硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

愛は地球を救うのか?

2019-08-25 18:29:04 | 日記
福祉施設を営んでいる友人が、たまりかねたのか、LINEで24時間テレビの批判を伝えてきた。

事の発端は、スペクターさんのツイートで、リンクが張られていたので読んでみると、なるほどなと思う内容であった。

友人自身も福祉に身を置いているので、24時間テレビに、ほんの少し関わった事があって、その時の印象がよくなかったことが、琴線に触れたらしい。

僕自身は、子供の頃、ずっとテレビがやっているという奇抜さのみに興味を持って、翌日、学校に行くと、どこまで観たかとか、何が面白かったかという話題もあって、ほんの少しだけ観たけれど、テレビは一家に一台という時代であったから、印象に残るほど、観れてはいなかったし、田舎であった為に、募金場所は、遥か彼方であり、障碍を持つ人を見て、なぜ、そうなったのか理解できなかったから、正直、良い心持はしなかった。

だから、自分でテレビを買って、部屋に置いた時も、観る事はなかった。
福祉の仕事に就いてからも、観る事はしなかった。

そして、社会は僕たちが思っている以上に複雑であることを知り、友人の批判には、その気持ちはわかるけれども、仕方がないのではという趣旨の意見を返した。

番組の起源は純粋なものだったかもしれないけれど、テレビ局は大きなお金が動く場所であるし、大きなお金が動けば、それに群がる守銭奴もいるだろうし、地位や名誉に執着した者もいるであろうから、すべての人が純粋に慈善事に動くほどの純粋さはないように思う。

畢竟、人類は地球を救うほどの愛を持ち合わせてはいないのだから。

それでも、僅かでも、注目されたことによって、救われた人、番組を通して希望を持てた人がいるのであれば、偽善かも知れないが、よかったのではないかと思う。

しかし、いまは過渡期である。インターネットでは個人が発信者であり、細部にわたり様々な情報が扱われる時代である。企画した人の苦労は理解できるけれど、固定概念に捕らわれたざっくりとしたテーマでは、批判も出るであろうし、業界の中から批判が出てきたという事は、そろそろ番組も抜本的な見直しが必要になったのではと思う。

今後もチャリティーを主とした24時間テレビを作り続けるとするならば、社会福祉に興味のない人が、困窮者の事を思いやるきっかけを作る番組であってほしいと思う。

一握りのエリートが支配する社会。

2019-08-22 21:11:42 | 日記
終戦記念日の前後で、いくつかの戦争についての番組を観た。

前回の日記から、なぜ、無謀ともいえる戦争をつづけたのかを考えていた。そして、ふと思った。

開戦当初は、勝つ為であったかもしれないが、敗戦色が色濃くなったときに、目的は、人口を減少させるための戦争へとシフトしたのではないかと考えた。

それは、明治時代から人口が急速に増えたこと、その人口増加に食糧の供給が追い付かなかった事、増加した人口に対応する土地と仕事を生み出すことが当時の日本の喫緊の課題であって、政府や軍部はあてにならないと、国民に思わせない為に、国内での内戦を引き起こさない為にも、視点を逸らす必要があったと仮定して、どこまで人口減らせば日本は安定するのかを、予測したうえで、戦争の継続をリードした人達がいたと考えれば、無謀な作戦の遂行にも、うなずけるのではないかと考えるのです。

もし、それが真実であったとしたら、フィクサーは表舞台には表れないものであるから、一握りのエリートが支配する社会は、今もなお続いているという事になるのではないかと思うのです。

現場を軽視する人々の思考は理解できない。

2019-08-11 22:36:50 | 日記
NHKスペシャルを観る。胃が痛くなる。。エリート呼ばれた人たちは、なぜ、現場を軽視するのか。人が死んでゆく事に、何とも思わないのか。負けない戦をしなければならないのに、メンツより負けない事が大前提にあるのに、なぜ内輪もめをしてしまっているのだろうか。
圧倒的な物量の差で、幕府を倒してから、たった70年で、その事実を忘れてしまったのだろうか。

分からない事ばかりである。

メンツを最優先する事。問題を先送りする事。場当たり的な作戦を遂行させる事。事前準備を怠る事。責任の所在を転嫁したり、うやむやにしてしまう事。

これは、日本人の考えかたの典型的な型なのだろうか。

あいちトリエンナーレ2019問題。

2019-08-06 22:46:54 | 日記
芸術をかじる程度に愛している者として、あいちトリエンナーレの展示物問題について一石。

文化の成熟が芸術を高め、その芸術によって人々を奮い立たせたり、感動させたりする。
無論、発言しにくい問題をアートにたくし、人々の意識に訴える事も芸術の役割である。
また、アートとは、誰もが喜ぶようなものに偏ってははならないし、誰かの反感を買うことを前提にした作品もアートであるように思う。

だがである。

アートであるなら、センスが問われなければならない。
直接的なメッセージなどではなく、皮肉が無ければならない。ナンセンスが無ければならない。笑いが無ければならない。悲しみが無ければならない。観るものの足を止めさせ、考えさせねばならない。

鑑賞者の多くに不快感を与えるだけの作品なら、それはもうアートではなく、個人の自己満足でしかない。限られた者だけを満足させたいのであれば、個展を開けば良いのである。

繰り返すが、芸術とは文化の成熟の証であり、芸術とは無縁の人達の代弁者でなければならない。心を揺さぶらなければならない。政治的な切り口は他にもあるだろう。声にならない声も沢山あるだろう。芸術家として時代に甘えてはいないだろうか。

もし仮に、軍国主義に陥った時、もう一度同じことをできるだろうか。

言論、表現の不自由は今に始まった事ではないし、個人が言いたいことを言い合えば、争いにつながる。言いたい事を云いあい、互いの齟齬を認め合い、共生してゆけるほど文化は成熟していないのであるから、相互理解を深めるなら、ある程度の自制が必要である。また、芸術家なら、表現方法は、他にもあったのではないか。

芸術をかじる程度に愛する者として、今回の問題は大変残念である。

生きている事の意味。

2019-08-01 22:41:36 | 日記
60歳後半で、パーキンソン病と診断された人と、話す機会があった。

その人は、初めに「この病気は治らないものなのか?」と問うた。
僕は、その問いに対して、「現時点での医学では完治する事は難しいと思います」と答えると、その人はこれまでの経過を切々と話しだした。
パーキンソンと診断される前は、主治医からも整体師からも「よくなりますよ」と言われ、希望を持っていたという。しかし、パーキンソン病と診断されてからは、「治りませんねぇ」と告げられ、その時、その人は「だましておいてくれたらよかったのに」と思ったのだという。そして、何故、あんな事を云うのかと問い詰められた。
僕は、おそらくは、という前置きをした後「きっと、治ると言ったら責任が問われる事になるし、他人事だからだと思います」と答える事しかできなかった。

自身との気持ちとは裏腹に、身体の痛み、不自由さが日に日に増してゆき、その度に「生きている意味なんてないんじゃないか」と思ったと打ち明けた。
日に日に体が動かなくなってゆくのを自覚しながら、希望など持てる気にもなれない。
自覚があるなら、なかなか埋められる気持ちではないし、気休めになる言葉などない。
ただ黙って、その人の言葉にうなずくしか術がない。

僕は、無い知恵を振り絞り、
「リハビリを続けなければ、体力、筋力は落ちてゆく一方です。頭の中は若いままかもしれませんが、老いというものは平等なものであり、確実に僕たちの身体を死に追いやります」
と、言うと、その人は、「たしかに、そうかもしれないな。リハビリは続けないとな」
と言った。

現時点での科学の力では、どうする事も出来ない。その人の身体は、自分の意識とは乖離し続け、いずれ自分の力では自分の身体を動かすことが出来なくなる日が来る。
その過程で「生きていることの意味」を問い続けるであろうし、途中で絶望してしまうかもしれない。

言葉を持たなければ「生きる事の意味」など、なかったであろう、しかし、言葉を持ってしまったがために問われ続ける哲学的な問いに対して、我々は、誰もが納得できる答えなど、導き出せはしないだろうと思う。