硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

男女の格差を埋めるには・・・。その2

2014-10-30 22:05:38 | 日記
続きをもう少しだけ考えてみました。

働く側の構造改革だけでは問題は解決しません。やはり行政側にも改革が必要となるでしょう。

議員を減らし12省庁の見直しを図ります。理屈から行けば人が減ればそれだけ税金が浮くので、その分を社会福祉へ回していただきます。また、女性が問題と考える社会問題の取り扱いは厚労省になりますので、厚生労働省の改革をより強く推し進めてゆきます。

次にエネルギー問題です。これは避けて通れません。どこかで豊かさを補うのであれば、現状では原子力発電所の再稼働は必要不可欠な要素です。

しかし、国民一人が一日に消費する電力や石油量を法律で決める事ができれば再稼働しなくて済むかもしれません。

そして、労働時間の制限です。競争から降りる事の出来ない特区(おもに2次産業)は現状を維持しなければなりませんが、医療機関や治安維持等、人の生命に関わらない三次産業は、22時以降の労働を禁止とします。

こうすれば、問題の6割は解決できるのではないかと思うのです。

男女の格差を埋めるには・・・。

2014-10-28 09:45:30 | 日記
女性活躍」政策に疑問を抱いた女性が「男性型の働き方」への抵抗感や「主婦の仕事を理解しない政府」への怒りを表明した記事を読んで、どうすれば問題が解消できるのか考えてみました。

まず、男性型の働き方を見直すということは、「競争から降りる」ということになります。「競争から降りる」事は、成長を止め少し不便な暮らしを受け入れてゆかなければならないということになります。
競争から降りる為には、自動車会社等、ありとあらゆる製造業を一つにまとめます。次に農林水産業と言った一次産業の従事者を増やし都市集中型を解体し、百貨店やスーパー、コンビニと言った三次産業も一社にしてしまいます。

人が分散し競争が無くなれば、(競争相手を海外の企業のみとします。したがって、海外の企業と競り合わなければならない企業は特区とし、エントリーを制限します。)一つの仕事に二人がつける位に余裕ができるでしょう。そうすれば、だれもが定時で帰宅できるようになり、気兼ねなく休みが取れるようになるでしょうから、家庭にも比重が置け、家事分担もできるでしょう。

次に、一つの仕事を二人で行うのですから、人件費を下げなければなりません。国内で地産地消するなら問題ありませんが、少なくとも海外との競争が残されている以上、高い賃金のままでは仕事の多くは海外に持っていかれてしまうでしょう。仕事が海外に流れてしまえば必然的に社会に出て働く機会も失います。
また、社長から底辺の従業員の給料の差額をつけないという方法もありますが、起業した人と従業員の給料がほとんど同じであったら、リスクを冒してまで起業する人がいなくなるでしょうから、なかなか難しいかもしれません。

そして育児や介護の問題を社会にまかせるのであれば、増税はさけられません。
今日の朝刊の記事で、世界経済フォーラムが公表した「男女格差報告」で首位となったアイスランドでは25.5%という税金を国民が負担しています。2位のフィンランドは23%、3位のフィンランドは25%(衣料品、酒等)となっています。
国土の大きさや人口が違うので一概にはいえませんが、それでも、社会に頼ろうとするのであればそれに見合った税金を払わなければならないのだと思います。(現状の税金で国が投資し確実に利益を上げ続ける事が出来ればよいのだけれど、投資とはギャンブルな一面もあるので、それは夢物語に等しいのです。)

個人によって幸福感はさまざまであるので、正解はないのかもしれません。しかし、記事を読んでみて、すべての問題を解消しようとするなら前述のような社会構造を構築しなければならないのではないかと思うのです。

辞任に追い込まれない為には・・・。

2014-10-24 00:09:31 | 日記
経済産業相の辞任のニュースを観ていて思った事を少しだけ述べておこうと思います。

お金の流れを把握していなかった詰めの甘さは、その立場上仕方がなかったのかもしれないけれど、政治資金の不正流用で何人も失脚している現状で、「我々は大丈夫だ」と、胸を張れる理由はなんであったのだろうか。

お金で支持を得ると言う事は、より多くのお金を積めばその支持を無効にする事が出来ると言う事でもある。したがって譲りがたい信頼というものはお金では買えないと思います。

また、「当時がこれで良かったから、現在もこれで良いはずだ。」という思考は「当時」で停止しており、時代の流れに即してゆかないと躓くのは自然なように思います。

なぜ彼女がこの時期に追い詰められたのか不思議であるけれども、腹心として未来ある若い議員さんを育て上げたいのならば、私心を捨て、情報は常に上書きし、周りに二心のあるものがいないか目を光らせ、語らなければならない言葉はよく吟味し、お金の流れを明瞭にしておかなければならないのは基本であるように思うのです。

そして、辞任に追い込まれない為には絶対的な権力をもつか、聖人のような人になるしかないのだろうなと思ったのです。

誰かの家。

2014-10-17 20:34:56 | 日記
ロードバイクで走っていると、以前より傾いていた古い木造の家が壊されていた。中学生の頃にも自転車で通ったこともあるので、その家の存在の記憶は随分前からあった。その家は遠い昔には伊勢神宮へと向かう街道に面していて、建物の作りから商売をしていた形跡があったので、以前は旅人の休息の場であったのだろうと思っていました。

そして現在、主のいなくなった家は少しずつ痛み、瓦や土壁がボロボロと道路に向けて崩れ倒壊の恐れが出始め、その家の前を通るたび「この家はどうするんだろうか。」と思っていたが、遂に取り壊す運びとなったようでした。

更地になりかけた跡地には手動式の井戸がむき出しになっていた。重機が大きな音を立てて土地を均している。そのそばで恰幅の良い浅黒い肌の男性が携帯を片手に大きな声で異国の言葉を話していた。

この家の主は、その家族は、家が完成した時、とても喜んだのだと思う。街道沿いであったからお店も繁盛しただろう。しかし、その終わりを異国の人の御世話になるとは思いもよらなかったでしょう。

にぎわいの無くなった街。若者は新たな地平を目指し都市へ向かう。そのせいか空き家が目立ち始めたのは仕方のない事なのかもしれませんが、その都市と言われる街でも時代は私達の気持など顧みず大きく変わって行くのだろうと思ったのです。

ノーベル平和賞と恐怖は等価なのか?

2014-10-13 20:46:34 | 日記
今日の朝刊にノーベル平和賞を受賞したマララさんに対し武力勢力が「敵には鋭いナイフを用意している。」という警告を出したと記してあった。

ノーベル平和賞とは何であろうか。受賞したことは素晴らしいけれども彼女の生命の危機が増した。大人たちはこの事実をどう見ているのだろうか。

武装勢力はパキスタン・タリバン運動からは決別した新たなグループらしいけれども、なぜ、決別したのだろうか。

クルアーンを軸とした活動であるならば、アッラーのほかに神は無しであり、ムハンマドは神の使徒なり。なのであるから、思想の不一致で別れてしまうのには違和感を感じます。

もし、決別した理由に「益」が絡んでいてそれが原因で上手くまとまらなかったと考えると、組織が大きくなっても、国として上手く統治出来ないと思う。それこそイスラーム以前のアラビア半島のようになってしまうのではと思うのです。

また、しっかりと教育を受けたマララさんもイスラームの民であるのなら、西側の影響を受けつつも逸脱する事はないであろうし、まだ少女であるのだから脅威を感じる存在とは思えない。それなのになぜ、彼らはそこまで少女に恐怖を与えるのだろうか。

そう考えると彼らが本当に護りたいもの、脅威するものは何であろうかと言う所に行きつく。

そこを僕なりに考えてみて思った事は、教育の格差。いや、「言葉」なのではないかと思ったのです。

教育を受ければ、読む事も出来るし書くことも出来るようになります。言葉が「神」であるのなら、より理解できる。

幼くして貧しく戦闘員になるしか道がなかった者にとって、それは脅威になるのではないだろうか。少年少女達が沢山の言葉を覚えれば、より多くの人達が教導師になれる機会が増えてゆくのは自然です。そうすれば、格差はますます広がるばかりです。

ならば、シンプルに武力と言う恐怖を持って、あらかじめ増えないように抑制する手段を取るのは自然のように思います。

しかし、あくまでも個人的な考えなので、本当のところは分かりませんが、彼らにも命を掛ける何かがあり、マララさんも命がけで世界に向けて主張している事だけは確かです。

どちらが正しいのか。それを判断するのは外側の人間ではなく、やはり、偉大なるアッラーが教えてくれるのだと思うのです。

 السلام عليكم  「あなたの上に平安がありますように」。



軽率な行動は控えるべし。

2014-10-07 19:38:42 | 日記
イスラム国で戦闘員として従事したいという青年が公安に事情聴取を受けていると言うニュースを観て驚いてしまった。

しかも、その動機がはっきりしない。イスラム国で戦闘員になると言う事は、革命に身を投じるのであるから、生半可な自己満足な思考では本当に甘過ぎると思うのです。

むこうは遊びではない。命を掛けた革命である。先の戦争から平和を維持している極東の島国で日常に閉塞感を感じているからという動機で戦えるだろうか。

それで理不尽な命令に従う事ができるだろうか。国を捨て親を捨て、神のみに身をささげられるだろうか。

同じ宗教でも民族が違うというだけで戦わなければならない事を理解できるだろうか。

継承者の違いで争う事が理解できるだろうか。目の前にいる恨みもない人間に対して剣を突きさせるだろうか。

噴き出す血を浴びて、動ぜずにいられるだろうか。自身の首をはねられる事に恐怖を感じずにいられるだろうか。

極限の閉塞感の中で信念も持たずに、武器を手に取り、見えない未来へ迷いなく突き進んでゆく事が出来るだろうか。

その覚悟がないのであれば、誰にとっても失礼であり迷惑である。

良い大学へ通っているならば、閉塞感を破る為に学ぶべきではないか。国内でも苦しんでいる人は沢山いる。すべてを大人たちのせいにしないで、その壁を打ち破る為に頭脳を働かせるべきではないだろうか。命を掛けるなら、まず身近な人の為に命を掛けてみてはどうだろうか。

また、入信する事は良い事であるが、アラブの民は紀元前からずっと必死の連続です。その歴史や血、クルアーンの真髄はそんなに簡単には理解できないと思う。だからせっかく大学へ通える環境にいるのだから、軽率な行動をとらないで、本当に戦闘が必要であるかどうかを徹底的に問い続けて学び続けてほしいと思うのです。








胃がきりきり痛むのは変だろうか。

2014-10-05 23:39:06 | 日記
昨晩、討論番組を観た。「なぜ戦争はさけられなかったのか」というテーマで有識者の方々が熱く語り合っていましたが、真実は誰にも分からないようなので一向に核心に迫れず、陛下が詠まれた短歌をとっても、その解釈が聖書の解釈の仕方で言い争うのと同じような体を成していたので、これはどれほど語りつくしても真実にはたどり着けないと思いました。

そして、様々な文献を探し研究している学者の先生すら真実をつかめないのであるから、やはり、戦争とは訳の分からないものであるらしいと自身に言い利かしましたが、胃がもやもやしたままでした。

そして、今日、防衛装備移転三原則についての番組を観ていたら、次第に胃がきりきり痛みだしました。


介護の仕事をしていて、此処の所、平和の恩恵を受けているからこの仕事が成り立っているんだなとよく思うようになりました。

税金と保険で成り立つ介護と言う仕事を継続させてゆくためには国の豊かさが必要です。だから、豊かであるからこそ社会福祉制度が機能しているといえるんだなと思うのですね。でも、更に豊かさを求めようとするなら、どこにその豊かさを求めればよいのかを考えるとたちまちフリーズしてしまうのです。

何もない所から、少しずつ豊かさを作り上げている途上は内需で済んでゆきます。しかし、豊かさが行き渡ってしまうと、内需では豊かさを増す事ができませんから外の国へと進出してゆくしかありません。より人件費や材料費の安い所で生産し、市場も外の国へ広げる事で豊かさは増して行けますが、人件費や材料費が国内と変わらなくなれば、更に人件費や材料費の安い所へ手を広げてゆくしかありませんが、その事によって私達に寄り添った仕事はどんどん外の国へ移って行きます。しかし、それでも、いずれ限界はくるでしょう。そこで、新たな商いに着手し利益を得るという選択は人が豊かさに欲望する以上は自然の成り行きといえるでしょう。

それが、兵器であったとしても、その仕事に携わるすべて人の生活がより豊かになるのであれば企業にとっても個人にとっても幸福な事なのかもしれません。もちろんそれによって税収も増え、社会福祉に還元されるでしょうから、私達にもその恩恵が少なからず与れるのではと思います。

しかし、それは誰かに犠牲の下に成り立っていると言う現実は避ける事ができないのです。それが使われ消費されることによって仕事が増えるのですから何とも複雑です。しかし、先の戦争から復興が早かったのは隣国で戦争が起こった為に沢山の仕事ができたと言う前例があるわけですから、その事実を取り消す事は出来ません。

私の幸せの為に、誰かが涙をのまなければならない・・・。なぜ、こんな論法になってしまうのでしょう。

競争に勝つため。生き残るため。名誉のため。名声の為。巨万の富のため。等々・・・。

助け合い、労り合い、譲り合い、共存、共生できればそれが一番幸せなはずだとは思うのですが、世の中は、歴史は、権力は、それを赦してはくれません。しかし、豊かさは過ぎると必ず滅びるものです。ギリシャもローマもオスマン帝国もモンゴル帝国も徳川幕府も盛者必衰の理からは逃れる事は出来ませんでした。資源を消費し、環境を消費し、人間を消費し、それでもなお人類は豊かさに欲望するのです。

それをわかっていても、少しでも幸福になりたいと思う自身に矛盾を感じ、胃がきりきり痛むのです。

そして、改めて思うのです幸福とはなんだろうかと。


少女達は自分を愛したかった。

2014-10-02 20:17:33 | 日記
北海道で起こった殺人事件の容疑者が少女だった。彼女は厳しいしつけの下育てられ、それが殺害動機であったと報道されていた。

ついこの間も、人を殺してみたいという興味から友達を殺してしまったという事件の容疑者も少女であった。

なぜ少女達は殺人を選択したのだろうかと考えていると、その共通点の根本は同質なのではと思ったのです。

もちろん殺害動機は事なるけれども、彼女たちは個人の幸福を目指したと言えるのではないでしょうか。

また、「自由」というものへのあこがれが少女達の後押しをしたように思います。でも、それは誰もが求めるものでもあります。

だた、救いの手を差し伸べてくれる人が不在で、少女達が出来る選択の中に殺人という手段でしか得る事が出来なかったと言うだけのような気がします。

しかし、考えをもう少し掘り下げてゆくと、少女達は性差を越えた個人主義の結果を見せたのではないかと思ったのです。

「少女」ではなく、一人の人間として自分を愛したかったがゆえに他者を殺めてしまったのは、その選択を導かせた環境が大きく働いていると思うのです。

一概にはいえませんが、大らかな両親の元でのびのび育っていれば、個人の芽生えは暴力と言う形で表れなかったように思うのです。

女性の社会進出が謳われていますが、ストレスフルな社会で活躍するには犠牲を伴う。それは、男性社会と言えども男性にも同じ事が言えます。競争に勝ち続けることが目的であるなら、目的を成就する為に手放さなければならないものも多くあるように思います。

もし、仮に神様がアダムよりイヴを先に創造していたら前述は逆さまの論理で語られたのではないでしょうか。

話を戻しまして。

もし仮に、その犠牲が子供たちだとして、その結果が少女達のとった行動だったとしたらそれは幸福と言えるでしょうか。

だれかが犠牲になれなければならないと言う表現は良くないと思います。しかし、誰かがその重荷を背負わなければなりません。これほど、核家族化が進んでしまえば、社会がどうにかするものだと考える人もいるでしょう。しかし、行政の仕事になれば低い賃金で高いリスクを背負わなければならない人が出てくるのです。

その人たちの幸福はどうすればいいのでしょうか。スキルのない人たちに背負わせればよいのでしょうか。そうだとすれば、格差はますます広がるばかりです。

そう考えると、問題はすっきりと解決せぬまま次世代へ先送られるだけのような気がします。

でも、子供たちはその次世代の人達になるのです。ひょっとすると子供たちはそれを無意識に感じているのかもしれません。

だから、より個人主義的な思考に傾倒したのだとは思うけれど、少女達はただ自分を愛したかっただけなのだと思ったのです。