硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

トゥンベリさんの叫び。

2019-09-25 22:25:35 | 日記
朝、テレビをつけると少女が厳しい表情で何かを訴えていた。
環境問題を訴え続けていたグレタさんが国連でスピーチをしている所だった。

何故か心が震えた。なぜだか分からない。

朝刊を広げ、彼女のスピーチの全文をじっくり読むと、やはり、身体がざわざわした。
彼女の寄りかかっている所が、両親だけということもあってか、極論でありアグレッシブであり、粗削りであるけれど、真っ直ぐな言葉には迷いが見られない。

環境問題を論じる時、必ず思うのは、何故恐竜は絶滅してしまったのかである。
様々な説があるけれども、それが、自然の摂理によって引き起こされてしまったとしたならば、それが彼らの運命だったのだろうと思う。恐竜にとって代わり人類が地球上で営み始め、資源を消費しつつ、豊かになったのは、それを人類が欲したからである。
しかし、其の反面、他者よりも豊かになろうと欲したのも人類であった。
その結果、国境に固執し、地球の存在を忘れてしまったのも、また、人類であった。
人類が愚かな存在であったら、誰が地球環境の正しい診断をすることが出来るであろうか。

映画「マトリックス」でのエージェントスミスがいったように、「地球にとって人類は癌だ」とするならば、人類は地球を蝕む存在でしかない。

それがもし、人類が手放せない性質だとして、その性質を科学によってコントロールできるほどの技術が現時点であるとすれば、私達は絶滅に差し掛かっていると訴えている未来の大人たちに対し、現在の大人たちは理路整然に応えられることが出来るだろう。

16歳の少女に、成熟していないと批判された大人たちはどのような知性をもって、少女や少女に共感を寄せている若者たちを納得させることが出来るであろうか。

それとも、世間知らずの子供の戯言と切り捨ててしまうだろうか。

温室効果ガスの排出量を効果的に減らすならば、がん細胞を切り取る様に人口減少せねばならない。
もし、人口減少が地球環境を守るカンフル剤とするならば、映画「アベンジャーズ」のサノスのような者の出現が求められるのではないだろうか。それとも、科学的に人口減少を図るのか、また、人類が殺し合いを始めるか、シヴァ神の降臨を望まなければならないであろう。

もし、温室効果ガスの排出量の削減という問題に対して、誰も明確な答えを持ち合わせていないとするならば、サミットの開催理由も「もうかりまっか」「ぼちぼちでんなぁ」というあいさつを交わす為だけに行われているのかもしれないし、地球環境の危機は対岸の火事であり続けるのではないかと思う。もはや人類は、突飛ではあるけれど、地球外から侵略されない限り、一つにまとまらないのではないかと思う。

地球の寿命を考えた時、人類の存在なんて、瞬きの間位のものだろうから、宇宙の摂理の中での人類の存在は、人類にとってはカゲロウのような存在であるのかもしれないが、少女の言葉は、その摂理の中のなにかを動かす力を秘めているのではないかと思った。

少子化の原因の持論を一石。

2019-09-24 17:55:06 | 日記
80・50問題という事象について考えていたら、どうして今、少子化なのかという問題にリンクした。

多分、専門の学者さんがすでに論じているかもしれないけれど、個人的に考え、行き着いたので、少し論じてみたいと思う。

80・50問題を考えた時、80代のご両親の結婚観は共通して、「親が決めたから」という昔からの習わしに従った人が多い。もしくは、「仲人さん」の存在も大きい。
昔の結婚は、「当事者」より「第三者」の意思が大きく働いた為、独身で過ごす人はまれだったのではないかと思う。そして、僕の世代でも「結婚していなければ社会的に信用されない」という、価値観が働いていたので、多くの人は恋愛という形をとらなくても誰かのお節介によって結婚し家庭を築けたのだと思う。
また、戦後、何もかもが不足していた日本では、不自由な中での結婚は、「生存」するためという理由も大きかったから、家庭は持続性を持てたのかもしれない。

しかし、時代は大きく変わり、職種は多様化し、オートメーション化を果たし、女性も社会進出し、男女は平等とまではいかないけれど、当時に比べれば、飛躍的に向上した。戦後に比べれば、世の中は豊かになり、それなりに幸せな生活を誰もが送れるようになった。

80歳を迎えた両親は、家庭を持った時、子供に何を託したのかはそれぞれの家庭によるけれども、共通点としては、「自由な結婚」「孫の顔を観る」「私たちの老後を観る」だろうと思う。

しかし、大きな誤算は、家父長制が崩壊したことと、若者は都会を目指し、自由を謳歌し、そこで新しい家庭を築いた事と、親戚や隣人との付き合いに距離が出来てしまったことと、自由な結婚と言えども、上手く恋愛が出来ない人や親の意向が強く働いている家族では、当事者が苦しみ、結婚には至れないという結果を生んだ事である。
少し本線からそれるが、抑止力を失った者が他者を顧みず自由奔放に振舞うという事象も、この誤算から派生してしまったのではないだろうかと思う。

話を戻すが、前述の要因で結婚に至れなかった子供は、親との間に確執が出来、長い時間を掛け、強い相互依存という関係が出来てしまい、両親が築いた家庭を引き継ぐものが、独身のまま50歳になった時、確執と相互依存の末に辛うじて守れるものがあるとしたら「私たちの老後を観る」となる。
この構造を持った家庭が現在どれくらいあるかは分からないけれども80・50問題という言葉が出来るようになったところから察すると、かなり多いように思う。

少子高齢化はこうして完成したのではないかと思う。

女性が子供を産まないからいって批判を浴びていた政治家がいらっしゃったけれど、少子化になったのは、政治家の人達が、高度成長期の中で家庭の生活の構造まで改革してしまったのか、もしくは、世界との経済競争に勝利する事が、これまで維持してきた家族、家庭の構造を変えてしまうことになろう事までは、予測できなかったといえるのかもしれない。

どこかの議員さんがおっしゃっていたけれど、誰かが犠牲にならなければ多くの人々が豊かになれないとするならば、少子高齢化の犠牲にならなければならないのは、おそらく、多数の中下層の人々、家庭、なのではないかと思う。

国会議員さんや官僚の人々は、百姓一揆や革命やクーデターは起こりはしないという前提で、国政を考えていらっしゃるのだろうか。


通所介護の稼働率という問題について。

2019-09-22 16:29:30 | 日記
通所介護施設で働いていると、「稼働率」という言葉をよく聴く事があります。僕はへそ曲がりなので、稼働率という言葉を聞くと、やる気がなくなります。

しかしながら、利用者が来なければ、お給料も出ないという事実もある。

経営に携わる人は、営業をしてきなさい。とか、利用者数を増やしなさい。とか言うけれど、果たしてそれで利用者が増えるのかは疑問である。そして問題の根源は誰も掴み切れてはいないと思うので、その事柄に対して少しばかり持論を述べてみたいと思う。

介護保険が導入された時の多くは、明治大正生まれで、それまでになかった余暇時間の過ごし方の一つとして通所介護という選択枠が創設され、それは介護保険の補助が出るものであるから、対象者の多くが利用する事となった。また、その頃は、施設も今ほど多くなかったので、利用者はすぐに集めることが出来た。

しかし、現在の利用者の多くは戦中生まれで、終戦を十代後半、20代前半で過ごした人たちは、日本が何もないところから、豊かになるまでを過ごしていて、それは、食事も医療も十分に享受することが出来る時代であった為、寿命も延びることになった。

昨今、高齢者による自動車事故が、ニュースで流れる事が増え、その問題が指摘されているが、裏を返せば、それだけ、今の高齢者は健康状態を保てているという事であって、それは、当初の通所介護に頼らなくても、十分に自身の力で余暇時間を過ごせるようになったという事である。そして、施設が乱立している現在では利用者の分散も相まって、集まりにくい環境になった。

したがって、介護保険が導入された時とは、状況が異なるので、営業をかけても簡単に利用者は増えないという構造が出来上がったのである。

そして、どうすれば、利用者が増えるか? という問いかけに、他の施設にはない特色を打ち出してゆくとか、「具体性に欠けた回答」をよく耳にする。しかし、この問いに対して明快な答えを聞いた事がない。そこで「で、どうするの?」という質問は、誰も具体的な答えを持ち合わせていないからタブーなので、この場合の正しい解は、あえて問題解決を図らず、問題を先送りする事が、正解なのである。

現在の利用者の利用回数を増やすという方法は、月々の数字だけを追っていれば、一見、上手くいっているようにみえるが、問題の根本は解決していないので、あくまでも、短期的な結果でしかない。

攻めるリーダーがいるところは、それこそ、いろんな特色を打ち出してゆき、利用者の獲得に結果を出しているが、そのリーダーがいなくなってしまえば、たちまち衰退してゆくのは目に見えている。それは、介護現場では、世代交代という問題を初めて乗り越えてゆかねばならない事業であるので、引継げる人を育てる環境が整っていないのである。

利用者を増やす前に、その問題をクリアせねばならないのであるが、並行しながら進めてゆく方法があるとするならば、逆説的ではあるけれども、10代や20代の人達が「介護の仕事って面白そうだぞ。ちょっと頑張ってみるか」と思わせる事の出来る施設にすれば、利用者も集まるのではないかと考えたのである。

恐らく、仕事として、人のお世話をすることが「辛い事もあるけれど、楽しい」と思える現場は、利用者にも職員にも「優しい」から、人も自然に集まるのではないかと思うのである。
即効性はないけれども、優しさは、口伝によって伝え広げられてゆくであろうから、結果的には持続可能な組織を構築できるのではないかと思うのである。

しかし、これは、他を利することが前提にあるので、残念なことだけれども、今の介護現場は、自分たちの優位性を持ち続けたい人が多いので、この意見は、誰も耳を傾けてくれないのである。

アベンジャーズ エンドゲームを楽しむ。

2019-09-10 17:33:35 | 日記
待ちに待った「アベンジャーズ エンドゲーム」を観る。

敢えて劇場に足を運ばなかったのは、大きな独り言を言ってしまう危険性があるからである。

さて、もうネタバレしても良いと思うので、ストーリー展開も漏らしながら感想を述べておこうと思います。

まず、エンターテイメントとは、日常を忘れさせてくれるショーとは、こういうものなんだなと思わせてくれます。

アイアンマンが絶望寸前で、キャプテンマーベルが登場。キャプテン・マーベルを観た後であるから、「おおっ。あの続きだな」と呟いてしまう。次にホークアイの家族との団らんから始まり、そして家族が突然消えてしまう。「ええっ!」と声を上げる。どうなってゆくのか予想もつかない。そして、悪役である「サノス」が、序盤であっさりと成敗されてしまい、「ええっ!」と声を上げる。次に「アントマン&ワプス」の続きである。なるほど~。と唸る。

と、ストーリー展開が凝りに凝っているので、こういう展開が、終盤まで続くことになるのである。また、素晴らしいのは、流れる音楽である。勿論、その場面を盛り上げてくれる効能もあるのであるが、秀逸なのは場面展開の時、音楽にのせて新たな展開へ無理なく導いてくれるところなのです。

そしてエンドロールが流れる頃には「なに観ていてんだっけ」と思わせてくれるところにしびれました。(ジャズが好きなのでそう感じたのかも)

さて、次はストーリーに隠されたメタファーですが、これもなかなか興味深い。
この映画では、多くの名言がありましたが、もっとも考えさせられたのは「サノス」の言葉ではなかったでしょうか。

非道なんだけれど、おやっと思う所がある印象的なキャラクターで、彼がこだわったのは、「バランス」であり、宇宙の秩序を保つには、存在する個体の数の制御が必要なのだと考える。デシメーション後、農場で一人暮らしをしていた事からも、目的が自己益だけではない事が分かります。
それに対し、アベンジャーズの面々は、皆がそれなりに生きることのできる混沌とした世界を護り、愛そうとしている。

どちらに言い分もよく分かる。確かにそうなんですよね。

自然との調和を考えると、コントロールが必要になる。人が人を愛し、生活を営んでゆく事が、人類の役割であるなら、過剰消費は避けられない。そして、そこには争いが生じてしまいます。

人類の最大の問題を突き詰めてゆくと、そこに突き当たるのであるから、繰り返される歴史から、力技に出てきた人をデフォルメしたのが「サノス」であり、アベンジャーズがテーゼだとすると、サノスがアンチテーゼという存在だったのではないかと思います。

しかし、終盤の戦闘シーンは象徴的で、旧体制が衰退してゆく有様を表しているように思いました。

ニュースクールのティーンエージャー(スパイダーマンの彼)を、大人の女性が守り、サノスが消え、アイアンマンも(最後に、アイアンマンだ。と言っていましたね。)去ります。
王であったソーは女性のヴァルキリーにその座を譲ります。
そして、キャプテンも、自身の気持ちを選び、愛に生き、黒人であるファルコンに「キャプテン」を譲ります。

それは、人類は、旧体制では、どうやっても繰り返すだけで、新しい未来は描けないのだというメッセージでもあるように思いました。これは、「スターウォーズ」にも観られるものではなかったでしょうか。

アメリカという国の行き詰まりが、映画にもにじみ出ているように思いました。

個人的に、嬉しかったことは、好きだった女優さんを多く観れた事です。

レネ・ルッソさんは『リーサルウェポン』で好きになりました。グウィネス・パルトローさんは『スライディングドア』で、そして、ナタリー・ポートマンさん。思わず顔が緩んでしまいました。

アベンジャーズってよく考えてみたら、すごい名優さん達が出演されています。マイケルダグラスさんや、ロバートレッドフォードさん等、出演料もすごかったんだろうなぁと思ってしまいます。

そして、最後に、もやもやです。それは、2つのキューブの行方です。

本来殺されてしまうはずの「ロキ」は、キューブをもって消えてしまいます。キャプテンマーベルで「ねこ」の姿をした怪物が吐き出したキューブの行方もほったらかしです。

という事は、キューブをめぐる争いが、再び起こるという事でしょうか。

ロキが生き延びたなら、再び「マイティ・ソー」が登場しなければならないし、(あのだらしないに肉体には驚きましたね。あれって、自前なんでしょうか。だとしたら、すごい肉体改造ですね。)そして、キャプテンマーベルでキューブを狙ったクリー人なるものたちは、撤退しただけであるから、再び狙ってくるのではと考えます。

マーベル映画さん、どうなんでしょうか? 上質のエンターテイメント期待しますね。

やっぱり、京都の夜は僕には似合わない。

2019-09-01 17:28:11 | 日記
再び祇園でお酒を戴くことになった。事の発端は、前回お世話になったホステスさんとのLINE交換。あれから、時々LINEを通して言葉の交換をしていて、「お店でのみませんか?」と、お誘いがあったので、一人で繁華街に行く事もないし、体験したことのない社会を知るという意味も含めて、重い腰を上げ、日時と時間を調整して、飲みに行くことにしたのであった。

祇園のクラブでお酒をたしなむという行為は、イメージとして、それなりの社会的ステータスのある人達が社交の場として利用するか、もしくは、パトロンとしての等価交換の場であると思っていた。
であるから、僕がその場にいることは異端になる。誘ってくれた女性にとっては、お客さんという立場には変わりはないが、行ってもけっして居心地の良いものではないのはあらかじめ想像がついた。

週末の京都、四条の周辺は大勢の人が行き交っていて、駐車をするにも一苦労であったが、宿泊先のフロントの人のおかげでなんとか駐車する事も出来た。
チェックインを済ませ、身支度をして、約束された場所へ赴き、携帯で連絡を取ると、しばらくしてから、迎えに来てくれた。

半年ぶりの再会。肌の露出は控えめになっていて、大人の女性へ移り変わる途上といった感じになっていた。会話をしながら、京都独特の石畳の細い路地を歩いてゆくと、「ここです」と、お店を紹介された。その時「これは僕が入ってはいけないお店だ」と思ったが、後には引けない。

悟られまいと、スイッチを入れてにこやかにあいさつを交わして、誘導された席に着く。
ふかふかのソファーは座り心地がいいなと、思いつつも、「なにを飲まれますか?」との問いには上手く答えられず、メニューを見せられてもさっぱり見当がつかない。
事前にどれくらいの料金が必要なのか聞いていたので、「お任せします」といって、注文をしてもらう。

再会したは良いものの、何から話してよいのやらと考えていると、慣れた手つきでお酒を作り始めた。その間、とりあえず、たわいのない会話から場を繋いでゆく。
おしゃべりが好きな人なら苦にはならないのだろうけれど、僕はどちらかというと、共通点が見いだせないと、上手く話せない方なので、緊張して喉が渇く。水割りをグイっと飲んで少し酔った方がいいのかもと、少し早いペースで飲みながら、会話を進めてゆく。
すると、他の女性もテーブルに見えて、ご挨拶をされる。緊張度がさらに増す。頭をフル回転させ、なんとか会話を続ける。さらに、クラブのママと呼ばれる方が見えて、しばらく談笑。祇園にお店を出すくらいであるから、自然に会話に入ってみえ、思わず関心。新たなお客様が入店されると、○○ちゃんをよろしくねと言って、軽やかに席を立ち、お客様に寄り添う。見事な立ち居振る舞いである。

客層は、思った通り、それなりのステータスを持った50代以上の男性である。接待のグループもあれば、顔なじみの人もいるようである。ソファーに腰掛けた雰囲気に貫禄があり、ホステスさんもスマートに数人が集まる。

リピーターさんらしき人には、美しいホステスさんが一人で、しっかりとサポートされている。お客様が入れ替わると、時頼ボーイさんが、指示を出しに来るといった具合で、人の動きは、かなり鮮麗されていて、無駄がない。
高いサービスを売る接客の場とは、共通してこのような動きに集約されてゆくのかなとも思った。

セット料金でお願いしていたので、時間が迫ってくると、ボーイさんが彼女を呼び、一度席を外す。その間も、初対面の女性との共通点を探し出し、場がしらけないように会話を続けた。

こういう場所で飲んでいると、コミュニケーション力が鍛えられるに違いない。営業が上手い人って、きっとこういう場でもスマートに立ち居振舞えるのではないかと思った。

しかし、こういうお店で飲む場合、お客としての距離感は大切であると感じた。

それは、お店に来ることで承認欲求が満たされる事が目的なのか、お店を通してビジネスを発展させることが目的なのか、特定のホステスさんに会いに来て、親密な関係になることが目的なのかで距離感は大きく異なるからだ。
お酒を飲むことだけが目的なら、酒屋さんに行けばよいのであるから、距離感がしっかりしていないと、そのお店に行くことの意味を失う。

したがって、今回の僕にはどれも該当しない。

時間が来たことを告げられ、なんとなくほっとする。彼女との約束を果たすことが目的であったのだから、やるべきことをやったのだ。よくやったぞ僕。

料金を提示されると、祇園のクラブで飲むには安い方であるのかもしれないけれど、やはりそれなりの料金になっていた。しかし、今回は授業料である。経験は尊い。お金を支払い、お礼をした。

ホステスさん達に見送ってもらうのは、なんだか恥ずかしかったが、悪い気はしない。お店を利用した男性は、この瞬間、もう一度きてみようかと思うに違いない。

今にも雨が降り出しそうな夜であった。ジトっとした空気が身体を重くする。古都と混在するネオンはその街の色を醸し出している。大声で騒ぐ若者たち。綺麗な女性と並んで歩く富裕層の男性。クラクションを鳴らす車。ハザードを点滅させ路肩でお客を待つタクシー。様々な言語が耳に入ってきて、普段なら神経がすり減ってゆくのであるが、程よく酔った身体は喧騒を上手く受け流してくれる作用があったようだ。