みちのくの山野草

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2466 稲作と『農業科学博物館』(#1)

2011-12-20 08:00:00 | 賢治関連
 さて今までの情報では陸羽132号はいいことずくめのような気がする。だからだと思う、一時期この品種は岩手県を席巻した。それは下図からも明らか。
《図表1 「岩手県のイネの主な品種の変遷」》

<『図説 宮澤賢治』(上田哲、関山房兵、大矢邦宣、池野正樹共著、河出書房新社)より>
 とはいえ、一方では戦後になると次第に作付けが減っていったことも明らかで、それが何故なのかを知りたいと思っていた。
 すると、この資料の註釈の中に『岩手県農業博物館』資料とあったから、この博物館に行けばその理由が判るだろうと思ってインターネットで探したが見つからず。ただし北上市に『農業科学博物館』なるものがあるということを知ったので、そこに行けば何かしらこのヒントがありそうだと思って出掛けてみた。
 その建物は〝岩手県立農業ふれあい公園〟内にあり、その博物館は「農業れきし館」と「農業かがく館」の2つから成り立っていて、そのリーフレットは下図の如し。
《2 「農業科学博物館」のリーフレット》

 入館料大人290円を払って入館。
 興味を惹いたのは「昭和初期の稲作」を紹介するビデオ映像である。それによれば、昭和初期、つまり賢治が下根子桜に住んでいた頃の稲作の流れなどは次のようであったという。
・夜明けから夜遅くまで働き尽くめだった。
・機械もないからみな手作業だった。
・田起こしはかつては〝三本鍬〟で行った。これが最も重労働だったが次第に馬耕へと変わり、深く耕せるようになったし、楽になった。
・梅雨に入る6月初めから田植えをした。
・田植えは〝ゆい〟を結成して皆で一斉にやった。
・田植えが終わっても仕事は絶えることがなく、その後は田の草取りであった。
・田の草取りは稲の生長に合わせて3回行った。
・草取りも大変だったが昭和初期から除草機が導入されたので少しは楽になった。
・しかし最後の3回目の草取りは稲の根を傷めないために〝手〟で除草した。
・稲刈りも大変だった。日も短かくなる時期でもあり、人手もかかるので学校はその時期休みとなり子供達も手伝った。
・昭和の始め頃から〝ほにょう〟などを用いて稲の乾燥をしたのでお米の品質も良くなった。
<参考:〝ほにょう〟(北上市、平成23年10月8日撮影)>

・脱穀は千把扱き(せんばこき)でだったが、昭和初期から足踏み脱穀機が使われるようになった。
・精米は水車で行って白米にした。
・しかしそうやって出来上がったお米は自分達は食べずに販売にまわし、農家は屑米や雑穀を食べた。
・etc.
というものだった。
 このビデオを鑑賞した後、そこにはかつての農具などが展示してあったので見て廻った。ただし、実は当日の入館目的は2つあったのだが館内を見て廻った限りにおいてはそれらが叶わなかった。

 続きは次回へ。  

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