硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

透析中止問題について考える。

2019-03-26 21:29:00 | 日記
朝刊の記事の中に投石中止問題についての識者の意見が掲載されていた。
報道されてから、とても気になっていたので、自分なりにいろいろ考えを巡らしていたので、ここにまとめておきたいと思う。

人が、自分の力で生命が維持できなくなることを、「自然の死」だとすると、透析という医療行為によって、寿命を延ばすことは、「不自然の生」という事になる。
生きている事に「自然も不自然もない」というのも間違いではないし、生きていたいという意志と、それが医療行為によって可能になるならば、多くの人は医療行為によって延命する方を選択するであろう。

では、「死」は誰が決めるのであろうか。「死」は避けなければならないものなのであろうか。
個人が決める事であるから、明確な答えなどない。

しかし、識者はこう言った。

「医療現場で、医師が、患者に『自己決定権』を委ねてはならない」
「今日、死を選んでも明日はどうなるか分からない。そういう希望と可能性がある存在で当然、立場が変わる時がある。だから医師が患者に死を促すような選択肢を提示する事はあってはならない」

正しいと思う。しかし、その為に対価を払い制限のある日常を生きてゆかねばならないのは患者である。
もし、透析という技術が無ければ「死」を迎えていた存在でもある。

介護現場で透析を受けている人を何人も見てきた。隣の人が食べている物が、制限によって食べられない。どうして食べられないのかと、感情をあらわにする人もいた。体調の起伏が激しい人もいた。

その度に、その人の幸福とはなにかを考えた。ドライな人は「自業自得」と切り捨てた。

医療倫理とは何か。尊厳ある死とは何か。

これほど便利になった世の中でも、根源的な問題は未だ解決を観ることが出来ない。
「死」は、もう個人の手の中にはないのかもしれない。

京都の夜は僕に似合わない。

2019-03-24 18:36:59 | 日記
町内会が主催する旅行に声が掛かった。しかし、僕は地域愛が希薄なので気が進まなかったのであるが、大人として、無下に断るのも悪いと思い参加する事にした。
行く先は、京都。桜の季節にはまだ早く、行く道の途中では雪も降っていた。
京都は三重から車で2時間ほどの距離である。一昔前なら、延々と一号線を行くしかなかったが、現在は新名神が開通したことにより随分快適になった。

京都で一番最初に訪れたのは、伏見稲荷。たいへん人が多い。しかも、東南アジア系や韓国、中国の民が多く、共に移動してると、様々な言語が飛び交っていて、日本ではないような気もしてくる。
一昔前ならば、修学旅行の学生さんや、地方からの観光客であったのに、時代はすっかり変わってしまった。しかし、それは一昔前には途上だった国の経済が発展しつつあるという事を顕著に示しているように感じ、また、日本経済が追い抜かれる日も近いのではないかと考えた。そして、日本に魅力が無くなった時、次はだれが貨幣を落とすのだろうかと心配になった。

伏見稲荷で参拝し終え、再びバスで移動する。京都の道は本当に渋滞が多い。また、運転手さん曰く、京都のドライバーはマナーが悪いのだそうである。
宿泊地の四条に着く。その後の予定を尋ねると、夜は、祇園で食事会である。思わず驚くが、皆さんの後をついてゆくしかない。夜の祇園で食事が戴けるなんて夢のようで、僕も随分大人になったもんだと思った。

お店につき、めいめいに席に座って、食事を待っていると、京都に精通している社長さんが手配した、綺麗な女性がやってきて、それぞれのテーブルについて、おじさんたちの場を和ませた。
綺麗な女性は、平成生まれの20代後半の人であることに驚いたが、よく考えてみれば、元年に誕生した人でも今年で31歳になるので、驚くことはないのである。
僕は、夜の繁華街には、とんと縁がないので、どう振舞ってよいのか分からなかったが、お嬢さんはそれが仕事であるので、こまめに気配ってくれたので、飲めないお酒が以外に進んだ。時頼見せる笑顔にドキドキしながらも、会話が途切れると、どうしていいのか分からず、おろおろしてしまったが、離れしている人が、上手く埋めてくれて安堵した。

美味しいお料理も一通り食べ終え、次に行きましょうと声が掛かる。どうやら2次会があるようである。お嬢さんにお話を聞くと、どうやら「同伴」という形で、会に参加しており、その流れで、お嬢さんたちが勤めている「ラウンジ」へと向かうというのである。
ようやく状況を飲み込めたのであるが、環境に圧倒され続け、とりあえず、ついてゆくしか術がなかった

古都の花街、夜の祇園をしばらく歩いてゆくと、お嬢さんたちの勤めているラウンジに到着。お店に入ると、綺麗で、セクシーな服を身にまとったキラキラしたお嬢さんたちが、通路に並んでいて挨拶をしてくれた。

浮き足立っていた足が、さらにふあふあとして、なんだか落ち着かない。
遊びなれた人たちにとっては、それが普通のようで、普通に振舞っていたのであるが、迷いが生じた僕に、ボーイさんはどうぞこちらへと、席へと促してくれ、ようやく腰を落ち着かせたのであるが、先ほど挨拶をしてくれていたお嬢さんたちが、近距離に座ると、腰の据わり心地が落ち着かなくなった。

目のやり場に困るセクシーな服と、甘い香水の匂いに軽い眩暈がした。シルバーのネイルの細い指が慣れた手つきで、マドラーを回すと、氷がグラスに触れる音がとても遠いように感じた。慣れた手つきと甘い声。グラスが目の前にそっと置かれた。なんて非日常な空間なんだろうかと思ったが、誰かの音頭で皆で乾杯し、笑顔でグラスを重ね合わせた。お酒を口に含むと、旨い具合に作られたお酒に感心した。

お酒が進むにつれ、時間が麻痺し、狭くなってゆく視野と、耳に入ってくる音全てが歪んで、夢心地になり、不思議な錯覚に陥りそうになるが、お嬢さんの自然に触れるボディタッチが緊張感を引き締めなおしてくれる。
余りにもよそよそしかったらしく、隣のお嬢さんも、「そのキャラはもういいよ」と言ってくれたのであるが、どうしたのものかと思ったが、こういう場では、女性との距離感が分からないと、楽しめないのである事に気づいた。遊びなれているおじさん達は、本当に楽しそうで羨ましいなと思ったが、職業柄、他者を不快にさせないという自制が強く効いているので、旨く羽目を外せない。まぁ僕は僕なりでよいと開き直り、お嬢さんをこれ以上気まずくさせないようにと、ポジティブに会話を試みた。

どれだけ飲んだのか分からなくなったが、気分よくお酒を飲めたのは確かであり、最後まで、隣に座ったお嬢さんとは、ちゃんと目を見て話すことなく、お開きとなった。

夢だったのではないかと思うほど、非日常的な出来事であったが、人通りの無くなった鴨川沿いの道を、冷たい夜風に吹かれながら歩いてゆくと、ようやく地に足がついた心持になった。

「式の前日」を読んでみる。

2019-03-08 21:55:06 | 日記
朝から頭痛に悩まされ、薬を飲んでコタツで横になってあさイチを観る。
特殊メイクアーティストの江川悦子さんの生立ちに感動しつつも、漫画を紹介するコーナーで「式の前日」というマンガが紹介された時、なぜだか「読まなくては」と思ってしまった。コタツでうとうとしながら時間を過ごし、お昼前になる頃、書店へ向かい早速本を探す。
おぼろげな記憶を補正するために、スマホを取り出し、タイトルを入力すると、正確な情報を得ることが出来た。素晴らしい時代である。

さっそく、読んでみると、思った通り面白い。

短編集でもあるので、サクサク読めてしまう所も大きいけれど、ストーリーの構成が上手い。きっと、作家さんと感性が合うのではと思いつつ、ページを進めてゆくと、それを決定づけた、一話と最終話がリンクしている最終話の「それから」。

巧みなストーリーも面白いのだけれど「それから」で「飼い猫が語り」、物語が進んゆくのだから、おもわずにやにやしてしまう。

普段、漫画はなかなか手に出しにくいけれど、この出会いのおかげで、穂積さんが描く他の作品も気になってきてしまった。

愛とは幻想や物語の中にしか存在しない物なのであろうか。

2019-03-06 20:47:01 | 日記
今日もまた、児童虐待のニュースが流れていた。この手のニュースを聞くたびに、どうしてなんだろうと考えてしまう。
子供を作ることを諦めてしまった僕に、子育てに対して意見する事は間違っているとは思うけれど、子供たちの訴えた声を想像すると胸が痛む。

どうして、我が子を愛せなかったのか。誰もがそう思う。しかし、こう考えた。
時頼、動物でも子供を放棄してしまう事がみられるのだから、「愛情が希薄」なのは、少数ではあるが「生き物としての根源的な感性」の一つであると言えないでしょうか。
ただ、人は法に則って生きているという、特殊な生き物であるから、その行動が「はみ出して」見えてしまうのかもしれません。

もちろん、貧困であった、教育を受けていない、両親から愛情を注がれなかった、他者から迫害され続けていた、核家族化で間違いを正す人が傍にいない、というような環境が人格を形成したともいえるけれども、隣人の普通の生活を送っていた青年が、ある日突然「猟奇的な殺人者」だったという事実を知るという事件から考えると、多様性社会とは、そういった感性の持ち主も「いる」のだということを、もう少し認識することが必要なのでしょう。

思いやりのない人が増えた。と、言えるかもしれません。これも「時代がすること」かもしれません。それは、行き過ぎた豊かさが原因かもしれません。でも、豊かさの為に、犠牲になる人がいるのは、いつの時代も同じなので、これが現代人による、現代人が抱えなければならない問題なのでしょう。
したがって、国が法で縛りを利かせても、法を破れば身の危機がすぐ傍にあるといった状況に置いておかれないと、すべての個人の危険な衝動や欲望を止める事は出来ないのではないかと思うのです。

愛とは、幻想や物語、虚偽の言葉でしか存在し得ない物なのであろうか。