硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

手のかからない事は良いけれども。

2018-12-31 21:38:15 | 日記
初雪が降る中、マイカーのタイヤをスタットレスに交換する。バイクや車を初めて所有した頃、自身の手でメンテナンスをすることが好きだったので、メンテナンスフリーの車に乗ることになっても、タイヤ交換位は自分の手でと思って毎年行っている。

今日のお題、「手のかからない事は良い事だけれども」であるが、一昨年、10年間乗った車から異音が出だして、妻が「もう買い替えなさい」と強く言うので、動かなくなるまで乗るつもりだった、トヨタ「サクシード」を手放して、妻の推す車にしぶしぶ買い替えた。しかし、最新の車は驚くほど進歩していて、運転する事の楽しさはないけれど、トランスポーターとしては最適、でも、困った事もあった。それが今日のお題につながります。

その一つが、最近の車は、スペアタイヤがついていないことである。

クルマを購入した際に、スペアタイヤがない事をディーラーから説明を受けた時は、「ご時世だなぁ」と思っていたが、初めての冬を迎える前に、購入したスタッドレスタイヤで、通勤途中、細い道で対向車とすれ違う時に、寄りすぎたため、道の端にあった、ブロックに左側のタイヤが乗り上げてしまった。すごい衝撃であったが、普通に走行できたので、そのまま職場へ。しかし、帰宅しようとすると、左前のタイヤは見事にパンクしていた。しかも、タイヤのサイドに穴が開いてしまっているので、修復は困難である。

仕方なくJAFを呼ぶも、年末であったので、寒空の中、一時間半近く待つことになってしまった。

こんな時、スペアタイヤがあったら、ホイホイと交換して、翌日にでもタイヤショップで交換する事も出来たのであるが、利便性を追求した車では、それが、できなくなってしまった。

JAFの方がとても親切で、救われたけれど、やはり、応急セットでは対応できないことには、不便でしかない。しかし、ドライバーがタイヤ交換をすることを、めんどくさがらない人の方が少ないので、仕方がないのかもしれないけれど、アナログだった車を知っている者にとっては、少し寂しい気がします。

今年も、ささやかなつぶやきにお付き合いいただき有難うございました。来年も、変わらぬお付き合いよろしくお願いします。良い新年をお迎えください。


あとがき。

2018-12-25 21:56:58 | 日記
最後までお付き合い頂き有難うございます。

この物語は、新約聖書の「ルカの福音書 10・25―37」の「善きサマリア人のたとえ」を下敷きにしています。
事あるごとに、キリスト教的に、隣人になる事とは、どういうことなのかを考えさせられますが、世界での、とくにキリスト教圏での様々な争い事を観ると、本質を見失いそうになります。やられても、仕返しせずに、ただ沈黙を保っていることが、自身の人生にとって正しい選択なのかと、葛藤してしまいます。
答えは目の前にあるのに、それが理解できないというもどかしさが、一層心を悩ませます。

しかし、きっと、こういう想いを手放さなければ、永遠の命というものは、得られないものなのかもしれませんね。 メリークリスマス

そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」 3

2018-12-25 21:55:20 | 日記
しばらくすると、今度は、馬を連れて旅をしている男が坂道を下りてきました。
服装からすると、異邦人である事が分かりました。腰には剣を携えています。男は、もうダメだと悟りました。
しかし、その旅人は男を見つけるなり、近寄ってきて

「大丈夫か。酷い怪我だ。今助けるから少し待っていろ」

と、言って、馬の鞍に結んである皮の袋から、オリーブ油とぶどう酒と布を取り出し、男を手当てしました。

男は驚きました。

「司祭様やその人に仕える人は私を避けていったのに、身も知らない異邦人が私を助けてくれるなんて」

感謝の言葉を言おうとしましたが、声が出せず、男は涙を流しました。

それに気づいた旅人は、

「なにも言わなくていい。安心しろ」

と、言って、男を抱えて、馬にのせると、町に向けて歩み始めました。
助けられた男は、ゆれる馬の背で、考えていました。

道すがら、兵士に出会ったら、兵士は馬に傷ついた男を乗せた旅人を怪しんで、罪人扱い扱いするだろう。そうしたら、彼自身の命も危うくなるというのに、なぜ、私を助けたのだろうか。

宿屋につくと、旅人は宿主に事情を話し、一晩中、男の介抱にあたりました。そのおかげで、命は救われました。

翌日、旅人は、旅を続けなければならない為、男にこういいました。

「安心して休んでいろ。金の事なら心配いらん。君の神に感謝しろ」

そう言い残し、名前も告げずに、宿を立ち去りました。
男は寝床で思いました。

「本当に、神の御心に叶う行いというのは、律法を雄弁に語る事でも、神や神殿に仕えることでもなく、困っている人を助ける事ではないのか」

何日か過ごしているうちに、男はようやく元気を取り戻しました。床から出て、世話になった宿の主人に、お礼を言い、支払い事を尋ねると、宿屋の主人は、

「あんたを連れてきた旅人が、すべて払ってくれていったよ。だから安心しな」

と、言いいました。驚いた男は、「せめて、旅人の名前だけでも教えていただけないだろうか」と、尋ねると、「名乗らなかったから、わからねぇが、どこか遠い国のお人らしい」

と、言いました。男は、宿を出て、神殿に向かい、神様に祈りました。

「命を助けて下さりありがとうございました。私の命を救ってくださった旅人が、無事に旅を終えますように。神のの守りが、旅人から離れませんように」

神殿を立ち去る際に、男の事を知らないふりをした、司祭様に出会いましたが、司祭様は、気づきませんでした。男は、軽く会釈をすると、司祭様は、「神のご加護があらんことを」と、唱えました。

帰り道は強盗に合う事もなく、歩み続けることが出来ました。そして、家が見えてくると、兵役を終えた父が、家から飛び出してきて、息子に駆け寄り、抱きしめました。その後からは、元気になった母が、涙を流しながら息子の下に歩んできました。

「よく帰ってきた。心配したぞ !」

「父さんお帰り。母さん、病気は良くなったの」

「父さんがね、良い薬草を買ってきてくれたの。それを飲んだらたちまち治ったのよ」

男は安心しました。そして、祈りが通じたのではないかと思いました。

「よかった。心配をかけてごめんね」

「それより、ひどい怪我の痕じゃないか。まぁ話はあとだ、さあ家に入ろう」

父と母に抱きしめられた男は幸福をかみしめました。父も母も息子の帰宅に喜び、幸福に包まれた家族は家に帰ってゆきました。

そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」 2

2018-12-24 20:28:04 | 日記
街を外れると、荒れ野が広がっていて、マートルやカシャマツ、レバノン杉が茂っています。その中を、人や馬、羊たちが踏み固めてできた細い道が真っすぐに伸びています。その道は、遠くの国へと続いているのだと、男は父から聞いていました。

男の住む村は、細い道の先に見える、小高い、山を越えた、そのふもとにあります。早く帰って母に薬草を飲ませてあげなければと、懸命に歩んでいました。
しかし、突然、強盗達が現れて、

「金目のものは全ておいてゆけ。言う事を聞かないと、命がないぞ」

と、脅しました。でも、男は、脅しに屈しようとはせず、

「お前たちに渡すものはない。先を急いでいるから通るぞ」

と、言って、強盗達の間を抜けて行こうとしました。
しかし、強盗達は男を羽交い絞めにして、容赦なく殴り掛かりました。
男は必死に抵抗しましたが、多勢に無勢。ひどく殴られ、お金はもちろんの事、薬草や着ていた服まではぎ取られ、道端に置き去りにされました。

「なんでこんなひどい目に合わなければならないんだろう・・・・・・」

男はひどく殴られたので、動くこともできませんでした。助けを呼ぶ気力もありません。うっすら目を開けると、ハゲタカが円を描いて飛んでいるのが見えて、このまま死んでしまうのではないかと思いました。

しばらくすると、神殿にもいた、司祭様と呼ばれる、人々と神様の間を取り持つ、とても偉い人が坂道を下ってきました。どうやら、神殿に向かうようです。男は「神の仕えだ。助かった」と、思い、司祭様の方をみましたが、ひどい怪我をした男を見ると、避けるように道の向こう側を通り過ぎてゆきました。
男は、とても驚きましたが、声も出せないほど、怪我を負っていたので、通り過ぎてゆく人の後姿を見ている事しかできませんでした。

男は思いました。「地上にいる民全てが、聖なる者に近づくことが出来る。救いを得ることが出来るというのは・・・・・・、嘘なのか」

太陽は高くなり、渇いた風に舞い上がった砂ぼこりが、傷ついた男の身の上に積もってゆきます。喉もカラカラになり、ハエも集まってきて、男の周りを飛んでいます。
それでも、希望をもって救いを待っていると、司祭様の次に偉い人が、坂道を下ってきました。彼もまた、神殿に向かうようでした。
男は、その偉い人の方をみましたが、その人も、司祭様と同じように通り過ぎてゆきました。

男は思いました。

「神様の次に信頼していた人々なのに、なんて無慈悲なんだろう」

たいそう信心深かった男は、心まで傷ついてしまいました。

そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」

2018-12-23 18:05:02 | 日記
遠い遠い、とても遠い昔にあったお話です。ある所に、働き者で家族思いの青年の男がいました。でも、男の母は流行り病にかかり、床に臥せっていました。

「母さん。具合はどう ?」

「まあまあだねぇ。でも、お前がそばにいてくれて安心だよ」

「父さんがいてくれれば、一番いいんだけれどね」

「父さんも、兵隊さんとして頑張っているんだから、わたしも負けていられないわ」

母は、いつも、心配してくれる息子に心配をかけまいと頑張っていました。

男の家には、先祖代々、受け継がれてきたオリーブ畑があって、本来ならば、父と共に、オリーブを育てるはずでしたが、父親は王立軍の兵士として集められ、攻め入る敵との戦いに赴いていたので、男は一人でオリーブ畑を護り、育てていました。

そのおかげで、収穫期には、熱心な働きが実を結び、オリーブは豊作となり、しかも良いオリーブだったので、高い値で売れました。
男は嬉しくて喜びました。なぜなら、流行り病によく効く薬草を買う為には、まとまったお金が必要で、それが、隣町で売っているという噂を耳にしていたからです。男はお金が入ると、さっそく、次の朝、薬草を買いに行くことを母に告げて、隣町に出かけました。

堅牢な城壁に囲まれた神殿のある隣街は、いつも様々な国の人が行き交っていて、騎士団によって守り固められた門をくぐると、町中に石畳の道が引き詰められている、当時では最も進んだ都市でした。
その中にある市場には、沢山の屋台が軒を連ねていて、あらゆるものが売られていて活気に満ちています。

男は道行く人に声をかけてお店の場所を尋ねますが、人や店の多さ、言葉が通じない人もいて、とても苦労しました。それでも、市場の中を行き来しているうちに、ようやくお店を見つけ、薬草のうわさを聞きつけて集まった人達に、もまれながら、ようやくの事で薬草を買うことができました。

男は一安心すると、母の病が治る事、父が無事帰ってくる事を神様にお願いしようと、信仰の中心となっている立派な神殿に向かいました。

神殿の中では、祭壇の前で、たくさんの人が祈りをささげています。男も、祭壇の前にゆくと、ひざまずいて、

「神様、どうか母の病が治りますように、父が無事、兵役から帰ってきますようにお守りください」

と、お祈りをしました。すると、男は心強くなり、真っ直ぐに、家に向かって、歩き出しました。

介護現場に観る多様性社会とその展望。

2018-12-22 21:20:13 | 日記
職場の忘年会に出席する。他部署の人とはほとんど面識がないので、はじめましての方が多い。したがって、いつもの事であるが、自身の気持ちを押さないと自身の場所が見つけにくい。

それはさておき、現在の介護施設の現場は人手不足という共通の問題を抱えていて、その根底には、世代交代という運営に直接関係してくる問題が潜んでいます。

まず、現状の課題として、人手不足を補うため、窓口を広げた。そのことによって、学校卒業と共にエントリーしてきた少年少女から、その流れで長く勤めている人や、経歴豊かな男女や、シルバー人材の男女という、皮肉ではあるけれど、結果的に、多様性社会の構築を進める事となった。忘年会は、それを如実に表していて、とても興味深かった。(楽しむことより、冷めた目でそういうことを考えてしまう自分が悲しいなとも思った。)

しかし、そこにも、問題が潜んでいる事に気づいた。今年、全体で15人くらいの職員さんがエントリーを果たしたのであるが、利用者のキャパシティーは変わらないので、それに近い人数が退職していったという事でもある。その人数が去っていったということは、プライベートな理由もあるけれども、何度も述べている事だけれど、退職していかない人に問題があって、居心地が悪くなったという理由が考えられる。そう考えると、彼等もまた、同じ理由で退職してゆく可能性が極めて高い。

多様性社会を構築するにあたって、重要なのは、互いに個人の個性を受容する事と、至らない所を補い合う事が重要である。しかし、個人の個性というものは、時に弱きものを平気で傷つけるものでもある。また、多様性社会のなかで、自己の優位性を担保するために、意図的に格差を生じさす人がいるので、負担を強いられる人が必ず出てきてしまうのである。

それは、個人の個性を受容する事と至らない所を補い合うという、重要な働きを否定してしまうので、そのような歪なコミニュティーは、共産主義国家が長く続かないのと同じように、多様性社会を構築できずに、緩やかに衰退してゆくしかないと思う。

もちろん、個人の権利を担保するために、そこに生じた負担を他者が変わって引き受けるというのも、多様性社会を維持してゆく為には大切な要素であると思う。
しかし、その為には、その社会の中で精神的な成熟をなさねばならないという課題をクリアしてゆかねば、持続可能な多様性社会は構築できないと思う。

しかし、経営者からすれば、自身が存命中、組織が維持できれば、かなりハッピーであるから、経営者は、残ってくれる人に対して、仕事全般について、厳しく言及せずに、精神的成長を促さず、暖かい目で見守ってあげれば、経営者のカラーは、じわじわと人々に浸透してゆき、結果、目標は、高い確率で達成される。
それは、コミュニティーのリーダーが、包括的に個人の個性を受容し、至らない所を補う役割を果たすことになり、優位的な立場を維持した形で、相互依存という関係を確立させるからです。

したがって、色々考えて、経営者のカラーに疑問を懐き、現場を改善してゆこうと試みる人が、末端の現場ですら煙たがれられてしまうのは、仕方のない事なのかもしれません。

また、どの業種も人手不足である中、いくら公金を財源とするビジネスであったとしても、そのような形でしか維持できないとするならば、職員の増員が見込めないのが明らかならば、事業の規模を縮小して、そのような形で更新してゆくしか手がないような気がするのです。



「先生の白い嘘」

2018-12-16 18:34:38 | 日記
先日、「しくじり先生」というテレビ番組を観た。南海キャンディーズさんと元議員の宮崎さんがしくじり先生として講義した内容は、とても興味深いものだった。

山里さんの講義も、考えさせられましたが、元議員の宮崎健介さんの講義では、奥様の金子さんも登場され、とても驚きました。そして、金子さんから発せられる言葉は「聖母」のようで感動を覚えました。しかし、それと同時に胸に突き刺さる様にある漫画を思い出したのです。

それは、つい先日TSUTAYAさんでレンタルし一気読みした、鳥飼茜さん「先生の白い嘘」です。

気になるタイトルであったので、いつか読もうと思っていたのですが、伸ばし伸ばしになっていて、ついこの間、ふと思い出して、鳥飼茜さんを検索すると、作家の村田紗耶香さんと対談されていて、それがとても面白かったとコメントされていた。

それを観て「これは読んでおかなければ」と、読んでみたのですが、やはり、読後「これはやられてしまった」とため息を吐いた。

「先生の白い嘘」はフィクションなのですが、どこまでが、鳥飼さんの五感で吸収されたものであるかは読めないけれども、現代の女子高生のすべてとは言わないけれど、ある人達にとってはたいへんリアリティのある描写なのかもしれないと感じさせます。

また、鳥飼さんの作品は、言葉では描写できない瞬間を「絵」によって、切り取り、表現されていて、セクシャルな部分にも抑制が効いてとても文学的で、心に響いてきました。
(物語の下敷きに夏目先生の『心』を使う所なんか、ずるいなぁって、にやにやしてしまいした)

さて、何故宮崎夫婦の講義を観て、「先生の白い嘘」を思い出したかですが、まだ読んでない人の為に、断片的に述べておこうと思います。

登場人物の中に「早藤君」という男性が登場するのですが、彼が宮崎さんを彷彿させ、「淵野美奈子」「山本玲奈」さんが、金子さんと重なってしまったからなのです。

金子さんに関しては、海外留学で出会った人達や、近藤亨さん等、様々な大人達の影響を受けつつ、人格を形成しているので、「赦す」こと「隣人を愛する」事を実践されておられるのかもしれないけれども、「淵野さんと山本さん」が持つ深層心理に類似しているのではなかという想いも捨てきれないのです。

でも、本当の所は、彼女自身にもわからないかもしれません。しかしながら、金子さんみたいな美しくて芯の強い奥様がそばにいる、宮崎さんは本当にうらやましく、罰当たりであるということは言い切れると思うのです。

そして、彼の言葉の節々から垣間見れる危うさは、なにか残念でなりませんでした。

煽り運転。

2018-12-14 18:15:22 | 日記
自動車の運転免許を取得して20年位になり、ゴールド免許ももらった。しかし、安全運転をしていると、時々煽られてしまうときがある。遅すぎるんだなと感じると、ペースを上げたり、早々に道を譲ったりして事なきを得ているけれど、煽られるという行為は、ここ数年目立ってきたように思う。

時間に追われる人、その時間に対してぎりぎりに動く人、それをスピードで補える手段を得たこと、また、他者の動作に不快感を覚える人、不快感を与えられたことにより報復に出ることを躊躇わなくなった人が増えた事が、煽り運転の増加の原因だと思う。

自動車を持つこと、運転する事が当たり前になってしまったから、自動車が「凶器」になってしまうようになった。倫理観が希薄になりつつある人類に、自動車は、もう、人に運転させてはいけないものになってきたのかもしれない。

忘れさられてゆく、忘れてはならない出来事。

2018-12-11 20:47:41 | 日記
ある昭和一桁生まれのおばあちゃんは高齢による認知症。でも、まだまだ元気で本人曰く「口だけは達者」。 だから会話はできるのですが、認知症であるが故に時々、脳内タイムトラベルする事がある。

そのお婆ちゃんとお話をしていて、突然、こんな話をし出した。
「この間、日露戦争で戦死した、私のお母さんのおばさんの旦那さんの恩給の受け取る所が遠いで、おばさんの代わりに、支那事変で戦死した、(おそらくお婆ちゃんの)おじさんの奥さんと一緒に、おばさんの代わりに恩給をもらいに行ってきた。乃木さんがいた日露戦争で死んだんや」

もうすぐ年号が変わる。日露戦争があった。支那事変があった。という、事実を、生身の人から口伝されるのは、もう最後かもしれない。

「ウエストワールド シーズン1」

2018-12-10 21:08:15 | 日記
3か月かけて「ウエストワールド シーズン1」を観終えた。観続けるのがかなりしんどいドラマだったので、時間を掛けてみたわけですが、観終えてようやく色々な事が、思い浮かんだ。

「アンドロイド」とはいえ、自我が生まれれば、その世界が作られて与えられたものであったとしても、自身が生きている事、存在している事を認知すれば、、ゲストの為に理不尽に殺される事は、侵略であり、略奪されてると認識するであろう。と、すれば、侵略者を殲滅し、自身の世界を護ろうとする行為は、自己防衛であり、その存在はもはやアンドロイドではなく自我を持つヒューマンであり、それが、オリジナルによって認識されるのか、レプリカントによって認識されるかの違いだけになる。
エンターテイメントであるけれど、来るかもしれない未来に向けての「メタファー」であり、「嘘」でもあり、様々な意味を持って警鐘を鳴らしているのではないだろうかと思った。

また、作品の中に、「うる星やつら ビューティフルドリーマー」「機動警察パトレイバー MOVIE1」「イノセンス」「スカイ・クロラ」という押井守さんが手がけた作品の数々の断片が見られるのではないかと思ったのは気のせいであろうか。

しかし、「ウエストワールド」というドラマの凄さは、アクターとアクトレスの演技に尽きると思う。
メンテナンスを受ける時は裸体であるし、感情を出していても「解析しろ」と言われたら無機質に起こった事を淡々と語らなければならない。ある時は、狂人にならねばならないし、ある時はロボットのように動かなければならないし、ある時は、詩人のように愛を語らねばならないし、ある時は哲学者のように語らねばならない。とても、スキルを必要とする仕事である。
また、エキストラの人達も、目立たぬところで殺されたり、目立たぬところでセックスしなければならないという、日本では考えられない演出には、驚かずにはいられない。
演者の殆どが、かっこいい男と、綺麗な女なんだけれど、無残な死体になろうとも、自身の裸体をさらけ出す事になろうとも、彼らは、それをチャンスだと「演技に徹して」いて、観る者を魅了した。
それでも、ハリウッドで成功を収められるのは、ほんの数人であるのだから、本当にシビアな世界なんだなと感じた。

「シーズン2」もレンタルが始まっていた。物語の面白さは解るけれど、やはり、観続ける事がしんどい事に変わりないので、もう手が伸びないと思う。

改定入管法は人々を豊かにするのだろうか。

2018-12-09 19:46:13 | 日記
改正入管法が可決した。外国人が単純労働でも働けるようになり、人手不足の解消を図るという目的らしいのですが、労働者派遣法も多くの問題を抱えている現状では、さらに問題を増やしてしまうのではないかと思う。

前回の東京オリンピックは、何もないところからの復興で、多くの日本国民が、豊かさを求め団結し、環境問題をとりあえず後回しにして、経済を成長させる事に成功したのだと思うけれども、今度のオリンピックは、豊かになった人々が、具体性を欠いたまま、誰かを踏み台にして、より豊かになる事を目指しているように映ってしまう。

僕たち日本国民の多くは、個人には攻撃的になれるけれど大きな権力の前では、「仕方がないよ。決まった事だし」と諦めることを選択する可能性が高いけれど、文化の異なる海外の人達は、自国では問題があっても、異文化の中では団結し不満は膨張するかもしれない。

ハイリターンは、ハイリスクを犯さないと得られないと思うけれど、普通の暮らしをしている人々にリスクを背負わせてまで、ハイリターンを求める政策は、本当に正しい事なのだろうかと疑問に思うのです。

もしかすると、本当の狙いは、諸外国のように、国民一人一人の混血を促進し、根源的なグローバル化を図ることが狙いなのかもしれない。

介護実習生の来日が少ないのは。

2018-12-02 19:35:23 | 日記
今日の朝刊の中で「介護実習生の来日、一年間で247人だけ」という見出しの記事を見つけた。興味深い記事であるので、じっくり読んでみると、人材が思うように集まらないのは、言語が壁になっているらしいののだけれど、僕が思うに、原因はもっと深刻なものであるような感じがします。介護は日常生活の動作が、その作業の主たるものとなるので、自己の感情さえコントロールできれば誰でもできる。だから、海外の人に働いてもらおうという考えだったと思う。でも、海外の人は少しでも豊らな暮らしを求めて、就業の場を日本という国に選んだはず。

でも、その東南アジア圏も豊かになりつつあり、人のお世話を仕事とするならば、自国でも日本と変わらない対価を得られるまでに成長しつつある。
日本での介護の仕事は、言語の壁を乗り越えることで、自国では得られない大きなものがある。ということがないならば、わざわざ日本語圏で低賃金で就労する意味はない。
大きな対価を得る為にはグローバルに展開しなければならないという考え方は、東南アジア圏に住む人達でも同じであるから、差はあるものの日本がリードし続けているという錯覚は日本の人達にのみに共有される。

たしかに、言語の壁もあるかと思うが、言語の壁を乗り越えるために努力して、様々な仕事についている人もいるので、事の問題は「言語」ではなく「介護職の対価」そのものにあり、政策を立てている人達との間に、ズレが生じてしまっているからではないかと思う。

東南アジアに投資する企業が沢山あるというのに、なぜ、生活水準は留まったままであろうという考えに陥ってしまったのだろう。

もし、この考え方が的を射ているとするならば、政府の人達は、海外の市井の人の暮らしを、もっと観察すべきだったと思う。