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第二章 「賢治伝記」の看過できぬ瑕疵(テキスト形式)

2024-03-26 08:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
第二章 「賢治伝記」の看過できぬ瑕疵
 さりながら、私の問題提起が、まして一連の主張がそう簡単には受け容れてもらえないであろうことは充分に覚悟している。そこには構造的な問題が横たわっていそうだからである。そこで、前掲の〝㈠~㈥〟などのような事柄については、どう決着がつくかはまだまだ時間を要するだろうから歴史の判断を俟つしかないと今は思っている。
 ただし、捏造された〈悪女・高瀬露〉だけは人権に関わる重大な問題だからそうは思えない。先の〝㈠~㈥〟などとは根本的に違うからただ俟っているだけでは駄目である。そこで、このことについて少し詳しく述べてみたい。

 あやかし〈高瀬露悪女伝説〉
 巷間、〈高瀬露悪女伝説〉なるものが流布している。しかし、この伝説はある程度調べてみれば信憑性の薄いことが容易に判る。それはまず、賢治の主治医だったとも言われているという佐藤隆房が、
 櫻の地人協會の、會員といふ程ではないが準會員といふ所位に、内田(〈註一〉)康子さんといふ、たゞ一人の女性がありました。
 内田さんは、村の小學校の先生でしたが、その小學校へ賢治さんが講演に行つたのが緣となつて、だんだん出入りするやうになつたのです。
 來れば、どこの女性でもするやうに、その邊を掃除したり汚れ物を片付けたりしてくれるので、賢治さんも、これは便利と有難がつて、
「この頃美しい會員が來て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ。」
 と、集つてくる男の人達にいひました。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年、175p~>
と『宮澤賢治』で述べているからである。
 次に、宮澤賢治の弟清六も、
 白系ロシア人のパン屋が、花巻にきたことがあります。…(筆者略)…兄の所へいっしょにゆきました。兄はそのとき、二階にいました。…(筆者略)…二階には先客がひとりおりました。その先客は、Tさ(〈註二〉)んという婦人の客でした。そこで四人で、レコードを聞きました。…(筆者略)…。レコードが終ると、Tさんがオルガンをひいて、ロシア人はハミングで讃美歌を歌いました。メロデーとオルガンがよく合うその不思議な調べを兄と私は、じっと聞いていました。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)236pより>
と追想していて、賢治はある時、下根子桜の宮澤家の別宅に露を招き入れて二人きりで二階にいたと、あるいはまた、
 宮沢清六の話では、この歌は賢治から教わったもの、賢治は高瀬露から教えられたとのこと。
<『新校本宮澤賢治全集第六巻詩Ⅴ校異篇』225p>
という訳で、賢治は露から歌(讃美歌)を教わっていたということも弟が証言していたことになるからだ。
 よってこれらの証言からは、「羅須地人協会時代」の賢治は露にいろいろと助けてもらっていたことや、露とはオープンで親密なよい関係にあったということが少なくとも導かれる。
 一方で露本人は、
   君逝きて七度迎ふるこの冬は早池の峯に思ひこそ積め
   ひたむきに吾のぼり行く山道にしるべとなりて師は存すなり
師の君をしのび來りてこの一日心ゆくまで歌ふ語りぬ
というような、崇敬の念を抱きながら亡き賢治を偲ぶ歌を折に触れて詠んでいたことを『イーハトーヴォ第四號』(昭和14年)等によって知ることができる。
 そしてもう一つ大事なことがあり、露は19歳の時に洗礼を受け、遠野に嫁ぐまでの11年間は花巻バプテスト教会に通い、結婚相手は神職であったのだが、夫が亡くなって後の昭和26年に遠野カトリック教会で洗礼を受け直し、50年の長きにわたって信仰生涯を歩み通した(雑賀信行著『宮沢賢治とクリスチャン花巻編』より)という。
 そこでここまでのことを簡単にまとめ直してみると、羅須地人協会にしばしば出入りして賢治を助け、しかも賢治とはある一定期間オープンで親密なよい関係にあり、賢治歿後は師と仰ぎながら偲ぶ歌を折に触れて詠んでいることが公になっていて、しかも長い間クリスチャンであった露が、まさか〈悪女〉であったとは考えにくい。だから常識的に考えれば、巷間流布している〈高瀬露悪女伝説〉は当然あやかしである蓋然性が高い。
 ところがあにはからんや、山下聖美氏は、
 感情をむき出しにし、おせっかいと言えるほど積極的に賢治を求めた高瀬露について、賢治研究者や伝記作者たちは手きびしい言及を多く残している。失恋後は賢治の悪口を言って回ったひどい女、ひとり相撲の恋愛を認識できなかったバカ女、感情をあらわにし過ぎた異常者、勘違いおせっかい女……。
とか、あるいは澤村修治氏は、
 無邪気なまでに熱情が解放されていた。露は賢治がまだ床の中にいる早朝にもやってきた。夜分にも来た。一日に何度も来ることがあった。露の行動は今風にいえば、ややストーカー性を帯びてきたといってもよい。
とかなり辛辣なことを、それぞれの著書『賢治文学「呪い」の構造』(平成19年、59p)、『宮澤賢治と幻の恋人』(平成22年、145p)の中で述べているという現実が昨今でもある。
 はてさて、先の清六の証言内容等とは正反対とも言える、露の人格を貶め、尊厳を傷つけているとしか思えないようなこれらの記述の典拠は一体何であろうか。
〈註一〉内田康子とは高瀬露の仮名であることが知られている。
〈註二〉当時そこに出入りしていてオルガンで讃美歌が弾けるイニシャルTの女性といえば高瀬露がいるし、露以外に当てはまる女性はいない。
 風聞や虚構の可能性
 そこで私は、関連する論考等を早速探し廻ったのだが、この〈悪女伝説〉に関して真正面から学究的に取り組んでいる賢治研究家の論考等はほぼ皆無なようで、やっと見つかったのが七尾短大教授の上田哲の論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露―」(『七尾論叢11号』所収)だった。
 そこでは上田は、
 露の〈悪女〉ぶりについては、戦前から多くの人々に興味的に受けとめられ確かな事実の如く流布し語り継がれてきた。…(筆者略)…この話はかなり歪められて伝わっており、不思議なことに、多くの人は、これらの話を何らの検証もせず、高瀬側の言い分は聞かず一方的な情報のみを受け容れ、いわば欠席裁判的に彼女を悪女と断罪しているのである。 <『七尾論叢11号』89p>
とその経緯と実情を紹介し、
 高瀬露と賢治のかかわりについて再検証の拙論を書くに当たってまず森荘已池『宮沢賢治と三人の女性』(一九四九年(昭和24年)一月二五日 人文書房刊)を資料として使うことにする。…(筆者略)…境だけでなく一九四九年以降の高瀬露と賢治について述べた文篇はほとんどこの森の本を下敷にしており……        <『七尾論叢11号』89p>
と断定していた。やはりそうかとは思ったものの、ここは自分で確認する必要がある。
 そこでその「文篇」を渉猟してみたところ、「一方的な情報」とは上田の指摘通り確かに『宮沢賢治と三人の女性』であった。その後はこれを下敷きとして、儀府成一が『宮沢賢治その愛と性』(昭47)を著し、読むに堪えないような表現をも弄しながらその拡大再生産をしていたし、前に引用したようなかなり辛辣な表現を用いた著作が何度も再生産されていた。しかも、やはり誰一人として確と検証等をしたとは考えられぬものばかりがだ。こうなったら乗りかかった船、私もこの〈悪女伝説〉を検証せねばならないだろう。というのは、上田の同論文は実は未完だったからだ。

 ついては、上田が「下敷」と称しているところの森荘已池著『宮沢賢治と三人の女性』をまず精読してみたところ、常識的に考えておかしいと感ずるところがいくつか見つかった。
 それは例えば、
 彼女は彼女の勤めている学校のある村に、もはや家もかりてあり、世帶道具もととのえてその家に迎え、いますぐにも結婚生活をはじめられるように、たのしく生活を設計していた。     <『宮沢賢治と三人の女性』(人文書房)89p>
という記述だ。あのように崇敬の念を抱きながら亡き賢治を偲ぶ歌を詠むような女性が、このような厚かましいことをしたのだろうかという素朴な疑問が湧いたからだ。
 早速私は、露は当時鍋倉の寶閑小学校に勤めていたというから、鍋倉に向かった。幸い、露の当時の教え子鎌田豊佐氏に会うことができて、露は「西野中の高橋重太郎」方(「鍋倉ふれあい交流センター」の近く)に当時下宿していたということを教わった。更に、その下宿の隣家の高橋カヨ氏からは、
 寶閑小学校は街から遠いので、先生方は皆「西野中の高橋さん」のお家に下宿していました。ただしその下宿では賄いがつかなかったから縁側にコンロを出して皆さん自炊しておりましたよ。
ということも教わった。
 となれば、その下宿は賄いがつかなかったから寝具のみならず炊事用具一式も必要だったであろう。そこでそれを知った口さがない人たちが露のこのような下宿の仕方を、「もはや家もかりてあり、世帶道具もととのえてその家に迎え、云々」というような噂話に仕立てて面白おかしく吹聴したという蓋然性が高い。当時、賢治と露とのことはある程度世間に噂されていたと云うからだ。
 そして森は、裏付けを取ることなどもせずに、そのような噂話を元にして活字にしてしまった可能性があると考えられる。このように、露が下宿していたことや下宿の仕方等がその頃から90年近くも経ってしまった今でさえも分かるのだから、森が当時そうしようとすればこれらのことはもっと容易に分かったはずだ。ところが森はそのことについて同書で何ら触れていない。よって、先に引用した森の記述内容は風聞か虚構の可能性が生じてきたということである。

 こうなると同様に不安になってくるのが、やはり前掲書の中の、
 彼女の思慕と恋情とは焰のように燃えつのつて、そのため彼女はつい朝早く賢治がまだ起床しない時間に訪ねてきたり、一日に二回も三回も遠いところをやつてきたりするようになつた。   <『宮沢賢治と三人の女性』(人文書房)73p>
という森の記述であり、当時の交通事情に鑑みればそれはほぼ無理だと思われるからだ。
 そこで、精確を期すために露の生家がどこにあったかをまずは確かめようとした。それが「向小路」であったことだけは知られていたのだが、賢治関連のどの著作にもそこが具体的にどこであったのかは明らかにされていなかったからだ。
 だが分かったことは唯一、上田の前掲論文等に載っていた生家の住所名、
    岩手県稗貫郡花巻町向小路二十七番地
だけだった。しかも、向小路一帯をあちこちいくら探し廻っても、高瀬という姓の家がないだけでなく、その番地がどこかを特定できる人にさえも出会えなかった。当時とは家並みも一帯の番地名も変わってしまったからだろうか。私は途方に暮れてしまった。
 そんな折、地元出身で東京在住の伊藤博美氏から私が頂いた『花巻市文化財調査報告書第一集』(花巻市教育委員会)に「大正期の同心屋敷地割」という地図が載っていた。そしてその地図から、「向小路二十七番地」とは、あの賢治の詩〔同心町の夜あけがた〕に詠まれている「向こふの坂の下り口」(向小路の北端)だったということを幸い知ることができた。
 次に当時の寶閑小学校のあった場所だが、これは案外簡単に分かった。花巻図書館所蔵のある資料から、「山居公民館」の直ぐ近くにあったことを知った。
 よって、「露の下宿→宮澤家別宅」へと最短時間で行くとなれば、当時の『花巻電鉄鉛線 列車時刻表』等により、
露の下宿~約15分~寶閑小学校~約45分~二ッ堰駅~鉛線約25分~西公園駅~約20分~露生家~約15分~「下根子桜」
となるから、往復で最低でも約4時間はかかっただろう。当然、「一日に三回もやってきた」ということは勤務日にはほぼあり得ない。もちろん、露が週末に生家に戻っていた際であればそれは可能であっただろうが、それでは「遠いところをやってきた」ということにはならない。露の生家と下根子桜の別宅との間は約1㎞、直ぐ近くと言ってよい距離だからだ。したがって、露が「一日に二回も三回も遠いところをやつてきたりするようになつた」という記述もまた、風聞か虚構であった可能性が生じてきた。

 「ライスカレー事件」
 では、いわゆる「ライスカレー事件」はどうであったのだろうか。このことに関しては、高橋慶吾の次のような二通りの証言が残っているから、それらを先に見てみる。まず「賢治先生」では、
 或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、臺所をあちこち探してライスカレーを料理したのです。恰度そこに肥料設計の依賴に數人の百姓たちが來て、料理や家事のことをしてゐるその女の人をみてびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、そのライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで亂調子にオルガンをぶかぶか彈くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、晝はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした。
<『イーハトーヴォ創刊号』(昭14)所収>
と「事件」のことを述べている。また、座談会「宮澤賢治先生を語る會」(関登久也著『続宮澤賢治素描』(昭23)所収)では、
K…何時だつたか、西の村の人達が二三人來た時、先生は二階にゐたし、女の人は臺所で何かこそこそ働いてゐた、そしたら間もなくライスカレーをこしらへて二階に運んだ。その時先生は村の人達に具合惡がつて、この人は某村の小學校の先生ですと、紹介してゐた、餘つぽど困つて了つたのだらう。
Cあの時のライスカレーは先生は食べなかつたな。
Kところが女の人は先生にぜひ召上がれといふし、先生は、私はたべる資格はありませんから、私にかまはずあなた方がたべて下さい、と決して御自身たべないものだから女の人は隨分失望した樣子だつた。そして女は遂に怒つて下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。そしたら先生はこの邊の人は晝間は働いてゐるのだからオルガンは止めてくれと云つたが、止めなかつた。 <『続宮澤賢治素描』(眞日本社)209p~>
と「事件」を語っている(Kが慶吾である)。
 さて、この二通りの慶吾の証言を比較してみると両者の間には結構違いがある。しかも、これらの証言からはオルガンは一階に置いてあったことになるが、実は慶吾以外は皆(宮澤清六、松田甚次郎、高橋正亮、梅野健造、伊藤与蔵)当時オルガンは二階にあったと言ってるから、こちらの方の蓋然性がかなり高い。そしてそれが二階にあったとなればこの慶吾の一連の証言は根底が崩れる。しかも「こそこそ」という表現も用いているからそこからは彼の悪意も感じられるので、この件に関する慶吾の証言内容の信憑性は薄い。したがって、このような事件があったとしても、これらの証言から「修飾語」を取り去ったものがせいぜい考察の対象となり得る程度のものだろう。
 このことを踏まえた上で慶吾のこれらの証言に基づけば、当日は少なくとも2人の来客があり、しかも賢治の分も用意したということになるから、最低でも3人分のライスカレーを露は作っていたことになる。ところが、下根子桜の別宅にはそれ用の食器等が十分にはなかったはず(「食器も茶碗二つとはし一ぜんあるだけです」と、当時賢治と一緒に暮らしていた千葉恭は言っている)だから、それらも露は準備せねばなかっただろう。その上、この別宅の炊事場は外にあったので、当時3人分以上のライスカレーを露がそこで作るということは大変なことであり、露のかいがいしさが窺える。
 ではこれで準備ができたので、『宮沢賢治と三人の女性』において「ライスカレー事件」に関して述べている次の部分を引用する。
 二階で談笑していると、彼女は、手料理のカレーライスを運びはじめた。
 彼はしんじつ困惑してしまつたのだ。
 彼女を「新しくきた嫁御」と、ひとびとが受取れば受取れるのであつた。彼はたまらなくなつて、
「この方は、××村の小学校の先生です。」と、みんなに紹介した。
 ひとびとはぎこちなく息をのんで、カレーライスに目を落したり、彼と彼女とを見たりした。ひとびとが食べはじめた。――だが彼自身は、それを食べようともしなかつた。彼女が是非おあがり下さいと、たつてすすめた。――すると彼は、
「私には、かまわないで下さい。私には、食べる資格はありません。」
と答えた。
 悲哀と失望と傷心とが、彼女の口をゆがませ頰をひきつらし、目にまたたきも與えなかつた。彼女は次第にふるえ出し、眞赤な顏が蒼白になると、ふいと飛び降りるように階下に降りていつた。
 降りていつたと思う隙もなく、オルガンの音がきこえてきた。…(筆者略)…その樂音は彼女の乱れ碎けた心をのせて、荒れ狂う獸のようにこの家いつぱいに溢れ、野の風とともに四方の田畠に流れつづけた。顏いろをかえ、ぎゆつと鋭い目付をして、彼は階下に降りて行つた。ひとびとは、お互いにさぐるように顏を見合わせた。
「みんなひるまは働いているのですから、オルガンは遠慮して下さい。やめて下さい。」
 彼はオルガンの音に消されないように、声を高くして言つた。――が彼女は、止めようともしなかつた。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)90p~>
 さて、著者の森はこの時にそこに居合わせたということを同書のどこにも述べていないから、この記述の元になったのは既に公になっていた先の慶吾の証言あたりだろう。しかしながら、慶吾は「悲哀と失望と傷心とが……眞赤な顏が蒼白になると」というようなことは語っていない。となれば、この引用文の中で露はかなり悪し様に描かれてもいるから、そこには森の虚構や創作が含まれていそうだ。
 そしてそう感ずるのは私独りだけでなく、佐藤通雅氏も、
 このカレー事件の描写は、あたかもその場にいあわせ、二階のみならず階下へまで目をくばっているような臨場感がある。しかしいうまでもなく、両方に臨場することは不可能だ。…(筆者略)…見聞や想像を駆使してつくりあげた創作であることは、すぐにもわかる。
<『宮澤賢治東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)83p>
と断じている。どうやら、前掲の森の引用文には自身の手による虚構あるいは創作がありそうだ。
 よって、「下敷」にされたという『宮沢賢治と三人の女性』における露に関する記述には、一方的に露を悪し様に描いてる点や露の扱い方が不公平な点を含む、あやかしが少なくないことがこれで判った。

 「一九二八年の秋の日」の「下根子桜訪問」
 それでは、露に関して「あやかしでない」と思われるものとしては何がこの「下敷」に書かれているのだろうか。それは、
 彼女にはじめて逢った時の様子を『宮沢賢治と三人の女性』に森は高瀬露についていろいろと書いているが、直接の見聞に基いて書いたものは、この個所だけであるから参考までに引用しておく。        <『七尾論叢11号』77p>
と上田が同論文中で断り書きをして引用している、唯一「直接の見聞」に基づいたと考えられる次の記述内容、
一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。…(筆者略)…ふと向うから人のくる氣配だった。私がそれと氣づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた。…(筆者略)…半身にかまえたように斜にかまえたような恰好で通り過ぎた。私はしばらく振り返って見ていたが、彼女は振り返らなかった。    <『七尾論叢11号』77p>
だけは少なくともそうだろうと思いたい。
 ところが肝心のこれが大問題となる。「一九二八年の秋」であれば、賢治は豊沢町の実家で病臥していたのだから「下根子桜」にはもはや居らず、この引用文に書かれているような「下根子桜訪問」は森には不可能であり、「一九二八年の秋」という記述は致命的ミスであることが明らかだからだ。
 そこで、『新校本年譜』はこの「下根子桜訪問」についてどうしたかというと、
「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。              <同年譜、359p>
と註記して、これを「一九二七年の秋の日」と読み変えている。つまり同年譜は、「一九二八年」は森の単純なケアレスミスだったと判断していることになる。しかしながらこのような判断は安直であり、論理的でもない。そもそも、大前提となるそのような「下根子桜訪問」が確かにあったという保証は何ら示せていないからだ。
 まして上田の前掲論文には、「露の「下根子桜訪問」期間は大正15年秋~昭和2年夏までだった」という意味の露本人の証言も載っているから、もしそうだったとすれば、「一九二七年(昭和2年)の秋」に森が「下根子桜」を訪ねたとしても道の途中で露とはすれ違えないので、尚更その保証が必要となる。
 しかもよくよく調べてみたならば、賢治が亡くなった翌年の昭和9年発行の『宮澤賢治追悼』でも、『宮澤賢治研究』(昭14)でも、そして『宮沢賢治の肖像』(昭49)でも皆、その「下根子桜訪問」の時期を森は「一九二八年の秋」としていて、決して「一九二七年の秋」とはしていなかった。こういうことであれば、「一九二七年の秋」に森は「下根子桜」を訪問していなかったと、普通は判断したくなる。
 そんな時にふと思い出したのが、『宮沢賢治と三人の女性』では西暦が殆ど使われていなかったはずだということだ。そこでそのことを調べてみたならば案の定、全体で和暦が38ヶ所もあったのに西暦は1ヶ所しかなく、それがまさに「一九二八年の秋の日、私は下根子云々」の個所だけだった。しかも、同じ年を表す和暦の「昭和三年」を他の5ヶ所で使っているというのにも拘らずである。
 となれば、あれはケアレスミスなどでは決してなく、彼にはその訪問の年を「一九二七年」とはどうしても書けない何らかの「理由」が存在していたという蓋然性が高いと言える。しかもそこだけは和暦「昭和三年」を用いずに西暦を用いているということから、ある企みがそこにあったのではなかろうかと疑われても致し方なかろう。
 もはやこうなってしまうと、件の「下根子桜訪問」の年を森は決して「一九二七年」と書く訳にはいかなかったということがほぼ明らかだ。おのずから、同年の秋の日に森はそのような訪問そのものをしていなかったということも否定できなくなったので、今までの大前提が崩れ去り、この「直接の見聞」は実は単なる創作だったということがいよいよ現実味を帯びてきた。
 一方で、次のような疑問が湧く。森は『宮沢賢治 ふれあいの人々』(熊谷印刷出版部)の17pで、
 この女の人が、ずっと後年結婚して、何人もの子持ちになってから会って、いろいろの話を聞き、本に書いた。
と述べていながら、上田に対しては、
〈一九二八年の秋の日〉〈下根子を訪ねた〉その時、彼女と一度あったのが初めの最後であった。その後一度もあっていない。             <『七尾論叢11号』77p>
と答えたという。もちろんどちらの女性も露のことであり、森は露と会ったのは一度きりと述べたり、別の機会にも会ったと述べたりしていることになるから、件の「下根子桜訪問」に関して森は嘘を言っていた蓋然性が高い。ならばいっそのこと逆に、是非はさておき、その訪問時期は「一九二七年の秋の日」だったと森は始めから嘯くという選択肢だってあったはずだがなぜそうはしなかったのだろうか、という疑問が湧くのだった。

 虚構だった森の「下根子桜訪問」
 そんな時に偶々私が目にしたのが、平成26年2月16日付『岩手日報』の連載「文學の國いわて」(道又力氏著)であり、そこには、
 東京外国語学校へ入学した森荘已池は、トルストイも愛用した民族衣装ルバシカにおかっぱ頭という最先端のスタイルで、東京の街を闊歩していた。…(筆者略)…ところが気ままなボヘミアン暮らしがたったのか、心臓脚気と結核性肋膜炎を患ってしまう。仕方なく学校を中退して、盛岡で長い療養生活に入る。
ということが述べられていた。
 これによって、当時森は病を得て帰郷、その後盛岡病院に入院等をしていたということを私は初めて知って、そういうことだったのかと頷き、これこそが先の「理由」だと覚った。心臓脚気と結核性肋膜炎で長期療養中だった当時の森が「一九二七年」の秋に「下根子桜」を訪問することはどだい無理だったから、「一九二七年」とは書けなかったのだ、と。
 念のため、『森荘已池年譜』(浦田敬三編、熊谷印刷出版部)も参照してみると、
・大正15年11月25日頃、心臓脚気と結核性肋膜炎を患って帰郷し、長い療養生活。
・昭和2年3月 盛岡病院に入院。
・昭和3年6月 病気快癒、岩手日報入社。
と要約できる。やはり、昭和2年(一九二七年)当時の森は確かに重病で盛岡で長期療養中だった。したがって、そのような重病の森が、盛岡から花巻駅までわざわざやって来てなおかつ歩いて「下根子桜」へ訪ねて行き、しかもそこに泊まれたということは常識的にはあり得ない。畢竟、森の「一九二七年」の「下根子桜訪問」は実際上も困難だったのだと言える。
 次に当時の『岩手日報』を調べてみたところ、昭和2年6月5日付同紙には「四重苦の放浪歌人」とも言われた下山清の「『牧草』讀後感」が載っていて、その中に、
 森さんが病氣のため歸省したこと脚氣衝心を起こしてあやふく死に瀕し、盛岡病院に入院したことは私もよく知つてゐる。
という記述があった。確かに『広辞苑』によれば、「脚氣衝心」とは「呼吸促迫を来し、多くは苦悶して死に至る」重病だというではないか。また他にも、石川鶺鴒等の同様な記述が『岩手日報』にいくつか見つかった。
 これで、今まで謎だった「頑なに「一九二七年」としなかった」その「理由」が私には完全に納得できた。「一九二七年」当時の森は重篤であることがこうして新聞で広く伝えられていたので、森が「一九二七年」の秋に「下根子桜」を訪問したと書いたならば、世間からそれは嘘だろうと直ぐ見破られるであろうことを森はわきまえていたからだ、と。そして同時に、先に湧いた疑問、森が「一九二七年」と嘯けなかった理由もこれだったのだと私は納得した。とうとうこれで「詰み」だろう。
 最後に、「仮説検証型研究」に翻訳して万全を期す。まずはここまでの考察によって、
〈仮説〉森荘已池が一九二七年の秋に「下根子桜」を訪問したということも、その時に露とすれ違ったということも、いずれも事実だったとは言えない。
が定立できる。そして、これを裏付ける証言や資料は幾つもあったが、その反例は現時点では何一つ見つかっていないのでこの仮説の検証ができたことになる。よって、この〈仮説〉は今後その反例が突きつけられない限りという限定付きの「真実」だ。

 冤罪とも言える〈悪女・高瀬露〉
 言い換えれば、「仮説検証型研究」の結果、件の「下根子桜訪問」も、唯一の「直接の見聞」と思われたその際の「露とのすれ違い」も虚構や創作だった、となる。まさにあやかしの極み、しかもそこには悪意があるからこれらは捏造と言える。とうとう恐れていたことが現実のものとなり、大前提が崩れてしまった。となれば、先に考察した「ライスカレー事件」等も同様で、虚構や風聞程度のものだったと判断せざるを得ない。
 したがって、『宮沢賢治と三人の女性』における露に関する記述には捏造の「下根子桜訪問」を始めとして、悪意のある虚構や風聞程度のものも少なからずあることが判ったから、そこで語られている露は捏造された〈悪女・高瀬露〉であり、同書は露に関しては伝記などではなくて、悪意に満ちたフィクションに過ぎなかったとするのが妥当だろう。
 ところが、森は『宮澤賢治と三人の女性』の巻頭で、
 宮沢賢治については、今までに数冊の傳記的著述はなされているが、やや完全とみられる「傳記」はない。今のところ、なかなか書かれる日も近く來そうもない。さて無事に頂上までのぼれるかどうか。…(筆者略)…
 この本は、宮沢賢治を知るためのみちの、一つのともしびである。つまりに宮沢賢治と、もつともちかいかんけいにあつた妹とし子、宮沢賢治と結婚したかつた女性、宮沢賢治が結婚したかつた女性との三人について、傳記的にまとめて、考えてみたものである。
 <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)3p~>
と述べているものだから、読者は同書を「伝記」であると捉え、皆同書の記述内容を事実と信じ切り、これを「下敷」としたのだろう。しかも上田哲の指摘通り、誰一人としてその検証もせず、裏付けも取らぬままにその拡大再生産等が繰り返されて、次第に〈高瀬露悪女伝説〉が出来上がっていったというのが実情と言えよう。
 ただしここで注意せねばならぬことは、この〈露悪女伝説〉を全国に流布させた責任はこの「下敷」にはまずないということだ。それは、この「下敷」も、そしてその後の再生産でも、ある時期までは高瀬露という実名を一切使っていなかったからだ。だから私は、この〈伝説〉が全国に流布したのは『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年)においてその実名が初めてしかも安易に公にされたことが切っ掛けで、それ以降であると言わざるを得ない。
 さてこれで、前掲の
〈仮説〉森荘已池が一九二七年の秋に「下根子桜」を訪問したということも、その時に露とすれ違ったということも、いずれも事実だったとは言えない。
の反例が今後見つかった時には許されるとしても、少なくともこの仮説の反例が提示されていないという現状では、確たる客観的な根拠もないのにも拘わらず、安易に一人の女性に濡れ衣を着せた捏造〈悪女・高瀬露〉が流布しているということになるから、このことは決して許されない。
 なぜならばこのことは人権に関わる重大問題であり、他の事柄とは根本的に違うからである。いわば、現状の〈悪女・高瀬露〉の流布は冤罪であり、「賢治伝記」上の看過できぬ瑕疵であり、必ず解消されなければならない人権上の喫緊の課題ではなかろうか。
(さらなる詳細は、拙論「聖女の如き高瀬露」(上田哲との共著『宮澤賢治と高瀬露』所収)を参照されたい)

  おわりに
 それでは、今まで約10年間に亘って「羅須地人協会時代」を中心にして「仮説検証型研究」という手法等によって検証を続けてきて辿り着いた私の結論を、以下に少しく述べて終わりにしたい。
 まず、私のかつての賢治像はどのようして出来上がったか。それは「賢治年譜」や巷間流布している賢治の「通説」を少しも疑わずに信じ、信じ続けてきたことによってであり、賢治は、「貧しい農民たちのために自分の命を犠牲にしてまでも献身しようとした詩人であり童話作家である」だった。そして、「原体剣舞連」や「やまなし」「おきなぐさ」あるいは「稲作挿話」「和風は河谷いっぱいに吹く」は私の大好きな作品だった。
 ところが、定年を期にやっと時間的余裕ができたので、ずっと気になっていた恩師の岩田純蔵教授(賢治の甥)の嘆きに応えようとして、今まで約10年をかけて「羅須地人協会時代」を中心として検証作業等を続けてきたのだがその結果、常識的に考えておかしいと思ったところはほぼ皆おかしかった。しかもその検証の結果は「通説」とかなり違っていたり、中には正反対なものや嘘のものまでもがあったりした。
 それ故に、例えば、かつては感動していた「稲作挿話」や「和風は河谷いっぱいに吹く」にもはや私は感動しなくなったから、正直一時期は裏切られたという思いを禁じ得なかった(こんな嫌な思いこれからの若者たちにはもうさせたくはない)。
 譬えてみれば、「賢治年譜」は賢治像の基底、いわば地盤だが、そこにはかなりの液状化現象が起こっているのでその像は今真っ直ぐに建っていない。当然、それを眺める私達の足元も不安定だから、それを的確に捉えることも難しい。まして、皆で同じ地面に立ってそれを眺めることはなおさら困難だから、各自の目に映るそれは同一のものとは言いがたい。
 したがって、「賢治研究」をさらに発展させるためには、皆が同じ地面に立ててしかも安定して賢治像を眺められるようにせねばならないはずだから、まずは今起こっている液状化現象を解消せねばならないだろう。すなわち、何はさておき「賢治年譜」や賢治の「通説」を一度再検証せねばなかろう(例えば、先に論じた〝㈡〟について再検証をしていただければ、その液状化現象の酷さと、放置しておくことの深刻さを直ぐさま分かってもらえるはずだ)。
 さりながらその一方で、一連の私の主張はすぐ様世間から受け容れてもらえることが難しいであろうことも承知している。それは、このような主張は私如きが申すまでもなく、少なからぬ人たちが既に気付いているはずであるのにも拘わらず、このような液状化現象が長年放置されてきたことがいみじくも示唆していると私は感ずるからだ。おそらく、そこには構造的な理由や原因があったのであろう、とも。
 逆に言えば、私の主張が受け容れられるためにはまだまだ時間がかかるであろう。だから私は、時が来るのを俟っていてもいいと思っている。つまり、〝㈠~㈥〟等の評価がどう定まるかは歴史の判断に委ねていいと思っている。だが一つだけ、決して俟っているだけではだめなものがある。
 それは、濡れ衣と、あるいは冤罪とさえも言える「〈悪女・高瀬露〉の流布」を長年に亘って放置してきたことを私達はまず露に詫び、それを晴らすために今後最大限の努力をし、一刻も早く露の名誉を回復してやることをである。
 もしそれが早急に果たされることもなく、今までの状態が今後も続くということになれば、それは「賢治伝記」に最大の瑕疵があり続けるということになるから、今の時代は特に避けねばならないはずだ。なぜならばこのことは他でもない、人権に関わる看過できぬ重大な問題だからである。
 それ故、もし今まで通りこの瑕疵を看過し続けていたり、知らぬ顔の半兵衛を決め込んで放置し続けていたりするならば、「賢治を愛し、あるいは崇敬している人達であるはずなのに、人権に対する認識があまりにも欠けているのではないですか」と、私達一般読者までもが世間から指弾されかねない。
 一方で露本人はといえば、
 彼女は生涯一言の弁解もしなかった。この問題について口が重く、事実でないことが語り継がれている、とはっきり言ったほか、多くを語らなかった。
<『図説宮沢賢治』(上田、関山等共著、河出書房新社)93p~>
というではないか。あまりにも見事な生き方だったと言うしかない。がしかし、私達はこのことに甘え続けていてはいけない。それは、あるクリスチャンの方が、
 敬虔なクリスチャンであればあるほど弁解をしないものなのです。
と私に教えてくれたからだ。ならば尚のこと、理不尽にも着せられた露の濡れ衣を私は一刻も早く晴らしてやりたいし、そのことはもちろん多くの方々も望むところであろう。
 まして、天国にいる賢治がこの理不尽を知らない訳がない。少なくともある一定期間賢治とはオープンでとてもよい関係にあり、しかもいろいろと世話になった露が今までずっと濡れ衣を着せ続けられてきたことを、賢治はさぞかし嘆き悲しんでいるに違いない。そして、「いわれなき〈悪女〉という濡れ衣を露さんが着せられ、人格が貶められ、尊厳が傷つけられていることをこの私が喜んでいるとでも思うのか」と、賢治は私達に厳しく問うているはずだ。

 以上が、この約10年間をかけて「羅須地人協会時代」を中心として調べてきた結果、私が辿り着いたことのほぼ全てだ。同時代にはこのようにいくつかのあやかしが内包されているからそれらの再検証が不可避である。そしてそれらが為されれば液状化現象がかなり解消できるので新たな地平も見えてきて、「賢治研究」の更なる発展が期待できるはずだ。

 なお本書は、平成28年『第69回岩手芸術祭』の文芸評論部門に応募して優秀賞をもらった『「賢治神話」検証五点』をベースにして、さらに書き加えたものである。
‡‡‡‡‡‡‡ 
 最後になりましたが、本書の出版に際してご指導やご助言、
ご協力を賜りました阿部弥之氏、伊藤博美氏、故岩田有史氏、岩手日報社様、鎌田豊佐氏、菊池忠一郎氏、菊池忠二氏、日本現代詩歌文学館様、澤里裕氏、高橋カヨ氏を始めとし、お世話になりました多くの皆様方に深く感謝し、厚く御礼申し上げます。
 平成29年7月14日
                         著者

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