みちのくの山野草

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賢治関連七不思議(おかしいと思わないのだろうか、#8)

2017-08-17 10:00:00 | 賢治に関する不思議
《驥北の野》(平成29年7月17日撮影)
 虚構だった森の「下根子桜訪問」
 そんな時に偶々私が目にしたのが、平成26年2月16日付『岩手日報』の連載「文學の國いわて」(道又力氏著)であり、そこには、
 東京外国語学校へ入学した森荘已池は、トルストイも愛用した民族衣装ルバシカにおかっぱ頭という最先端のスタイルで、東京の街を闊歩していた。…(筆者略)…ところが気ままなボヘミアン暮らしがたったのか、心臓脚気と結核性肋膜炎を患ってしまう。仕方なく学校を中退して、盛岡で長い療養生活に入る。
ということが述べられていた。
 これによって、当時森は病を得て帰郷、その後盛岡病院に入院等をしていたということを私は初めて知って、そういうことだったのかと頷き、これこそが先の「彼にはその訪問の年を「一九二七年」とはどうしても書けない何らかの「理由」」だったのかと私は覚った。心臓脚気と結核性肋膜炎で長期療養中だった当時の森が「一九二七年」の秋に「下根子桜」を訪問することはどだい無理だったから、「一九二七年」とは書けなかったのだ、と。
 念のため、『森荘已池年譜』(浦田敬三編、熊谷印刷出版部)も参照してみると、
・大正15年11月25日頃、心臓脚気と結核性肋膜炎を患って帰郷し、長い療養生活。
・昭和2年3月 盛岡病院に入院。
・昭和3年6月 病気快癒、岩手日報入社。
と要約できる。やはり、昭和2年(一九二七年)当時の森は確かに重病で盛岡で長期療養中だった。したがって、そのような重病の森が、盛岡から花巻駅までわざわざやって来てなおかつ歩いて「下根子桜」へ訪ねて行き、しかもそこに泊まれたということは常識的にはあり得ない。畢竟、森の「一九二七年」の「下根子桜訪問」は実際上も困難だったのだと言える。

 次に当時の『岩手日報』を調べてみたところ、昭和2年6月5日付同紙には「四重苦の放浪歌人」とも言われた下山清の「『牧草』讀後感」が載っていて、その中に、
 森さんが病氣のため歸省したこと脚氣衝心を起こしてあやふく死に瀕し、盛岡病院に入院したことは私もよく知つてゐる。
という記述があった。確かに『広辞苑』によれば、「脚氣衝心」とは「呼吸促迫を来し、多くは苦悶して死に至る」重病だというではないか。またこの他にも、次のような記事が当時の『岩手日報』に載っていた。
◇昭和2年4月7日付『岩手日報』
 ・文藝消息
  ▲森氏、病氣稍々軽快近く啄木の結婚當時をテーマとして短篇小説に筆を染める由
 ・「盛岡から木兎舎まで」 石川鶺鴒
 岩手富士を拝して、遠く霞んでゐる暮色の中に、その時私の頭にやはり郷土の誇りを思ひ浮かべられた。啄木の事も、原敬の事も、それから子供らしく姫神山の事も。
 その時の四人は黙つて橋上の暮色に包まれて居たと思ふ。
 その時の一人M君は今、宿痾の為、その京都の様な盛岡に臥つてゐる。昨春上京以来詩作は日本詩にもちよいちよい発表して居たが、殊にも今年は『文藝時代』にもなんとかある筈だつたとの事であるが病氣には勝てなくて、意企半ばに帰郷されたのはなんと言つても、われわれの損失であつた。…(略)…病氣の全快の一日も早からんことを切に祈つてゐる。
◇昭和2年5月19日付『岩手日報』
 ・「弘道君と初對面の事ども」 織田秀雄
 二人の間には、あらゆる話が持ち上がる。
 仙臺の事、メーデーの事、同人雑誌が長つゞきしない事、中央の歌人達の事、白秋さんの座談のうまいこと、酒をのむこと、牧水がどうの、或いは急に岩手にもどつて病で歸郷してるM君の事、幹次さんの事
◇昭和2年6月16日付『岩手日報』
・「郷愁雑筆」 上田智紗都
 五月の末ぽつかりと花巻に歸つてきたら、やはりはなれがたいふるさとだつた。…(略)… 
 いつも考へてゐながら森佐一には一度も音信せない、やむ君に對してとても心苦しい。…(略)…
 いつだつたか在京石川令児兄が自分が元氣なくなつたとかかいてゐたが、全くこのごろは何處へも無音にすぎてしまつて禮を欠いてゐる人が何人あるか知れない、在京の生出仁、小野寺路茂どうしてゐるやら、生出君も割に筆不精になつたらしい、歸郷の前雑司ヶ谷に白鳥省吾氏を訪づれた時も、君の話が出て、やはり消息がないと云つてゐた。…(略)…(花巻川口町鍛冶町三田方にて)

 これで、今まで謎だった「頑なに「一九二七年」としなかった」その「理由」が私には完全に納得できた。「一九二七年」当時の森は重篤であることがこうして新聞で広く伝えられていたので、森が「一九二七年」の秋に「下根子桜」を訪問したと書いたならば、世間からそれは嘘だろうと直ぐ見破られるであろうことを森はわきまえていたからだ、と。そして同時に、先に湧いた疑問、森が「一九二七年」と嘯けなかった理由もこれだったのだと私は納得した。とうとうこれで「詰み」だろう。

 これでおかしかったことのかなりの部分について私にはその訳が理解できた。
 森荘已池には「一九二七年」の秋に「下根子桜」を訪問したとはもちろんどうしても書けなかった。だがしかし、彼は「羅須地人協会時代」に下根子桜へ行く途中で高瀬露とすれ違ったということは是非とも活字にしたかったので、その時を「一九二八年」の秋にしたのだ。
こう推論すれば全てのことが繋がってしまったからだ。なお、このことは念を押したいので、「仮説検証型研究」に翻訳して万全を期す。
 まずはここまでの考察によって、
〈仮説〉森荘已池が一九二七年の秋に「下根子桜」を訪問したということも、その時に露とすれ違ったということも、いずれも事実だったとは言えない。
が定立できる。そして、これを裏付ける証言や資料は今まで幾つもあったが、その反例は現時点では何一つ見つかっていないのでこの仮説の検証ができた。よって、この〈仮説〉は今後その反例が突きつけられない限りという限定付きの「真実」だ。言ってしまえば、件の森の「下根子桜訪問」は実は虚構だったのである。

 そして今になって改めて振り返って見れば、上田が、森荘已池の唯一「直接の見聞」に基づいて書いたとした次の文章、
 一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。…(筆者略)…ふと向うから人のくる氣配だった。私がそれと氣づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた。…(筆者略)…半身にかまえたように斜にかまえたような恰好で通り過ぎた。私はしばらく振り返って見ていたが、彼女は振り返らなかった
            <『七尾論叢11号』77p>
を事実だと信じたことは無理もないことだと思った。それは言い換えれば、直木賞作家に対してまことに失礼な言い方になるのだが、森荘已池は伝記等においてさえも「話を盛る人だ」ったということがこれでもはや否定できなくなったということだ。

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