いを感じた女優さんに再会すると不思議と胸がキュンとする。
最初は「なんだこの気持ちっ」と思って、ビックリしたけれど、冷静に考えてみると基本好きなタイプの人は変わらないのかなと思ったりもしたのです。(苦笑)

様々な感動を呼ぶ粋な時代劇。もう、そのうち誰も見なくなってしまうのでしょうね。

僕らが高齢者になった時、トレンディドラマの再放送を観てワイワイ言うのかなと思うとなんか変な感じがします。

なぜなら、物語の形は、鑑賞後に爽やかさを残さない男女の惚れたはれたが大半をしめるから・・・。




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こんなこともあるんだね。

2013-03-05 19:05:49 | 日記
最近ずっと気になっていた歌があった。サビの部分が頭の中で再生される度、全体的にはどんな曲だったかなぁと考えていた。

随分昔の曲なので、なかなか聞ける機会もないなと半ばあきらめていたのですが、それが今朝、車の中でラジオをつけるとその曲が流れていた!!

こんなこともあるもんだなと驚きつつも、途中からなので全体が気になる。

なんとかならないものかとよく考えたら、現在は2014年である。ユーチューブがあるではないか。

帰宅後早速検索すると、あっさりとヒットする。しかも様々なバージョンもそろっている。大変素晴らしい世の中だなと感心しつつ、再生する。

若き日のジュリー。沢田研二さんの「サムライ」である。

あの頃はまだ子供だったのでその詩の内容もよく分からない。だから、へんてこな替え歌で歌っていた記憶が思い出される。

作詞は阿久悠さんである。今考えると恐れ多い事をしていたなと思う。そして当然ながら本当にいい歌で、ようやくその世界感が理解できる歳になった気がする。

視聴後の感動。至福の一時を味わう。画面にはジュリーの他の歌と共に、その時代のアーティストが紹介されている。

つくづく便利だなと感心しつつ、聴きたい曲をクリックすると、新たな画面には「この曲聴きたかったな」という曲が案内されている。つぼを押さえたなかなか憎らしいシステムである。

次から次へと聴きたい曲を聴いていく。歌詞は出ないけれど不思議と口ずさめる。次第に気持ちが高揚してゆく事に気づく。大声で歌いたくなる欲求を抑えつつ、ふと我に返る。目的はすでに達成したのだからと、画面を閉じる。

そしてふと考える。やはり音楽は突然の出会いと辿りつくまでの過程が長い時が一番感動する。聴きたいときに聴きたい曲が聴けてしまう事は便利であるけれど、欲求があっさりと消化されるとまた次のものへと欲求が移ってゆき、最初の感動があっという間に薄れてしまうような気がするのです。こうなると音楽というものも「大切な記憶」というより、消費されるものとなってゆくのかもしれません。

しかし、スピードが求められている以上、この事象は避けられぬものなんでしょうね。
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オートリバース。

2013-03-04 21:11:01 | 日記
カセットデッキにオートリバース機能が付いた時、僕は驚きと共に嬉しさを感じていた。それまではカセットのA面が終わると一度カセットを取り出しひっくり返して差し込み再び再生ボタンを押すという大変めんどくさい工程があったが、オートリバースの登場と共にオールドタイプは姿を消した。僕自身もオートリバース付きのラジカセを購入しカチャッという音と共に反転再生される瞬間のあの喜びは今でも覚えている。当時は本当に画期的な機能であった。

あれからウン十年。今やmp3の時代である。あんな小さなマシンに千曲近い音楽が入ってしまい、なおかつ好きな曲を小さなスイッチ一つで選び出し再生できるのだから本当に便利になったなと感心することしきりである。

さて、ビックリする話であるが、そんな時代であっても職場のラジカセはオートリバース機能が付いていないのである。(苦笑)
職場の青年が(23歳)が、片面終わるごとにカセットをひっくり返しては再生しているので不思議に思い

「それって、オートリバース機能が付いてないの?」と聞くと、青年に

「オートリバースってなんですか?」と尋ね返されたのだった。その時、僕は激しい衝撃を受けた。

確かに、平成元年生まれの青年がカセットテープをガチャガチャする事の方が珍しい光景。
なんと言ってもスマホで音楽を聴く世代であるし、彼らの音楽再生方法の記憶はCDから始まっているのである。

とりあえずオートリバース機能の説明をするも、それに何の意味があるのだろうかという気持ちが頭を過ぎる。
あれほど感動した機能も、もう昔話にしかならない。時代の流れってある意味残酷である。

説明を終えると「そんな機能が付いているのもあるんですねぇ。」と一言。

現在でもカセットテープは売ってはいるものの、風前の灯火。時間をかけて好きな曲だけ集めて、テープが伸びきるまで聴いた思い出ももう遠い昔の話。時代に乗り遅れた者たちへの配慮は乗り遅れた者たちが消えるとともにこの世から消えてゆくのだろう。

でも、それが時代というものであるし、継承されるもの、消えてゆくものも、また、時代によって選ばれるのである。

しかし、必要してくれる人がいる以上頑張らねばならない。それも大切な役目である気がします。

職場のCDラジカセもいずれ現役を引退する時が来るのだろうけれど、機械ではあるけれどなんだか少し淋しさを感じてしまったのです。




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