硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

あとがき

2023-03-07 21:32:50 | 小説
読む人にとっては嫌な思いをされた方もいらっしゃるかと思いますが、実際に体験したことを元に物語として膨らませたので、もしかしたら、「リノ」は貴方の側にいる人かもしれません。
多様性と言う言葉をよく見聞きする世になってきましたが、私たちは人であるので、拒絶や断絶は消えないと思います。
危険と感じる人とは仲良くできないし、自己中心的な人に振り回されることも耐えられないからです。
しかし、だからといって、傾倒した思想に陥らない事、その思想に熱狂しない事はできると思うのです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

「ストレイ・シープ」 第20話

2023-03-05 18:15:30 | 小説
「ナミ」には、経験値があった。だから、どんな診断結果が出ても、これからの事を考えられる余裕があった。
だからこそ、「リノ」の言動の根源が、ただ、怠惰なものなのか、環境から構築されたものなのか、疾患から発するものなのかを見極める必要があり、その為には、信頼できるドクターに診てもらう事が重要であった。
そこで、「ナミ」は、以前勤めていた病院のドクターに事前に相談を入れて、診てもらう段取りをつけたのであるが、受診中は保護者のように「結果」を心配し、色々と考えを巡らせていた。
そして、ドクターは「リノ」の症状を、「統合失調症」と、診断すると「ナミ」は、納得したようであったが、30歳になった「リノ」は、その事実を受け入れらなかった。しかし、それが現実であった。

「リノ」は現実を受け入れられないまま病院での結果を両親に告げると、母はショックを受け、「リノ」に感情をぶつけたが、「私は、お母さんの子供だから」と、言うと黙ってしまった。

それに比べ、父親と旦那は、まったくの無関心だった。

「リノ」にとっては、それが普通であり、「リノ」の性格上、他と比べる事もしなかったので、「リノ」自身には何も問題はなかった。
しかし、客観的に見れば「リノ」が抱える問題は多岐にわたっていて、どこまで干渉してよいのかさえ分からなかったが、目下の問題である統合失調症自体は治療を受けていれば回復する事例も多いので、「ナミ」は治療を受けながら施設で働く事を進め、サポートを続ける事にした。

しかし、「リノ」の気持ちは一向に好転せず、「ナミ」のLINEからは、

「覚えようとしない」
「できませんと言う」
「愚痴ばかり溢す」
「やろうとする努力が見られない」

というワードで占められていた。


「ストレイ・シープ」 第19話

2023-03-04 21:49:08 | 小説
しかし、「リノ」は一向に変わる気配がなかった。
「ナミ」の施設では軽度の知的障害を持っている人が働いていて、その人は頑張って努力しているのにと悩んでいた。

さらに、「ナミ」を悩ませたのは、新興宗教を通じて知り合った旦那は、家に稼ぎを入れず、自分本位で、「リノ」の事も営み以外の事は無関心らしく、「リノ」のリノで、「彼」の方がよかったと愚痴ばかり溢していた事だった。
「じゃあ、何故そんな人と結婚したの? 」と聞くと、「勧められたから・・・・・・。」と、答えるものの、「好きじゃないのだったら、離婚した方がいいよ」と、具体的な方向性を示すと「ん~。それはちょっとぉ・・・。」と歯切れの悪い返事をする始末だった。

「ナミ」からしてみれば、「リノ」の話は、まったく要領を得ず、ストレスは徐々に蓄積されていき、ある日「リノ」について、LINEで話し合っていると、「ナミ」は精神病棟での勤務経験があったので、「リノ」の言動が、普通ではないと感じていたらしく、僕も、「リノ」と一緒に働いていた時、一時期、その事について考えていた事を告げると、「やっぱり、そう思うでしょ」と、何かを確信したのか、早速、翌日「リノ」にメンタルクリニックの受診を進めてみたのである。
しかし、「リノ」は「なぜ私が? 」と言う風な感じで、拒否し続けていたが、「ナミ」の粘り強い説得と「ナミが付き添うから」という条件に、重い腰を上げ、受診する運びとなった。

そして、何かしらの答えが出れば、「これからの目途も立つ。」と、思っていた。


「ストレイ・シープ」 第18話

2023-03-03 20:08:32 | 小説
そんな状況でも「ナミ」は、職員、利用者、ともに気を配り、てんてこ舞いになりながらも、施設を切り盛りしていて、時より愚痴や、うれしい事などのエピソードをLINEを送ってくれて、その文面から奮闘ぶりを想像していた。
そして、LINEのやり取りが一年くらい続いた頃、突然、

「リノって子、知ってる? 」

と、いうLINEが送られてきた。
一瞬目を疑ったが、同姓同名であり、しかも「リノ」という女性は僕の事をとても知っていると言っているようで、あの、「リノ」であることを確信した。

「知ってるけど。なぜに? 」

なぜ、「リノ」の名が「ナミ」によって語られるのかが全く分からず、勢いで返信してしまったのであるが、しばらくして送られた長文のLINEを読んでいくと、「ナミ」の施設で働き始め、履歴書に僕が以前勤めていた施設のが書かれていたので、僕の名前を出したところ、「とてもお世話になった人」と、言ったのだという。
しかし、そんな事よりも、仕事はちゃんとできるようになったのかが気になる。
聞くか聞くまいかとても悩んだが、「ナミ」が「リノ」に対してどう思っているのか知りたかった。だから、遠回しに「リノ」の仕事ぶりを尋ねてゆくと、

「世話は焼けるけど、頑張ってるよ」

という、返信が送られてきた。
さらに、結婚もしているようで、少しうれしくなったが、一応、「リノ」の特徴を簡潔に伝えて、「よろしくお願いします」と返信した。

しかし、そのLINEを境に「ナミ」からのLINEは「リノ」の事についての相談が増え始めて、日がたつにつれ、僕が経験したことを、そのまま「ナミ」が追体験する事になっていったが、僕と違って「ナミ」は経営者でもあったので、使命感も大きく、「リノ」を自立させようと力を尽くしていた。


「ストレイ・シープ」 第17話

2023-03-02 20:58:56 | 小説
遡る事数年前、日本経済が冷え込んで、公共事業が減少した時期があった。その時国は、規制緩和をし、国土交通省にも福祉部門の門戸を開き、サ高住と呼ばれる建物の運営ができるようにした。そのおかげで、介護を必要とする利用者の受け皿は増え、「待機者」と呼ばれる人々は減少に転じたが、利用者を支える介護職員の離職には歯止めがかからず、福祉専門学校ですら、4次募集をかけても定員割れを起こし、入学してくる大半が中年の人達だと、専門学校の先生がため息交じりに語るほどの状況になっていて、介護職の労働に対する対価は、経営する側にならなければ、ずっと据え置きのままという構造に気が付いた「普通のスキルを持つ」若者たちは、わざわざ介護職を選ばなくなっていた。

そして利用者側も介護保険を利用する人々の年齢層が、戦前生まれの人々から、戦後生まれの人々に移行しつつあり、その世代の高齢者の多くは20~30歳で高度成長期を迎え、60歳代でバブル経済を経験しているので、消費者マインドが強く、「お金を払っているのだから」と、権利を主張する人が増え、権利を主張する利用者の子供である人たちも少なからず、難しい人がいて、親子の関係は悪く、普段は関わりを持とうとはしないが、気に入らない事があると、目くじらを立ててクレームをつけてくるのである。

それに対して、すべてにおいて未成熟である職員側は、対応しきれない状況に陥ってしまっていた。

そして、現在の介護現場では、施設はあるものの、介護をするスタッフが集まらないという悪循環に陥っていて、求人募集をかけても就職を希望する人のほとんどが、「施設を横に流れてくる人」や「他の職種では上手く働くことができない人」に、なってしまっていた。


「ストレイ・シープ」 第16話

2023-03-01 20:40:09 | 小説
それから数年後、世の中の大半の人が、スマートフォンを持つ時代になり、ガラケーを使い続けていた僕にも、故障という理由からスマートフォンへ移行せざるを得ない事態になった。
使用料を含めると倍以上の月額料金になるので、とても抵抗があったが、店員さんから、「もうすぐガラケーも使えなくなりますよ」という進言があり、これも時代のする事なのかと諦めて、スマートフォンを手にした。
しかし、ガラケーの故障の具合から、店頭でのデーター移行は不可能と診断され、さらに、「スマートフォンに慣れておくためにも自力で入力した方がよい」と、言われてしまったので、これも、仕方なしと思い、近くの書店でスマホの取説を買い、うんうん唸りながら、親族や仕事関係等の主要な人物を登録し、職場でもLINEを通して情報を交換する事になっているので、早速LINEをインストールし起動させた。

すると、瞬く間に知っている人やまったく知らない人からの友達登録がなされるので、怖気づいていると、翌日、「ナミ」からのLINEが届いた。
全く不可思議な世の中になったなと思いながら、恐る恐るラインを開くと、

「元気にしてる? 久しぶり! 」と、あった。

余りのなつかしさに、「久しぶり! 調子はどうですか? 」と返信。

LINEの使用は初めてなので、ドキドキしながら返信を待つ。すると、少し時間が経ってから、長文が送られてきて、その文面からは施設での奮闘ぶりが伝わってきた。
相変わらず頑張ってるんだなぁと、感心しつつも、彼女にとっては、「大きな力から託された役割」という想いもどこかにあるのだろうなと思った。




「ストレイ・シープ」 第14話

2023-02-27 21:36:05 | 小説
その考え方に疑問を感じた僕は、「できない事は出来ないのだから、そこをお手伝いするのが介護職員の仕事では」と反論したのであるが、「じゃあ、その人の家に行ってやってあげられるの」と、「私の正しさ」を押し付けようとしていて議論にならなかった。しかし、その考え方を利用者さんにも押し付けている事には違和感しかなかった。

ある日、疾患によって関節の可動域が狭くなってしまったおばあちゃんが靴下をはけずにいるので、手伝ってあげると、それを観ていたスタッフが「どうして、手伝うの? ○○さんも、甘えてないで自分でしなければだめでしょ!」と言って従わせようとした。
「なんだかなぁ」と思いながら、おばあちゃんに「ごめんね」と言うと、「あんたは優しいな。あの女はほんとにきつい」と溢すほどの冷たさであった。

そういう人ほど、オバサンと呼ばれるのを嫌い、アンチエイジングを崇拝する「年を取ることを否定する」人だから、「年を取った時の事を理解しようとする気はない」し、様々な例えを介して説明を試みようとしても、全く受け入れられない。
なぜこんな事になっているのかとしばらく考え込んでしまったが、介護現場の構造はどこでも同じであるから、老舗の施設においても、「自分にとって具合のいい」が最優先事項なのだと気づいた。

そんな中でも、「ナミ」は真剣に話せば分かる唯一の人であり、信仰に篤い人であったので、仏の教えを頼りにいろいろと話してみると、一方的に否定するのではなく、きちんと考えてくれる人であったので、時間がたてば何事もなかったように談笑できて、不思議な人だなと思っていたが、ある日、「ナミ」は、「あなたとはソウルメイトなの。そう告げられたの」とスピリチュアルな事を言うので、そういう事もあるんだろうなと納得した。
そして、さらに、驚いたのは、シングルマザーでありながらも、ゆくゆくは「小さな施設を立ち上げたい」という夢があり、今はそのために準備をしていると宣言した事だった。


「ストレイ・シープ」 第10話

2023-02-22 20:20:45 | 小説
彼らは自分の思うように人を操作したい人であった。
そして、自身のスキルも怪しいものであるのに、指示は出すが、手は出さない事が指導なのだと疑わなかった。
その考え方が、現場の士気を下げている事を気付けない人達であった。

そんな環境では、「先生に勧められた」と言う動機で入社してきた女子たちにとって、頑張る意味はなく、その年の夏が終わる頃、ついに「ギャル」が退職を決意した。
「ギャル」も、入社してきたときから「リノ」と同じように気にかけてきて、基本的な事から応用的な事まで、丁寧に教え、大きなミスをした時には、悪びれず笑っていたので、本気で怒ったら子供のように泣いてしまったが、それでも、何故か、嫌われることなく、色々と吸収しようとしていたので、この子なりに頑張ってくれているのだと手ごたえを感じていた。
それなのに、なぜ、と思い、「ギャル」に話を聞きに行くと、素直な彼女は、「誰にも言わないで」という前置きをして、「ここの人間が嫌いだから」と、本音を打ち明けてくれた。
現場を知らない管理職の判断と人選から考えれば、職場の人を嫌いになるまでの過程は想像に難しくないが、それでも、退職するのはもったいないので、「もう少し頑張ってみては」と説得してみたけれど、彼女の決意は固まっていて、どうする事も出来ない不甲斐無さから「君が辞めてしまうのは本当に残念だよ」としか言えなかった。

純粋な気持ちが残っていただけに仕事と割り切れず、また、「口だけの上司」と「自分の事だけで精一杯」のスタッフでは彼女たちを助ける事が出来ず、精神的に追い込むことになってしまったのだが、「ギャル」が退職した事によって、再び「リノ」の不器用さが顕著になり、指示された事を指示された通りにできない「リノ」の「個性」を理解していない彼は、愛着のなくなった服を脱ぎ捨てるように、「もう、付き合えない」と、冷たく突き放した。

「ストレイ・シープ」 第9話

2023-02-21 20:59:50 | 小説
「リノ」にとっては、理屈よりも五感に訴えてくる快楽の方が現実であった。

そして、自分の想い通りに事が進んでいるので、泣くほど彼から叱られても、好きな人からの叱責は感情を揺さぶられるので、その場だけは辛くても、構ってもらっているという気持ちの方が上回っていて、それがミスを減らす原動力になっていた。

しかし、事態は関係のない者の手によって急展する。

ある日突然、施設長から個人のスキルアップ図るため、通所施設と入所施設の職員を2名トレードするお達しが出た。
その方針に「なぜ、いまさら」と思ったが、現場を知らない上司は誤った判断を下していても気付かないものなのだなと改めて認識した。
しかし、雇われている身なのだから、決定された事には従わなければならないので、出しゃばらずに静観していようと思っていたが、他の職員は、口々に「レクリェーションが嫌」と主張していて、古株さんも、そんな「子ども達」を手元から放したくなさそうであった。
その様子を傍から見ていて、いずれ声が掛かるのだろうなと思い、「僕、前職が通所なので、移動してもいいですよ」と手を挙げると、その二日後、入所現場でレクリェーションをうまくやっていた男子と通所介護現場に、通所からは、口ばかりで動かない中年女性が移動する事になった。

そして、部署が移動になったことで、「リノ」の様子は次第に分からなくなっていき、トレードの結果といえば、通所ではいろいろな変化が生まれていったが、「動かない人」が入った入所施設は、動かない人の分が個々に回ったため、次第に淀んでいく事になった。
しかし、「動かない人」は、「上」の人にはへつらう人であったので、古株さんと彼の地位はいよいよ盤石になり、その翌年、再び移動が発令されると、古株さんと彼は、自分たちにとって使いにくそうな人を移動させ、入所部署の君臨者となった。

しかし、数か月経つと、僕が入社した以降に入社してきた人たちが次々に退職してゆく事態になった。


「ストレイ・シープ」 第8話

2023-02-20 22:04:37 | 小説
それは、初めて質問した時のように、全く淀みの無い返事だった。
「リノ」は、きっと相談を切り出す前から、どうしたいのかはわかっていて、誰かに気持ちを肯定してほしいだけだったのだ。

しかし、仕事の進度は三年経っても、さほど変わらず、「リノ」との夜勤はいつも大変であった。
30床の内の20床の離床ケアを僕が受け持つことが常であり、徘徊者がいる日は、「リノ」に見守りを託して、黙々と他の利用者さんのケアをする事もあった。
これは、僕なりに考えた、とにかく手の遅い「リノ」の気持ちを追い込まない為の禁じ手であったが、他のスタッフに言うべきことでもなかったので、何事もなく仕事を熟していたが、それに気づいたのか、シフトを作成する古株さんと彼は、僕と彼女のペアで夜勤を当たらせる機会を多くしていた。
こちらもそれに気付かない訳がなく、勤務表をもらうたびに心の底で「やりやがったな」と思ってはいたが、すぐに気持ちを切り替え、肯定的に捉え、それならば、少しずつ僕なりの仕事をやり方、考え方について教えていこうと思った。
しかし、「リノ」は彼との夜勤で、僕のやり方で仕事を進めると、「そんなやり方はダメだ」と言われたと言い、とてもがっかりしたが、仕事以外の話となると、とても嬉しそうに、彼と一線を越えた事、これまでの経験の中で一番の快楽を得られたことなどを話す様子を見ていてると、何も言えなくなって、「まぁ、仕事は後からついてくるか・・・。」と、自身をなだめた。

「ストレイ・シープ」 第7話

2023-02-19 21:39:50 | 小説
入社して3年が過ぎた頃、地域の「社会体験」として、施設を訪れていた中学3年生の女子が、2日間で「リノ」よりも上手く動いてくれているのを目の当たりにして愕然とした。
いつの間にか「リノ」や「ギャル」が若い子の「基準」となっていたので、「彼女たちとは違う価値観で能動的に動ける女子もいるのだ」と、自分の視野が狭くなっていることに気づかされた。
しかし、その事によって、「リノ」のような子にこそ、福祉職はセイフティーネットでなければならないし、他の仕事は難しいのだから、この仕事を続けてくれるようにサポートしなければという想いが浮かんでいたのであるが、鈍感力の高い「リノ」は、僕の気持ちなど気付くはずもなく、今度は、同じ部署の既婚の男性を好きになり、その気持ちを抑えられないと言い出したのだった。

その予期せぬ告白に、驚いてしまったが、無下に拒絶すると絶望してしまうかもしれないと思い、とりあえず、話を聞きながら、どうすれば彼女にとって最善になるのかを探る事にした。
しかし、相手は女性慣れしていて、古株さんも手玉に取っている人だったので、どんなに思い詰めたとしても、ハッピーエンドにならないのは明白であった。
それでも、「自分の気持ちに素直なリノ」にとって、気持ちを秘めておく事は難しいだろうから、あえて気持を後押ししたとしても、相手の立場は、上司なのだから、冷たくはしないであろうし、仮に不倫関係になったとしても、望みが叶い、ハッピーになり、職場に通い続けるモチベーションにもなると考え、

「気持ちだけでも伝えてみればいいんじゃないかな。相手は既婚者なんだし、それをわかったうえで聞くだろうから、後は彼の良心の問題。それに、気持ちを口に出すことは、黙って苦しい思いをいるよりは、前向きになるんじゃないかな。ただ、どう転んでもハッピーエンドにはならないけれどな」

と、助言をすると、頬を赤らめ、はにかみながら、「うん。そうしてみる」とつぶやいた。



「ストレイ・シープ」 第5話

2023-02-17 21:20:50 | 小説
その日は、シフトの関係で古株さんが「リノ」の指導係になり、終日、行動を共にする事となったが、それが事件発生の予兆であった。

その日の午後のおむつ交換を始める前に、古株さんは、ほんの少し難易度の高い利用者さんのおむつ交換を、「リノ」にたのんだのであるが、「リノ」は何を思ったのか、間髪を入れずに、「できません」と言ったのだった。

古株さんからしてみれば、何回も指導係といっしょにおむつ交換にあたっているのを知っていたので、「もう一人でも、できるだろう」と思って、ごく普通に指示を出したつもりであったが、なぜか、指示を拒絶し、古株さんも新人からそんな態度をとられる事は初めてだったらしく、イライラはついに臨界点を越え、いつも以上に強く「リノ」を咎めた。
そして、叱責を受けた「リノ」は、相当堪えたのか、その晩、泣きながら咎められた部分だけを吐き出すと、その話を真に受けた父親は、翌日「うちの娘が泣いて帰ってきた! どういうつもりなのか」と、施設に怒鳴り込んできたのであった。

まったくの「寝耳に水」であった施設長は、早急に関係者を集め、詳細を確認後、丁寧に事の顛末を説明したのであるが、父親は釈然としないまま現場に不協和音だけを残して去っていった。
しかし、非は「リノ」にあり、それは誰にでも理解できたので、父親の言い分を人伝に聞いた職員達は、「あのおやじ、ちょっとおかしいぞ」という印象を持ってしまう事になった。
それでも、抗議が効いたのか、古株さんの指導の仕方にも不備があったのか、施設長からのお達しがあったのかは分からないが、現場における「リノ」への対応はさらにソフトになっていった。

「ストレイ・シープ」第4話

2023-02-16 21:33:25 | 小説
そして、古株さんと、「親子」かと思えるほどの距離間を保ちながら、「したたか」に働いている少年少女たちも、最初は、不器用な後輩とイライラする上司の間で、どうしていいのか分からないようであったが、いつからか、古株さんに寄っておいた方が「徳である」と判断したのか、仕事は教えていたが、態度は冷ややかなものになっていった。

その様子を見ていて、いじめこそないが、このままでは、いつか「リノ」を追いやってしまうのではないかと思い、意を決して古株さんに、

「就職した事がゴールではないでしょう。これからの人生の方が圧倒的に長いのだから、会社としては彼女の成長を促すように育てていかねばならないのでは? 」

と、進言し考え直してもらうように説得を試みたが、入社して半年も経たない者から意見をされる事は、プライドが許さないようであまりいい顔はしなかった。


「リノ」も「リノ」で、強く言いすぎれば「ベソ」をかき、弱く言えば「受け流す」と言う有様で、糠に釘と言うか、暖簾に腕押しといった諺通り、手ごたえがなく常にもどかしさはあったが、「リノ」の気持ちに沿った教え方を粘り強く続けていると、とてもゆっくりとではあったが、少年少女たちも、感覚的に、どう接していけばいいのかわかってきて、長い梅雨が明けた7月の終わり頃には、現場の空気も徐々に好転し始めて、「リノ」も、その変化を感じ取ったのか、少しずつ笑顔を見せるようになった。

そして、高校生の頃から通い続けていた自動車学校もようやく卒業し、自力で通勤できるようになったと、とても喜んでいて、気持ちも環境もようやく安定してきたかなと思っていたら、また、新たな問題が発生してしまったのだった。



「ストレイ・シープ」 第3話

2023-02-15 22:10:36 | 小説
それでも、「全てにおいて劣っている」訳ではなく、何かのきっかけでアニメの話をすると、スイッチを入れたおしゃべり人形のように、延々と好きなアニメの事を驚くほど饒舌に語りだした事があった。
その変貌に驚きつつも、「覚える事も、話を聞くことも、話しかけるのも苦手」という印象は、僕たちの思い込みに過ぎなくて、興味の持てる教え方をすれば伸びてゆくのではと思い直したのであるが、「リノ」の不器用さは、新たな問題を露呈させることになった。

介護保険が施行された年は、就職氷河期と呼ばれるほどに日本経済も落ち込んでいたが、社会保険が主な収入源の介護は、ビジネスチャンスとなり、施設も増加する事になった。
そして、窓口が広がったことにより、雇用年齢もぐんと下がり、ティーン・エイジャーが参入してくる事にはなったが、それによって古株のオバサン達が、「私達は上がった」と間違いを起こす事になった。

しかし、その間違いは必然であったともいえる。

それは、介護保険が施行されるまでの介護は、「家政婦」の延長線上の仕事と言う認識が強く、個人の感覚で行われていても、さして問題なかった事が大きな要因であるように思う。
しかし、介護保険と言う保険金が投入された事で、「専門職」になり、職業としての地位は爆上がりしたが、介護保険導入までの過程で、専門的な技術や知識の蓄積、新人の教育方法等が確立されていなかった為に、古株さんの感覚は、「自分の具合のいいように」という以前と変わらないものであり続けていた。
そのために、「自分の思い通りにならないリノ」事は、「何とかして育てよう」というベクトルには伸びず、イライラを募らせる事しかできないのかなと、側から見ていて思っていた。

「ストレイ・シープ」 第2話

2023-02-14 21:29:45 | 小説
もし、この職場が古い体質の縦社会だったら、「お前、やる気あるのか」と叱責されてしまうと思われる「リノ」の答えは、イマドキと言えばイマドキと言えたが、どちらも違うと思い、自分なりの言葉を探した。
そして、会社に勤め始めた頃の僕も、上司からしてみれば、きっとこんな感じだったんだろうなと思い、「まぁ、最初はそんなもんだよね」と、柔らかく言うと、「リノ」はぎごちなく微笑み頷いた。
「リノ」の素直な感情表現は「まだ私は子供なので」と、アピールしているようにも見えたが、会社は学校と違い、労働を対価に変える場所であるから、「甘えてばかりいられない」と気付けば、心境の変化も起こってくるだろうと楽観的に考えていた。

介護の仕事の良い点は、基本、自分が、朝起きる。服を着替える。身だしなみを整える。トイレに行き用を足す。ご飯を食べる。歯を磨く、お風呂に入る。寝る。という動作ができていれば、それをできない人にしてあげるだけと言う所である。
その作業が7割であり、後の3割は、報告連絡相談、整理整頓清掃、記録をつけたり、ケアプランを作成したりできれば、問題ないのである。

しかし、「リノ」は2ヶ月経っても、「覚えられないのだったらメモを取るように」と再三注意されても、その場は頷くものの、メモを取ることをせず、しかも、基本的な事もおぼつかないままで、他の職員を困らせていた。
一方、彼女と一緒に入社してきたもう一人の「ギャル女子」は、小学生のような自由奔放さがあり、就職動機も「リノ」と同じであったが、指導係が教えてくれている事はメモに取り、ぎこちなくても利用者さんと会話をして彼女なりに頑張っていたので、進歩が見られない「リノ」の存在は一層浮いたものになっていた。