みちのくの山野草

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2465 『イーハトーヴォ(第一期)』より(#2)

2011-12-19 10:00:00 | 賢治渉猟
 今回は 『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』の中の「賢治先生」に関して少しく考えてみたい。
 この「賢治先生」は賢治の下根子桜時代に関する回想なのだが、何点か気になった部分がある。
 それは昭和11年10月21日夜に開かれた盛岡賢治の會において高橋慶吾が喋ったことの記録であり、次のようにして始まっている。
 今夜は賢治先生に就いて皆様にお話することになりましたが、地下から先生にお叱りを受くるやうな気がします。私が何時か先生を賞めた事があつたのですが、その時先生は「一体、君はどこをどうみて自分を賞めるか、人をぞんざいに批評するものではない。」と強い語調で叱るやうに申されました。先生はかう言う厳しいところがあつた方であります。
 花巻下根子桜の仮寓に自炊生活を始められてからは、その附近を開墾し…(略)…農学校時代の教子や、その父兄達が三・四十人それぞれ握飯を持つて集まるのでした。

<『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』(宮澤賢治の會)より>
 この部分に関しては、まず前半の賢治の厳しさに関する証言が気になった。賢治はそういうところがあったとは聞いていたが、慶吾の証言通りであったとすればたしかに賢治はそのとおりだからである。

 その次は、後半部分には〝仮寓に教え子の保護者を含めて30~40人が集まった〟という意味のことが述べられていている訳だが、
 ・まさかそこに教え子の保護者達も混じっているとは思いもしなかった
 ・あの別宅にはたして40人もの人数が収容できるのだろうか
という2点が気になった。この点に関しては気に留めておきながら今後検証してみたい。

 ところでこの高橋慶吾なる人物はどんな人なんだろうか。佐藤司氏は次のように紹介している。
高橋慶吾 明治三九~昭五三。江刺郡出身。父親は養蚕教師、麦作指導もし賢治を知っていた。腰が落ち着かない息子を賢治の所へ行かせた。知人協会に出入りし楽団でヴァイオリンを弾いた。高橋の職業を賢治は案じレコード交換会をさせた。翌年は共済会を組織、それを消費組合とした。戦後豆腐製造業。少年時代よりクリスチャンだったが、賢治と出会い仏教に関心を移し、昭四三出家、慶雲と号し無寺托鉢僧となる。家は賢治遺墨店として妻に任せた。
<『今日の賢治先生』(佐藤司著)より>

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