硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

評価されても良い点。

2022-09-30 10:27:06 | 日記
国葬当日の夕方のニュースを観ていた時だった。

その日休みだった妻は、国葬中継も観ていたらしく、国葬について持論をいろいろ語っていたのであるが、国葬反対者のデモの様子が映し出された時、「海外の人も来ているのに、デモだなんてみっともない」と言った。

元首相の事をなぜか気に入っていた妻らしい発言だと思いながらも、「これは民主主義が機能しているということだよ」と、返すと妻はそれ以上何も言わなくなった。

何が正しくて、何が正しくないのか解らなくなる様な事も多い世の中であるけれど、自分の意思をしっかりと持って、最低限のルールを守って生きていれば、それなりに生きてゆける素晴らしい国である。

国葬反対を支持した理由は人によって様々であろうけれど、デモが権力によって出来ない事こそが、日本国の危機であると思うから、その点は、評価されても良いのではないかと思う。


小さな嘘と彼女たちの未来。

2022-09-26 21:08:39 | 日記
不可解な出来事があった。

その出来事に関わる登場人物は3人である。

Aさん(女性20歳)は、とある施設に通っていて、その施設に行く為に施設の送迎バスを利用している。
続いてBさん(女性21歳)は、施設で働く事務員さんである。
そして、Cさん(女性50歳)は、バスのドライバーさんである。

その送迎バスを利用する際はeメールで予約し、施設のpcで、eメールを確認後に、迎えに行く時間などを再びeメールで返信する工程を前日に行ない、前日の午後には予定表を作成し、Cさんに渡され、当日にその表に従って送迎を行うのが一連の手順である。

ところが、当日の就業前に、Aさんの送迎を頼まれてしまう事態が発生したのである。
そのいきさつが、前日の施設の終了間際に、AさんとBさんの間に「メールは送りました」「メールは届いていません」という齟齬が生じてしまって、予約バスの受付時間も過ぎており、ドライバーさんも退社した後なので、とりあえず翌日に託そうという事になって、当日の朝になったという。

人伝に聞いたことなので不明瞭な事も多いが、不可解なのはAさんとBさんがもめた事である。

もし、現代が携帯電話のない時代であるのならば、「言った」「言わない」で、もめるであろうし、紙面でのやり取りなら「渡した」「もらってない」でもめるのも理解できる。

しかし、デジタルネイティブ世代の人たちが、eメールのやり取りで「送った」「届いてない」で、もめるのは理解できない。
送信者の携帯には「送信履歴」が残るはずであるし、受信者には「受信履歴」「返信履歴」が残るので、確認が可能であるからである。

しかし、もめたらしいのである。

当日の朝、Cさんには偶然的に時間に余裕があったのでAさんを迎えに行くことができたのであるが、CさんはよくわからないままAさんとBさんとの間に生じた「齟齬」に振り回された形になった。

Cさんのフォローによって、AさんとBさんは目的を達成し、「終わったこと」になったので、さほど気にしていないようであるが、僕がCさんの立場であれば双方に不信感が生まれる。

それは、どちらかが小さな「嘘」をついているという疑念である。

仮にAさんの消費者マインドが強ければ、自分の利益を損なわないために嘘を押し通そうとするであろう。そしてBさんが「嘘」をついているとするならば、メールの確認を怠り、後になって発見し、内内でシナリオを作り、Cさんに作話を伝達し、自身の自尊心を擁護するために嘘をついたと推測できる。

確かに、どちらも子供がするような、小さな「嘘」であるし、Cさんもうまい具合にフォローできたので結果オーライであるが、彼女たちのどちらかは、この小さな嘘が今後、自身に与える影響の大きさを理解していないのでは思うのである。

「お金で人を動かしている」という意識が希薄であるとはいえ、もし仮に、小さな嘘が、沢山の人を巻き込んでいる重大な案件に関わっていたら、事の重大さは歴然であり、いたずらをして怒られてしまった子供ように、泣いて「ごめんなさい」と言っても、それだけでは社会は許してくれない。
自身の稚拙な判断によって、自身の人生がしんどいものになってしまうリスクが潜んでいるのである。

だから、頭が固くならないうちに、小さな嘘をつくのをやめて、素直に「忘れてました。すいません」と言えるようになれば、いずれ信頼を得られるようになり、将来大きな失敗をしたとしても、誰かが救いの手を差し伸べてくれるようになるという事に気づいてほしいと思う。


国葬について、もう一考。

2022-09-16 10:11:19 | 日記
国葬についてもう一考。

お葬式自体はもう済んでいるのに、あえて国費で「お別れ会」を行わなければならない理由は、外交と、故人の功績を世に広く知らしめ、歴史に名を刻む事と、故人のやり遂げられなかった意志を引継ぐのは我々であるという事を、国民にアピールする事にあると思う。

国葬については、様々な意見が溢れているけれど、やはり、様々な意見が溢れていた方が、平和であるように思うし、もし言論統制されれば、戦中に逆戻りである。
それは一極の思想を共有している人々のみが生きやすい世の中になる事である。
意に沿わない者を排除しようとする気持ちは、人の深層心理にあるものだけれども、日本と言う国がそういう思想に傾倒してゆかないのは、いろいろ理由はあると思うけれど、根本は敗戦国だからであると思う。

今回の国葬は大きな権力を有する一部の人たちが押して、執り行われるようになった儀式である。その是非を討論するのも良い事であると思うけれども、それより大切なことは、少し傾きのある国葬を目撃している私達は、歴史をゆがめぬように、何があったのか、どうして国葬になったのかを、後世に伝える事なのではと思う。

映画「contaguion」を観て思った事。

2022-09-11 10:53:39 | 日記
TSUTAYAさんで面白い映画はないかと陳列棚を眺め吟味していると、一本の映画が目に留まった。著名な俳優さんが沢山出演されていて、メディアからの評価も高そうな文言が載っていたのでレンタルして観てみた。

映画のタイトルは「contagion」。

接触感染と言うタイトルで分かるように、ウィルスがどのようにして広がってゆき、人類がどのようにして振り回されてゆくのかを描いている映画であるが、この映画が公開されたのが2011年である。

その時点ではフィクションであったが、現在においてはかなりリアリティを感じさせる予言ともいえるべき映画で驚いたのであるが、この作品の力は、未来に向けてどんなメッセージを放っていたのだろうかと考えると、少し残念な気持ちになった。

現在のコロナウィルスは、特効薬がない事を除けば、ほぼインフルエンザと同じような動きになってきており、集団抗体獲得に近づきつつあるように思う。
(インフルエンザでも老若男女問わず死者が出ていたのだから、そろそろそうとらえてもいい頃ではないかと思う)

もし、行政の人々もそのように捉えているのなら、コロナパンデミックの初期の扱い、例えば「ダイヤモンドプリンセス号」での対応の仕方や、その後の対応などを検証して、何が悪かったのかを抽出しなければ、次のパンデミックも同じことが繰り返されてしまであろうし、繰り返された場合、ネット上にはたくさんのコロナ関連の情報が残っているので、「進歩がなかった政府」と叩かれてしまうのではと、未来の国を憂いてしまったのである。



国葬について思う事。

2022-09-07 20:59:46 | 日記
今日の長官の一面には大きく国葬費総額16億6000万円と記してあった。
賛成多数と思われていた世論にも賛否があり、国葬反対の署名運動もなされた。

そもそも、なぜ国葬にしなければならなかったのでしょう。
巧みな外交を行ったから? 株価を上げたから? それとも長州閥の人で、それが伝統だから?

昔と違って情報過多の社会であるから、その説明が必要であるのだけれど、名門出で、歴史に名を残すのが必然な人であるのだから、国葬にする事は慣習であるから、説明は不要であるとでも言うのだろうか。

もう、戦後ではないのに。

安部さんが本当に人気があるのであれば、クラウドファンデングとか、チケット制にして葬儀に参列したい人に買ってもらう等すればお金は集まるはずであるし、その資金で葬儀を執り行えば問題にならなかったのではないかと思う。
その方が現代にフィットしいている、粋だなと思う。

「無理を通せばと道理が引っ込む」。と言う諺は、えらい人たちには響かないのだろうか。