硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

変化を恐れてはならない?

2019-12-31 15:17:23 | 日記
こんにちは。お久しぶりです。今日は久しぶりにネットに繋がって、近頃思ったことを綴っておきます。


大晦日、小雨の降る中車を洗う。12月だというのに風は冷たくない。最近のワックスは濡れたまま掛けてゆくものがあることを知り、使ってみるとなるほどこれは便利になったなと感心する。二年前に、エンジンから異音が出だして、細君が車の買い替えを進めてきたから、しぶしぶクルマを買い替えたが、最近の車の性能の良さに驚くばかりであった。
変化は恐ろしく早くなっている。

そして、ここ1~2年の間、とても感じるのは、昭和のあらゆるものが維持できなくなってきていることである。

つい先日、送迎車から街の風景を観ながら、デイに通うお婆ちゃんが「昔は賑わっていたのになぁ」と、笑いながら言った。たしかに、昔は多くの人が往来した街道沿いや城下町にある住まいが壊され更地になったり空き家になったところが目立つようになったように思う。

そして、若者は利便性の高いところへ引っ越してしまい、昔を知るお年寄りが多くになった。
それでも、商店街の活性化というアプローチで様々な人が取り組んではいるけれど、私達が物を所有する豊かさに依存している以上、そこに人は集まらない。論より証拠ではないが、郊外のショッピングモールは今日も多くの人でにぎわっている。

寂れてしまった商店街が、一番賑わっていた頃は、近くにあった製紙工場を中心とした、小さな産業が点在していて、それに伴い、労働者が生活する借家や銭湯、映画館や劇場、遊郭などもあった。
車は富裕層の人々のみが所有する時代であったので、労働者の人達は、自転車か徒歩が移動手段であった。だから、街道に連なる商店街は、江戸時代と地続きの商売を行うことが出来た。しかし、自動車が人々の足になりだすと、街道は狭くなり、新しい場所に広い道を作る事を望むようになった。そして、新しい道が出来ると、渋滞は緩和され街道には車を持たない人たちが通うようになった。しかし、車の大衆化が進むと、街は郊外へと延びてゆき、物流も盛んになつて、トラックが増えだすと、新しい道路も渋滞しだし、バイパスの増設の話が持ち上がった。この頃から、人の流れが、急激に変化し始め、バスや国鉄といった公共交通機関も変化を余儀なくされ、一里塚は文化遺産へと役割を変えた。

街は一見豊かになっているように見えたが、人件費の高騰で多くの産業は、もうからなくなり、廃業、縮小という道を辿る事となった。

その街の中で暮らしていた人も、利便性の向上により、より便利でモノが安いところへと、足を運ぶようになる。借家暮らしの人達も、仕事がある都市へと移動した。

労働者が減り、娯楽施設がなくなり、人の足が自動車に代わり、郊外の大きな資本のスーパーには多くの物が陳列されると、商店街は、急速に集客力を失った。

人が利便性欲している以上、避けられない変化だったのだと思う。

素通りされる街を再び賑わせるためには、街そのものをリノベーションするしかないように思うが、賑わいのない街にはお金がないのである。

人や物の往来があってこそ街は活気にあふれるものであるし、住みたいという魅力も生まれ、街を自治をしてゆこうという思想も起こるのだとすると、その条件を満たさないと、人はどんどん移動してゆくのではと思う。

人も街も、昭和を留てはおけない。それは、変化を恐れてはいけないという意味も含んでいるのではないか。送迎車を運転しながらそんなことを想った。

それは、終わりなき争いなのか。

2019-12-05 23:13:02 | 日記
「ダーク・ゼロ・サーティ」「記者たち~衝撃と畏怖の事実」「バイス」という映画を何となく続けて観た後に、中村哲さん死亡のニュースを観て衝撃を受ける。

紀元前から続く争いは、民族や宗教間のものであったかもしれないし、荒れ果てた大地であるから、水という資源を巡っての争いがあったかもしれない。

しかし、現在ではどうも違うらしい。「バイス」での劇中の、アフガニスタンを空爆するシーンで、兵士が「石器時代のような場所に、爆撃してどうするんだ」というようなセリフがとても印象的であったが、ソビエトがアフガニスタンに侵攻した理由が、鉱脈だとしたら、そのセリフの理由も「それかな」と思えてきます。

そして、穀物などの農業を安定させてしまうと、ケシの生産量が落ち、それによって困る人が出てくる。

二つとも、小さな初期投資で、確実に大きな利益が得られるので、群がる人も多いことが予測でき、そこに利権争いが生じるのは、必然である。

安定と平和もたらされるという事は、赦し合いと分け与え合いが成立する事でもあるが、今もなお、大きな組織が、その資源を独占しようと目論んでいるならば、国民がどれだけ平和を望んでも、組織の利権争いの前では、平和や安定は不要とされてしまうのである。

愛は、悪魔に魂を売る人々には勝てないのだろうか。