硝子戸の外へ。

善いことも悪い事もわけ隔てずよく見聞きし、考え、足らない事を知り、恥をかきつつのんびりと独り言をつぶやいてます。

耳をすませば。 彼と彼女のその後  23

2013-07-31 07:53:00 | 日記
私の住まいは変わらずあの集合住宅だ。両親は私が就職した頃にすでに結婚していた姉が一戸建ての二世帯住宅を購入し、姉と旦那様の勧めでそちらに引っ越した。その際に私も職場の近くにアパートを借りて独り暮らしを始めるはずだったが、私はここがとても好きだったから両親からそのまま譲り受けた。

少し重い扉を開け、明かりのスイッチを入れると部屋が照らし出される。外に出かけた時、いつもこの瞬間がほっとする。
時計を見ると7時になろうとしていた。もうすぐ彼が帰ってくる。夕食の準備をしなければ・・・。 慌ててコートを脱いでハンガーに掛けた瞬間、さっきの出来事が脳裏によみがえってきた。

「そういえば、さっき天沢君にハグされたんだったっけ・・・。」なんだかドキドキしてきた。

「ダメダメ。しっかりしろ私。」

自分にそう言い聞かせて食事の支度を始めた。今日の予定は分かっていたから、昨日作っておいた彼の好きなカレーと、ツナサラダというシンプルなメニューだ。
食事の準備も終わり、一息つくと、彼が仕事から帰ってきた。

「ただいまぁ。」

「おかえりなさい。」

「お腹ぺこぺこ。おっ、今日はカレーだね。」

「うん。一日寝かしてあるから、更に美味しいと思います。そしてツナサラダです。」

「おおっ。好きなものばかりじゃん。雫さんありがとう。」

「どういたしまして。あっ、先にお風呂に入る?」

「う~ん。先にご飯かな。」

「じゃあ、用意するから着替えてきて。」

「おう。」

此処に私の日常がある。平凡でささやかだけれど幸せだ。もし、杉村君に出逢わなければ、取り戻せない過去を引きずってぐずぐずとした日々を送っていただろう。

「いただきます。」

「どうぞ。召し上がれ。」

「ふふふっ。美味いね。」

「へへへっ。本当に? ありがとう。」

むしゃむしゃと美味しそうにカレーをほおばる彼。すると突然、

「ところで、西さんのお葬式はどうだった。」

突然の問いに食べていたカレーが詰まりそうになった。何一つやましい事なんてないはずなのに動揺してしまった。
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耳をすませば。 彼と彼女のその後  22

2013-07-30 06:20:23 | 日記
「やっぱり凄いよ・・・。天沢君も変わらないね。」

「でしょ。だからイタリアの伊達男っていうのだけはやめてね。」
そう言って、また笑った。このままずっと彼の隣りで話を聞いていたいなと思ったけれど、駅はもうすぐだった。これが後ろ髪惹かれる想いというものなのだろうか。そんな気持ちを抱いている事を悟られまいと、思い切り背伸びをして話を切り出した。

「今日は、本当にありがとう。とても楽しかったわ。次は追悼ミサであえるのかな。」

「そうだなぁ。何かと多忙だしね・・・。そうだ。アドレス教えてくれる?」

「あっ。うん。いいよ。」そう言って、なぜか狼狽する私。慌ててポシェトから携帯を取り出す。

駅前のロータリーに車を止めた天沢君は、ジャケットの内ポケットからスマホを取り出した。彼の携帯の待ち受け画面をちらりと見ると、綺麗なブロンド髪の女性が写っていた。

「え~っと。赤外線機能だったかな。」

「そうそう。こうやって近づけてクリックすると・・・。」

「あー。きたきた。じゃあ、時間が出来たら連絡するよ。」

「・・・うん。」

天沢君は車から降りると、助手席側に回りドアを開けてくれた。なんとジェントルマンなんだろうか。恥ずかしい気持ちと嬉しい気持ちが入り混じって複雑だけど、気後れしないように車から降りると、彼は「じゃあ。また。」といって、私をハグした。

「えええっ!!」

「なになに。そんなにびっくりした?」

彼の腕の中で狼狽する私。その様子を上からのぞきこむ彼。しどろもどろになりながら、

「えっ。ええっ。ごめんなさい。こういうのほんと慣れてないから。」

「顔。真っ赤だよ。」

「・・・ばか。」

そう言って彼の胸を両手で押し返した。

すると、「雫らしいね。」と言って、軽く微笑んで車に乗り込んだ。
翻弄されている。そう思ったけれど、揺れる気持ちをどうする事も出来ない。
車の中から手を振る彼に手を振り返し、彼の車が見えなくなるまでその場に立ち尽くした。

辺りはすっかり暗くなり、街灯の明かりが忙しそうに家路へ向かう人達を照らし出していた。
私は大きく息を吸ってから、「えいっ!」と、気合を入れなおして駅へと向かった。それでも切符を買い改札を抜けると、なんだか悔しくなってきたから階段を全力で駆け上がってやった。
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耳をすませば。 彼と彼女のその後  21

2013-07-29 15:00:08 | 日記
「実を言うと、僕もイタリアに渡ってから知った事が多いんだよ。バイオリン作りってクレモナが有名だけれど、ドイツのミッテンヴァルト、フランスのミルクールも有名なんだよ。でもね、修復、鑑定に関して言えば、イギリスのロンドンなんだ。」

「へ~。イギリス。」

「そう、イギリス。修復技術を学ぶにはロンドンが良いと学校の先生が教えてくれてね。卒業したらボスに頼んで3年間ロンドンで修復の修行をさせてもらったんだよ。」

「ええっ。手紙にはそんな事書いてなかったじゃない。」

「そうだっけ・・・。まぁいろいろ大変な頃だったし、報告しなくてもいいかなって・・・。」

「ひどい!! 天沢君のいぢわる!!」

天沢君は隣で笑っている。悔しいけれどなぜか憎めない。そんな自分が嫌だなと思いながら、また天沢君の運転する車の助手席に座った。ハンドルを握る天沢君の手をじっと見ると、ごつごつとしてまさに職人の手である事に気づいた。

「イギリスも収穫が多かったな。なにしろ素晴らしい名器が次から次へと集まってくるんだからね。とても刺激的だったよ。それでね。イギリスのボスに美術館も見ておけと言われてね、工房の近くにあるアシュモリアン美術館にいったんだ。そしたらね。ストラディヴァリの「メシア」が展示されててね。それを見た瞬間、魂が揺さぶられたんだ。そして、僕もただ「バイオリンを作る」のではなくて、いずれは「メシア」のようなバイオリンを作りたいと思ったんだよ。」

「ストラディヴァリ? メシアって?」

「雫も一度は聴いた事があるんじゃないかな。ストラディヴァリウスというバイオリン。ストラディヴァリウスっていうのはストラディヴァリのラテン語の名称。メシアというのはその人が作ったバイオリンの一つなんだよ。」

「バイオリンが美術館に展示してあるの?」

「そう。おどろきでしょ。でも、ストラディヴァリが作るバイオリンの美しさはアートなんだよ。だから音色も含めて誰にも真似は出来ないといってもいい。」

「贋作は贋作だと分かってしまうの?」

「そう。そうなんだ。一流の職人ならコピーできるけれど、そのものにはならないんだ。なぜかと言うと、ストラディヴァリという人物はバイオリンを作るための木を自分で探したり、ニスの処方もストラディヴァリ特有のもので、しかも、五月の終わりの晴天の日という限定された期間のみに塗っていたというんだ。だから音を奏でた時、聴く人が聴くと明らかに違うというんだ。」

「へぇ~。バイオリンも奥が深いんだね。」

とても生き生きとバイオリンの話をする天沢君はあの時の天沢君と同じだ。何も変わらない。変わったと言えば二人の間に18年という歳月が過ぎてしまったという事実。戻す事の出来ない時間。でも、天沢君は秘密の場所で語ったように私に話しかけてくれている。

「そうなんだよね。後ね、バイオリンを奏でる「弓」にも、「名弓」というものがあってね。それはイタリヤ製よりもフランス製のものがよかったりするんだよ。その理由の一つとして、18世紀のフランス革命が大きく作用しているらしいんだ。面白いでしょ。」

「うん。すごく面白い!! なんだか物語が描けそうなくらい!」

「でもね。どんなに時代が経とうと、どんなに突き詰めていってもストラディヴァリという巨人が僕らの前に立ちはだかっていて超えられない。でも、現在のバイオリン職人は巨人を越えようと努力し続けているといってもいいよ。」

そういって遠くを見る天沢君は、私がどんなにあがいても見る事の出来ない風景を今でも追い求めているんだなと思った。
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耳をすませば。 彼と彼女のその後  20

2013-07-28 07:43:25 | 日記
斎場の扉が開くと、いつの間にか太陽は西に傾いていて、北風に揺れる木々の影が冷たい道路に伸びていた。日中の暖かな日差しはどこかに過ぎ去り、吐く息がまた白くなるほどに空気が冷えていた。寒さを感じ手に持っていたコートを羽織ろうとすると、天沢君が「貸してごらんよ。」と言うからコートを渡すと、そっとコートの両肩をつまみ、後ろから「袖を通していいよ。」と、言ってくれた。私は照れながら両手を少し後ろに回しコートの袖を通すと、天沢君は慣れた手つきでコートを後ろからすっと掛けてくれた。

「あっ。ありがとう。」

「どういたしまして。」

「なんだか手なれた感じがするんだけれど・・・。」

「今度は雫かよ。まいるなぁ。」

「冗談だよ。イタリアの伊達男さん。」

登志子さんの物言いが少しうつってしまったのかもしれない。それでも、こうやって話せる事がとてもうれしかった。だから今度は天沢君の近況が知りたくなった。

「ところで、仕事の調子は順調?」

「うん。いろいろ大変だけれど順調だよ。今度、東京にも工房を開こうと計画しているんだ。追悼ミサまでに物件の確認やら商談やらを一通りこなす予定だよ。」

「へぇ~。天沢君すごい人になってしまったんだね。」

「そんなことないよ。僕よりももっとすごい人がいっぱいいるんだよ。」

自分の工房を出す。私からすればとても大変な事なのに、さらりと答えてしまうところが憎いなと思った。これはモテる筈だ。「イタリアの伊達男」まんざら嘘ではなさそうだと思ったけれど、それよりも彼の話の続きが聞きたくなった。

「バイオリンを作る人って、そんなに沢山いるの?」

「うん。沢山いるよ。バイオリン制作学校に通ってた時も、日本人の先輩がいたよ。あと、韓国、中国、東南アジア系の人、アメリカ、ドイツ、オーストリア、フランス、何しろ多国籍だったよ。」

「へぇ~。そうなの。全然知らなかった。」

「バイオリン製作って、クラシック音楽に関わってないと分からないからしかたがないよ。」

「私、勉強不足でした。ごめんなさい。」

そう言うと、天沢君は微笑んで、

「別にあやまらなくていいよ。それが普通だよ。」と、言った。

何処までも優しい人であると同時に、本当にカッコよくなってしまったなぁと思った。
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耳をすませば。 彼と彼女のその後  19

2013-07-27 06:02:51 | 日記
司朗さんの物語はこれでお終いとなったが、おばさまは久しぶりの会話を楽しむかのようにご長男の久貢さんのお子さんやお孫さんの話などをされた。私はこの場が斎場である事を忘れるほどにおばさまの話を楽しみ、いつしかこの家族の一員になったような不思議な感じがしていた。

しばらくすると、係員さんの案内が入り、皆で炉の前に移動した。炉の前に立つとさっきまでの楽しさが嘘のように厳粛な趣になった。係員の手によって炉の扉が静かに開けられ骨と骨灰が引き出された。台上にはもう司朗さんはいなかった。そこにあるのは、かろうじて留められている骨格だけであった。

皆の手によってお箸で砕けた骨を足から順番に小さな白い壺に納められてゆく。あんな小さな壺にその身が返ってゆくのだ。人間だって自然の一部なのだから、どう足掻いた所でその身はいずれ朽ち果てる。世は定め無きこそいみじけれなのだ。

頭ではわかってるけれどそれがどうしても上手く受け入れられない。親族の人たちは私にも声を掛けてくれたけれど、私はなんだか怖くなって遠慮してしまった。

骨上げが終わると、喪主であるお父さんが親族の皆さんに挨拶をした。西さんは登志子さんの両手の小さな箱に納まっているけれど、皆の心の中で生き続けてゆくのだ。そして、他のために生きた司朗さんはきっと神の右の座に行く事が出来るだろうと思った。

3日後に追悼ミサが教会で行われるというので、私も参列させてもらってもよいか登志子さんに尋ねると、快い返事を頂けたので参列することに決めた。

葬儀は無事に終わり、私は天沢君の厚意に甘え最寄りの駅まで送ってもらうことにした。すると、

「雫さん。気をつけなさい。聖司はもう少年ではなくて、イタリアの伊達男だからね。」

登志子さんはそう言って笑った。

「ひどいな。その言い方!」

「あら。だって、こんなに可愛い娘さんをイタリアの伊達男がほっておくわけがないでしょう。」

「あのですねぇ。雫は可愛いけれど、僕はイタリヤの伊達男じゃないよ。」

「あら、そう。でも、イタリア娘を何人も泣かせたんでしょ。」

「え~っ。そんなデタラメな話。何処で聞いたのさぁ。」

天沢君も笑っていた。そんな二人のやり取りを見てなんて素敵な親子なんだろうかと思った。朗らかに微笑む登志子さんとお父さんは軽く会釈をし「気をつけてね。ではまた。」と、挨拶をされた。

「こちらこそ。今日は大変お世話になりました。ありがとうございます。」

私は深々とお辞儀をし、二人と別れた。すると、今度はおばさまと甥っ子さんがやってきて

「今日は本当にありがとう。あなたがいてくれたから司朗さんの話が沢山できたわ。私自身も思い出せた事があって有難かったわ。では、また会いましょう。」

そういって、ご挨拶をしてくれたから、

「私も西さんの話を沢山聞けて、とてもうれしかったです。しかも斎場にまで押しかけてきた事を赦してくださり、ありがとうございました。」

と、言ってまた深々とお辞儀をすると、おばさまが手を振りながら甥っ子さんと奥さまと一緒に帰って行った。
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耳をすませば。 彼と彼女のその後  18

2013-07-26 05:57:05 | 日記
「おばさま。一つだけいいですか?」

「おや。雫さん。まだ何かあるの?」

「はい。よろしいですか。」

「いいわよ。なんなりと。」

「ありがとうございます。では・・・。司朗さんはドイツに留学していた時の話はなさらなかったのですか?」

「ドイツへ留学していた時の話・・・。」

私の見間違えかもしれないけれど、おばさまの表情が一瞬硬くなったように見えた。でも、すぐに穏やかな表情になり

「そうねぇ。最初の頃は言葉と食べ物でとても苦労したと言っていたわね・・・。」

すると、海外で暮らしている天沢君が、「あっ。そうそう。海外で暮らす時って、ほんとそれが一番大変だったなぁ。それと、水も合わないからねぇ。水道水が直接飲める日本って本当にすごいんだなと改めて思ってしまうよ。」と、言った。

おばさまは天沢君の話を聞きながら、何かを考えていたみたいだったけれど、

「う~ん。司朗さんから話は聞いていたとは思うのだけれど、もうずいぶん昔の事だからねぇ・・・。すっかり忘れてしまったわ。 期待に応えられなくてごめんなさいね。」

「あっ。いえいえ。ありがとうございます。」

これ以上聴く事のできない事なんだと思った私は気持ちを引きさげた。でも、それは、時間が経てば分かるかもしれないという希望と、もし分からなかったとしても、喉の奥に引っかかった小骨は私の中でゆっくりと消化すればいい事なんだと思ったからだ。
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耳をすませば。 彼と彼女のその後  17

2013-07-25 07:36:35 | 日記
「いやいや、これは失敬。それも正しいです。雫さんにとっての西はアンティークショップの親爺さんなのだからね。」

「そうそう。それもお父さんの姿だもの。もしお父さんが医師を辞めてなかったら「地球屋」で雫さんとは知り合う事はなかったでしょう。だからこれも何かの縁なのよ。きっと。」

すると天沢君もそれに続いた。

「そうだね。地球屋があるのはお祖父ちゃんが医者を辞めたからだし、バイオリン制作の場所を提供してくれたおかけで今の僕があるのだし、きっとこれは縁だろうね。」

「縁ですか・・・。」

私は思った。父のお弁当を届けに出かけたあの日、デブ猫に出合い、気になって追いかけていったら、そこに地球屋があった。そこで見つけた男爵。そして西さんと出会い、古時計の中のドアーフの王とエルフの女王を見て感激した。

そして今日、西さん最期を見送り、西さんの物語を聞いた。これが登志子さんや天沢君が言う、縁というものなのだろうか、それともすべて偶然なのだろうかと。

「袖振りあうのも多生の縁という諺があるくらいだもの。やっぱり何か魅かれあうものがあるんでしょうね。戦地に赴いた司朗さんはそれを強く感じていたから、いつも誰かのために生きてきたのかもしれないわね。それは、登志子さんも航一さんも、久貢も那美さんも、そして聖司も雫さんも、身をもって知ったのではないかい。」

たしかにそうだ。西さんいつも誰かのために働いていた。「地球屋」だけが、自身のための唯一の道楽だったのかもしれない。でも、地球屋でさえも誰かのためのバイオリン工房であり、誰かのためのアンティークの修理場だったりする。そう思うと結局すべては誰かの為なんだと初めて気がついた。

「さて、他に聞きたい事はあるかい。話せるのはもうこれ位と思うけれどねぇ。」

私は喉の奥に引っ掛かっていた小骨のような事が気になってならなかった。でも、それを聞いたところでどうなるわけでもない事も重々理解していた。でも、待っていた人がいながら、志げさんと結婚した理由がどうしても知りたかった。だから遠まわしに話をしてみようと思った。
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耳をすませば。 彼と彼女のその後  16

2013-07-24 07:51:27 | 日記
「びっくりするでしょう。でも、本当にそうなのよ・・・。あれは、志げさんが亡くなるひと月前くらいの事だったかしら・・・。なにしろ不治の病だからね。日を追うごとに容態が悪くなって病の床に伏せっていたの。でも、志げさんはそれでも何かできる事はないかと考えていたらしいのよ。それである日、意を決したように「私が亡くなったら未来ある人ために検体にしてください。そして不治の病をなくしてください。」って司朗さんに頼んだのよ。さすがの司朗さんも「それは出来ない」って何度も断ったのだけれど、今度は志げさんが押し切ったのね。「そうしなければ、私は死にきれない」って言ってね。だから司朗さんも覚悟を決めたんだそうよ。」

それを聞いたお父さんは「そうか。研究に没頭していたという時期があったのは、それなのか。」と言って、何か腑に落ちたようだった。

「もちろん、志げさんのご両親も大反対してね・・・。でも、それ以上に志げさんの決意は固くてね・・・。本当に強い人だったわ。司朗さんが志げさんを選んだ理由はそこだったかもしれないわね。」

「それで・・・。亡くなった後は本当に検体に?」

「もちろんそうよ。検体の後の司朗さんは悲痛な面持ちで目が真っ赤だった。あんな司朗さんを観たのは後にも先にもあれっきり・・・。その後、互いに気を使ってか、疎遠になってしまってね。次に会ったのは、たしかあなたの結婚式だったわ・・・。次が夫の葬儀。それほどに会わなくなったのね。でも、風の便りで司朗さんの功績は伝わってきていたわ。たとえば、不治の病の原因を突き止めたとか、アメリカのなんとかっていう大学の先生と連絡を取り合って「マイシン」と言ったかしら。なにしろ特効薬を開発したとか、それを国内に普及させたとか、国立病院の院長も務められたとか。本当に一生懸命に生きていらしたわ。」

「西がストレプトマイシンの開発、普及に関わっていたというのは、噂では聞いてはいたが・・・。」

お父さんは驚きを隠せないようだった。それがどんなにすごい事かよくわからなかった私は素直に感心して、

「へぇ~。西さんて、すごい人だったんですね。ずっとアンティークショップのお祖父ちゃんだと思ってました。」と、言ったら皆が笑った。

ちょっと幼すぎたかなと反省。また、恥ずかしくなってしまった。
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耳をすませば。 彼と彼女のその後  15

2013-07-23 06:06:06 | 日記
早いものね・・・。あれから半世紀以上経つんだもの。街も人もずいぶん変わったわ。私もこんなにしわくちゃな御婆ちゃんになってしまったけれど、志げさんは綺麗なままの姿で私の中に留まっていて・・・、なんだかちょっと悔しいわ。」

おばさまがそう言うとまたみんなが笑った。

「西さんの奥さまも素敵な人だったんですね。私なんだか嬉しいです。」

「あら、ありがとうね。きっと母も喜んでいると思うわ。」

登志子さんがお礼を言ってくれた。素直に気持ちを伝えられる事が出来てよかったと思った。

その間にコーヒーを飲みほしたおばさまが、「さて、どうしましょうか。まだ続けますか。」と皆に訪ねた。

恥ずかしい事に私は誰よりも早く「お願いします。」と頼んでしまっていた。なんて図々しいんだろうと思いながらも、もう少し西さんの物語を聞いてみたいという気持ちが口を塞げなかった。

「じゃあ、続けましょうか。私が話せる事もわずかだから・・・。」

「叔母様。私からもお願いします。」

登志子さんがそう言うと、おばさまは軽く頷いてから話し出した。

「私が、二人を人として本当に尊い人だなと思ったのは、志げさんが亡くなった時なのね。」

「えっ。」その言葉に皆は驚きを隠せないようだった。

「母が亡くなった時って・・・。いったい何があったんです?」

登志子さんは少し戸惑いながら叔母様に尋ねていた。
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耳をすませば。 彼と彼女のその後  14

2013-07-22 05:28:34 | 日記
もし私が不治の病だとしたらそんな勇気が出ただろうか。きっと思い切り泣いて拒んだままどこかに逃げてしまうにちがいない。そう思った。

「それでも、司朗さんは諦めなかったのね。明日には亡くなる命かもしれないのにそれを承知で「それでもいい。」と、ずっと言い続けていたそうよ。それで、とうとう根負けして交際を始めたって言ってたような気がするわ。」

「へぇ。お祖父ちゃんやるねぇ。」そう言って天沢君は笑った。

「西にもそういうところがあったなんて意外だな。」

「あらあなた、お父さんはそういう人よ。気がつかなかったの。」

「いやぁ。面目ない。」

そう言って苦笑いをした。どうやらお父さんは登志子さんに頭が上がらないようだ。

「でもね。志げさんの胸の内はずっと心苦しかったのよ。相手は医者で将来が有望されている。方や蜻蛉のような儚き命。これでは釣り合いが取れないと交際を始めたころはよく零していたわ。」

分からないけれど、なぜか心が痛んだ。

「だから、志げさんは、司朗さんの厚意に応えようと、いつも今日が人生の最期と思って日々を一生懸命に生きていたと思うの。もちろん司朗さんもね。」

「そうだったの・・・。母に比べれば私の覚悟なんてまだまだね。」

「何をおっしゃる。登志子さんも十分やっていると思うよ。」

「うん。僕もそう思う。決して義母さんに負けていない。尊敬できる人だよ。」

「あらやだ。ありがとう。そんなに褒めたって何も出やしないわよ。」

「登志子さんは本当に素直じゃないねぇ。」

「おあいにくさま。」

そう言うと、皆が一斉に笑った。私もおかしくて笑ってしまった。

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耳をすませば。 彼と彼女のその後  13

2013-07-21 07:26:39 | 日記
「・・・そう。母は幸せだったのね。安心した。」

「司朗さんは本当に献身的でね・・・。志げさんは身体が弱かったから、志げさん自身も出産は無理と思っていたらしいのよ。でも貴方を身ごもった・・・。だから、二人はとても悩んでいたわ・・・。でもね。降ろす事で命を長らえるよりも命を掛けてもこの世に新たな生を授けたいと互いに思ったのね。こういう言い方すると仰々しいかもしれないけれど、本当に命がけなんですもの覚悟が要ったと思うわ。 だから司朗さんも志げさんを懸命に支えていたわ。」

「そうだったの・・・。私、ちっとも知らなかった。」

「そうでしょうね。だから、あなたが無事生まれた時、とても喜んでいたわ。私も二人の幸せがずっと続くといいなと思っていたわ。」

「叔母様。母はどんな女性だったの。」

そう尋ねる登志子さんを見て、早くに亡くした母の面影を取り戻そうとしているのかもしれないと思った。

「そうねぇ・・・。細くて色白で綺麗な人だったわね。結婚して借家住まいになってから時々尋ねたけれど、良く気がついて、よく働く人でね。感心したわ。」

「それはおぼろげに覚えているわ。いつもおいしい料理を作ってくれたり、お洋服を仕立ててくれたり、それと、よく本を読み聞かせてくれたわ・・・。 風邪を引いて寝込んだときはそばにいてくれて、それでいて、お父さんの事も精いっぱい愛していたように思うわ。」

登志子さんの語りを聞いて、やっぱり奥さんも素敵な人だったんだと思った。

「そうね。あなたのおぼろげな記憶は間違っていないわ。間違いなく二人は相思相愛だった・・・。」

皆が西さんと奥さんの物語に聞き入っていっていた。おばさまが語る話はここに集う人には新鮮なのだろう。ちらっと天沢君の横顔を覗くと真剣な眼差しでおばさまを見ていた。

「ねえ叔母様。もう少し聞いていいかしら。」

「ええ。この際だから何なりと。」

「お父さんと、母が知り合ったのが病院でしたのなら、二人は職場恋愛? 母は看護婦さんだったの?」

おばさまは、少し微笑みながら話を続けた。

「そう思った? 実は違うのよ・・・。志げさんは患者さんで、ずっと入院していてそれで知り合ったのよ。もちろん患者と医師だから、体の具合もよくわかっていた。二人の間にどんなロマンスがあったのかは分からないのだけれど、志げさんは自身の将来が無い事を思って、頑なに交際を拒んでいたそうよ。」
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耳をすませば。 彼と彼女のその後  12

2013-07-20 07:06:03 | 日記
「まぁ、あの頃は生きるだけで精いっぱいで・・・。住む家もなければ、食べる物すらないんだもの。だから、些細なことにまで気が回らなかったのかもねぇ。」

そう言って朗らかに笑った。手紙が西さんのもとに届いていたらどうなっていただろう。どうしてそんな大事な事忘れてしまったんだろうと思ったけれど、生きることで精いっぱいの毎日を過ごしてきた事を考えたら、そんな風に考える私はなんて心の狭い人間なのだろうかと思った。

「本当にひどい時代だったわ。それでね、司朗さんが戦地から帰ってきたのが・・・たしか昭和22年の春だったかしら。その頃には東京に戻ってきていてね・・・。ああそうだ、隅田川の桜並木がきれいでねぇ。桜の花を見て生きる希望が湧いてきた事を覚えているわ。
それでも、司朗さんは東京の焼け後をみて愕然としたらしくて、私たちの所在が心配になって主人を探したらしいのね。それでなんとか会えて私達の住まいに辿り着いたのだけれど、その頃、とにかく医者が足りなくてね。国からの要請で国立病院の勤務が決まって、勤め始めたら病院に泊まり込みの日が続いて、それで、いつまでも同居は申し訳ないと云ってね、病院の寄宿舎に住まいを移したのね。」

おばさまは一息ついてコーヒーを一口含んだ。そして、何かを考えているようだった。
私はおばさまの話に相槌を打つように言葉を紡いだ。

「西さんは若いころとても苦労なさったんですね。そんな風には感じなかった。」

「そうね。お父さんらしいと思うわ。」

「苦労を一切見せない・・・姿ですか。」そう言うと皆が微笑んだ。西さんは誰に対しても同じように接していたのだろう。するとおばさまがコーヒーカップを皿の上に置き、また話を続けた。

「実は司朗さんがあまり話さなくなったのは、戦争から帰ってきてからなのよ。それまでは普通にお話していたんですよ。だから、たぶん・・・戦地で何かあったのだと思うのだけれど、それを聞く事は出来なかったわ。」

それを聴いた登志子さんは問いかけるようにおばさまに話し出した。

「お父さんの身の上に何があったのかしら・・・。母は早くに亡くなったからそういう話は出来ず終いで・・・。」

「えっ。西さんの奥さんは早くに亡くなられているのですか?」

「ええ。たしか私が5歳のころだったかしら、ねえ、叔母様。」

「そうだわね。貴方はまだ幼かったからよく分かって無くてね・・・。寧ろそれが救いだった。」

「お父さんからは病気だったと聞いてたけれど、本当にそうなんですの。」

「その通りだよ。病名は分からないけれど、不治の病だって聞いてたよ。司朗さんは登志子さんの母親が不治の病だって分かっていて結婚したんだもの。」

「あら、それは初めて聞いたわ。」

「そりゃ言えないでしょう。いえ、言いそびれたのかもしれないわね・・・。」

おばさまは深いため息をついた。そして話を続けた。

「それでね、妻になる人が不治の病だからって親族全員、司朗さんの結婚に反対したのね。それでも司朗さんは皆の反対を押し切って結婚してしまったの。当然、結婚式に親族は私以外だれも来なくてね・・・。あっ、そうそう、今日、葬儀を行った教会で結婚式を挙げたのよ。今考えると不思議なものね。 でも、あの時の二人は本当に幸せそうだったわ・・・。」

私は西さんの事をよく知りたいと思っていたけれど、此処まで知ってしまっていいものだろうかと思い不安になっていた。
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耳をすませば。 彼と彼女のその後  11

2013-07-19 06:13:08 | 日記
「それで、司朗さんはね。たしか・・・。帝大を出てから陸軍病院に勤め、軍医本部勤務に異動になった後、軍よりドイツ留学を命じられたそうよ。それが、たしか・・・昭和5年ころだったかしらねぇ。昭和10年に私たちは結婚式してね。その式に出席してくれたのだから5年ほど留学していたと思うわ。」

この話は何処までさかのぼってしまうのだろうかと、聞き入っていた。

「それから、しばらくして、戦争が始まって・・・。西さんは将校さんだったのに戦地に赴いて負傷していた兵隊さんの治療にあたっていたと聞いたわ。主人は内地勤務だったけれど、私を置いて転属を繰り返していてね。なぜかしらと思ってたんだけれど、その頃はピリピリしていて聞ける状態ではなかったの。それで戦争が終わって、生活が落ち着いてきたときにふと訪ねたら、戦争には反対だったと言っていたわ。 兄さんはね。空母の船乗りだったから、帰らぬ人となってしまったわ。」

おばさまは枯山水の庭を見ながら静かに語っていた。おばさまの話はすべて事実であったけれど、私にはまるで物語のように聞こえた。

「本当にひどい時代だったわ。空襲にあった時は、これで一巻の終わりだと覚悟しながら焼夷弾が降り注ぐ街を何も持たずに一生懸命走ったわ。そのおかげでこうやって長生きさせて戴いているけれど、家財一切燃えてしまってね。親戚の伝をたどってあなたを背負って田舎に疎開したの。あなた、おぼえている? それでも主人は一向に返ってこないしねぇ。本当に苦労したわ。」

それは甥っ子さんの事だったようで、甥っ子さんが苦笑していた。

「そうだ。」おばさまはそう言って、両手を叩いた。それは突然何かが思い出されたようだった。

「司朗さんが帰国してから、しばらくして志願して大陸に渡ったあと、外国から手紙が何通か届いていたのね。封を切るわけにもいかなし、転送するといっても内容を見られてしまう時代だったから大切に取ってあったの。でも、空襲でみんな焼けてしまった。その事をすっかり忘れていたわ。」

「えっ。じゃあ。その事を西さんは知らずに・・・。」

「ええ。そう言うことになるわねぇ。でもなんで今頃思い出したのかしらねぇ。」

それは、バロンの恋人の持ち主ではないのか。そう思った。でも、それは誰も知っていないようであった。だから、それをここで話すべきかどうか迷ったけれど、西さんが親族の誰にも言わなかった事を私が話すのは間違いだ。そう考えた私は言葉を飲み込んだ。
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耳をすませば。 彼と彼女のその後  10

2013-07-18 06:00:50 | 日記
「あの~。西さんってどんな人だったんですか。」

「そうだな。医師としては一流。父としては・・・。どうだろうか、登志子さん。」

「お父さんは・・・。いつも忙しそうであまり家にいなかったわ・・・それでもね。優しくしてくれた。大学への進学へも、あなたとの結婚のときさえも反対しなかったわ。」

「そうか。じゃぁ父親としても立派な人だったんだね。」

「もちろんよ。でも父がどうして医者を志したかは一度も語ずじまいで・・・。おばさま。何か知ってらして。」

おばさまと言われた窓際に座る品のいい御婆ちゃんは和服姿が凛として銀縁の細い眼鏡が良く似合っている。昔はとても綺麗だったんだろうなと思った。
おばさまは小さな声で「そうねぇ。」というとしばらく考えてから、

「さて、どこから話せばいいのやら・・・。ここにいる皆も知っておくべき事なのかもしれないから、ちょいと話してみましょうかね。」

コーヒーカップを品良く持ち、コーヒーを一口飲んだ後、西さんの事を話しだした。

「西の家系はもともと薩摩藩、島津家の家臣で武家なのよ。戊辰戦争でも活躍したという話よ。」

「ええっ。そんな話初めて聞いたよ。」皆が一斉に驚いていた。こういう話は語り継がれなかったのだろうか。それとも意図的に語らなかったのだろうか。

「それでね。明治維新後、その活躍が認められ、陸軍大佐として仕えたのが、私のひいお爺さんに当たる人ね。その息子のお爺さんも陸軍大学を出て偉い人になったと言っていたわ。その影響を色濃く受けた主人とお兄さんも軍人になったけれど、司朗さんだけは軍医を目指したの。たしか軍医をしてらした森さんと言う人を尊敬していたからと聞いたわ。皆からすれば少し変わった人だったけれど強い志を持っていたのよ。」

「西の家系は侍だったの?」天沢君が口を開いた。おばさまは軽くうなずいた。
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耳をすませば。 彼と彼女のその後  9

2013-07-17 07:49:51 | 日記
しばらく皆が沈黙していた。それぞれがそれぞれの西さんを回想していたのかもしれない。

「お父さんは・・・優しい人だったのね。」

「はい。私の言葉では言い尽くせないほどです。」

「怒られた事はなかったの?」

その問いかけに、記憶の底に埋もれていた出来事が蘇ってきた。

「あっ。そういえば。本当に一度だけ怒られたと言うか、厳しく諭された事があります。」

私の思い違いかもしれないけれど、その時、皆の顔が一瞬微笑んだ気がした。

「どんな事で諭されたの?」

「どんなに頑張っても仕事が上手くいかなくて、人間関係にもくたびれていたときに、死んでしまった方が楽だ。というような事を漏らした事があったんです。もちろん自殺しようという気はなくて、本当に軽い気持ちで言ったんです。そうしたら、とても厳しい顔をして、『そんな事は冗談でも言ってはダメだ。』と言われたんです。」

「お父さんらしいわね。」そう言う登志子さんの横に座っているお父さんも大きくうなずいた。

「それで、『君は死について真面目に向き合った事がありますか。理不尽な暴力によって人の命が失われた結果、何が残るか考えた事がありますか。』と、言われたんです。私・・・言葉を失ってしまって、すぐにごめんなさいって謝ったんです。だからそれ以来どんなに辛くても死にたいって言わない事に決めたんです。・・・おかげでちょっとだけ強くなりました。」

そう言って照れ笑いをすると皆も微笑んでいた。西さんのご親族は温かな人ばかりで良かったと思った。

「西は、クランケから絶大な信頼を得ていたからね。分かる気がするよ。」

「クランケ?」私がそう呟くと、お父さんは登志子さんの方を見た。登志子さんが静かにうなずくと、お父さんはその事について語り始めた。

「西は、元はドクターだったんだよ。アンティークショップは以前からやりたいと思っていたらしく、ドクターを早々にリタイアして始めたものなんだ。オペの技術も一流で手先が器用な人だったから楽器や家具、時計等の修理も難なくこなせたようだ。」

西さんが医者だったなんて初めて聞いた。そして、どんな先生だったのか知りたくなっていた。
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