みちのくの山野草

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第一章 本統の宮澤賢治 (テキスト形式)前編

2024-03-26 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
☆『本統の賢治と本当の露』(テキスト形式タイプ)

  第一章 本統の宮澤賢治 (テキスト形式)前編
〈註〉宮澤賢治は、例えば「本統の百姓になります」とか「本統の勉強はねえ」というように、一般には「本当」が使われるところを「本統」を用いている場合が多い。そこで、賢治に敬意を表してタイトルは「本統の賢治と本当の露」とした。
  〈表表紙〉羅須地人協会跡地の朝(平成28年12月8日撮影)
  〈裏表紙〉下根子桜の白花露草 (平成28年8月24日撮影)
   本統の賢治と本当の露
          鈴木 守
           目    次
 はじめに 1
 第一章 本統の宮澤賢治 2
  1.「修訂 宮澤賢治年譜」 3
  2.「賢治神話」検証七点 7
 ㈠ 「独居自炊」とは言い切れない 7
 ㈡ 「羅須地人協会時代」の上京について 25
 ㈢ 「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治 43
 ㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」 65
 ㈤ 賢治の稲作指導法の限界と実態 69
 ㈥ 「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」 84
 ㈦ 「聖女のさまして近づけるもの」は露に非ず 91
 3.「賢治研究」の更なる発展のために 106
 第二章 本当の高瀬露 111
 1.あやかし〈悪女・高瀬露〉 111
 2.風聞や虚構の可能性 114
 3.「ライスカレー事件」 118
 4.「一九二八年の秋の日」の「下根子桜訪問」 122
 5.捏造だった森の「下根子桜訪問」 125
 6.「新発見」と嘯いたことの責め 129
 7.冤罪とも言える〈悪女・高瀬露〉の流布 133
 おわりに 138
資料一 「羅須地人協会時代」の花巻の天候(稲作期間) 143
資料二 賢治に関連して新たにわかったこと 146
資料三 あまり世に知られていない証言等 152
《註》 159
《参考図書等》  168
《さくいん》  175

《用語について》
・「下根子桜」≡下根子桜の「宮澤家別宅」のあった場所
・「羅須地人協会時代」≡宮澤賢治が「下根子桜」に住んでいた二年四ヶ月
・「旧校本年譜」≡『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)所収の「賢治年譜」
・『新校本年譜』≡『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)
・帰花≡花巻に帰ること。また、来花≡花巻に来ること。
・【仮説】自然科学その他で、一定の現象を統一的に説明しうるように設けた仮定。ここから理論的に導きだした結果が観察や実験で検証されると、仮説の域を脱して一定の限界内で妥当する真理となる。〈『広辞苑 第二版』(岩波書店)〉
《仮説検証型研究》
 本書では、次のような手法で限定付きの「真実」を明らかにしてゆく研究のことを「仮説検証型研究」と称している(なお、この限定付きの「真実」のことを、略して単に真実と表記することもある)。
定立した仮説の根拠がある一方で、その反例が一切ない場合にその仮説は検証されたということにし、爾後、検証されたその仮説は反例が提示されない限りという限定付きの「真実」である、とする手法(なお、「定説」も「通説」も所詮仮説。それ故、「賢治年譜」はほぼ仮説でできている)。
《引用文について》
 基本的にはゴシック体にしてある。
  はじめに
 しばらく前のことになるが、声優で歌手でもあり、第19回イーハトーブ賞奨励賞受賞者でもある桑島法子の父の葬儀に私は参列していた。その際、彼女は宮澤賢治の詩を朗詠して父を送った。なぜか。それは、法子の父桑島正彦は賢治が大好きだったからだ。また、法子が賢治作品の「朗読夜」をしばしば開いていることなども、その父の影響があったからだ。
 さて、どうして私がこのようなことを知っているのかというと、父正彦は私の中学時代の同級生だからだ。今でも目をつぶれば、かつて何度か私たちの前で身振り手振りよろしく朗々と「原体剣舞連」を歌い上げた彼の姿がまざまざと眼裏に蘇る。時に、現在活躍中の作品朗読者の同作品の朗読を聴くこともあるが、正彦のそれに誰もかなわないと私は思っている。
 その同級生の影響もあったからだったのだろうか、私も早い時点から賢治が好きで、賢治のことも賢治の作品も共によくわかってもいないのに賢治を尊敬していた。そこで若い頃の私は、尊敬する人物は誰ですかと問われると、「破滅的で微分的な啄木と違って、積分的で求道的な生き方をして、貧しい農民たちのために献身した賢治です」などと粋がって答えていたものだ。
 しかし私は、相も変わらず『春と修羅』がよくわかっていない。ただ例えば、勇壮というよりは逆におとなしいとさえも言えるような「雛子剣舞」(「子供念仏剣舞」とか「稚児剣舞」とも呼ばれる)を元にして、よくぞここまで勇猛果敢で、圧倒的迫力のある心象スケッチ「原体剣舞連」に創り上げたものよと、賢治のそのずば抜けた創造力に感心する。あるいは、私から見れば「第四次」の特異な感覚がなければ書けないだろうと思われる童話「やまなし」や「おきなぐさ」、そしてあの「星の王子さま」に勝るとも劣らないと私は信じている「なめとこ山の熊」はとりわけ、何度読んでも感動が薄れない。もちろんそこにも、賢治の類い稀なる天賦の才を見る。
 
  第一章 本統の宮澤賢治
 今から約半世紀も前のことだが、大学時代の恩師岩田純蔵教授が私たちを前にして、「賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった」という意味のことを嘆いたことがある。そこで私は、その頃尊敬していた人物はまさに賢治だったからということだけでなく、実は岩田教授は賢治の甥(賢治の妹シゲの長男)だったからなおのこと、本当は違うところもあるのかと、恩師の嘆きがその後ずっと気になっていた。とはいえ、仕事に従事している間はそのようなことを調べるための時間的余裕が私にはなかった。
 それが10年程前に無事定年となり、私はやっとそのための時間を持てるようになって賢治のことを調べ続けることができた。すると、常識的に考えればおかしいと思われるところが、特に「羅須地人協会時代」を中心にして幾つか見つかった。そこでそれらの検証等をしてみた結果は、やはり皆ほぼおかしかった(これらのことなどが、恩師が嘆いていたことの具体例だったのであろう)。ついては、それらのことを通じて明らかにできた事柄のうちで主なものを簡潔に表すとすれば、現「賢治年譜」は次頁以降の《表1の1~4「修訂 宮澤賢治年譜」》のように修訂(太字部分)されねばならないのではなかろうか。
 1.「修訂 宮澤賢治年譜」                  

 

 2.「賢治神話」検証七点
 それでは、常識的に考えればこれはおかしいと思われ、しかも検証してみたところやはりおかしかったものの中から、主だったもの七点を以下にそれぞれ取り上げてみたい。

 ㈠「独居自炊」とは言い切れない
 私が最初におかしいと思ったのは「旧校本年譜」の大正15年7月25日の項の次の記述、
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は下根子桜の家に寝泊りしていた千葉恭で午後六時ごろ講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。 〈『校本全集第十四巻』〉
だった。えっ、ということは違っていたんだ。私は軽いショックを覚えた。「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」であったと巷間言われているはずだが、そこに「寝泊まりしていた千葉恭」とあるから、少なくとも「下根子桜」に移り住んだその年の夏に、ある人物が賢治と一緒に暮らし続けていたということになる。となれば、「独居自炊」という通説が危ぶまれるからだ。
 そして、そもそもこの千葉恭とは如何なる人物だったのだろうか? そんな人物が下根子桜の宮澤家別宅に寄寓していたことなど全く知らなかった私の頭の中はしばし混乱した。そこで、千葉恭なる人物のことをもっと知りたいと思ったのだが、いつ頃からいつ頃まで賢治のところに寝泊りしていたのかも、その出身地さえも含めて、恭自身のことに関してはあの膨大な『校本宮澤賢治全集』のどの巻にも殆ど何も書かれていなかった。となれば自分で調べるしかない。
 するとそれとは逆に、賢治関連の論考の中で、恭自身が行った講演内容や彼の著した追想等が資料として沢山使われていることを知った。例えば恭の講演「羅須地人協会時代の賢治」では、
 文学に関しては、私は何も知ることはありませんが、私が賢治と一しよに生活してまいりましたのは私自身百姓に生れ純粹に百姓としての一つの道を生きようと思つたからでした。そんな意味で直接賢治の指導をうけたのは或は私一人であるかもしれません。
〈『イーハトーヴォ復刊2号』(宮澤賢治の会、昭和30年)〉
と述べていたという。しかしながらそれらのどの資料の中にも、恭が下根子桜の宮澤家の別宅でいつ頃から暮らし始めたのかも、いつまで賢治と一緒に暮らしていたのかというその期間についても、ずばり直ぐに確定できるものは一つも見つからなかった。そして、その論考の中にも同様にだ。
 一方、恭の出身地については唯一、ある方が「気仙郡(現大船渡市)盛町の出身」と書いてあったので、私は大船渡市へ向かった。そして市立図書館、地元の新聞社『東海新聞社』、「盛町の生き字引といわれている古老」等を訊ね回ってみたが、恭のことを知っている人は一人もなく、恭の生家どころか本籍地さえも知ることはできなかった。恭は地元ではあまり知られた存在ではないのか、と私はごちた。
 そこで次に、タウン誌『ふるさとケセン67号』(平成14年3月発行)所収の佐藤成氏の論考「賢治と千葉恭のこと」の中に、恭は大正13年3月に水沢農学校(現水沢農業高等学校)を卒業したと書いてあったので、水沢農業高等学校に電話をして、
 御校の同窓生の千葉恭さんは宮澤賢治と約半年、羅須地人協会で一緒に生活をしたといわれている人で、賢治に関わる人物としてはかなり重要な人物だと思います。つきましては図書館等にある同窓会関連や千葉恭関連の資料を見せて貰えないでしょうか。
とお願いしたのだが、個人情報の保護という時代のせいだろう、お見せできませんと断られた。
 そこで思い出したのが、私の叔父の一人に同校の卒業生がいたということだ。早速、『水沢農業高校同窓会名簿』を見せてもらった。するとある頁に、
   第21回(大正13年3月卒業)52名
という項があるので、五十音順に並べてある氏名を指で順に辿って行くと、確かに「千葉 恭」という名前があった。しかし喜んだのも束の間、直ぐ落胆に変わった。恭に関して記載されてあるのはその氏名だけで、本籍地も職業も勤務先も一切載っていなかったからだ。
 ならばということで訪ねて行ったのが、実証的宮澤賢治研究家の菊池忠二氏であった。すると同氏は、
 私も千葉恭のことは気になっていて、恭が食糧管理事務所盛岡支所長時代に直接本人を事務所に訪ね、取材を試みようとしたことがある。ところが訪ねた時間帯が悪かったせいか体よく恭に取材を断られてしまった。
ということを打ち明けてくれた。また、羅須地人協会の建物の西隣に住んでいて、同協会の会員でもあった伊藤忠一に恭のことを訊ねてみようとしたこともあったが、忠一からは言下に、
   そんな人は知らない。
と言われてしまったということも同氏は教えてくれた。
 もはやこうなると私には為す術もない。すっかり途方に暮れてしまった私はそのことを先輩の安藤勝夫氏にぼやいた。すると同氏は、あの人ならば恭に関して知っているかもしれないと言って牛崎敏哉氏を紹介して下さった。そして牛崎氏を介して、千葉恭の三男である滿夫氏に私はとうとう会うことができ(平成22年12月15日)て、例えば、
・父の出身地は水沢の真城折居である。
・穀物検査所は上司とのトラブルで辞めたと父は言っていた。
・父は穀物検査所を辞めたが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないので賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
・賢治は泥田に入ってやったというほどのことではなかったとも父は言っていた。
・昭和8年当時父は宮守で勤めていて、賢治が亡くなった時に電報をもらったのだが弔問に行けなかったと父は言っていた。
・父はマンドリンを持っていた。
・父宛賢治書簡等は昭和20年の久慈大火の際に焼失してしまったと言っていた。
ということなどを滿夫氏から教えてもらった(というわけで、恭の出身地は「気仙郡盛町」ではなかったのである。「恭は地元ではあまり知られた存在ではない」ということは当然のことだったのだ。もちろん、恭の出身地をこれで明らかにできたし、それは私が初めてだろうからということで結構満足できた)。
 それから、恭の長男益夫氏にも後に会うことができて、次のような証言等を得た(平成23年6月16日)。
・父は上司との折り合いが悪くて穀物検査所を辞めた。
・父はマンドリンを持っていた。
・父はトマトがとても嫌いだった。
そして益夫氏夫人がこのトマトのエピソードを受けて、
・美味しそうに盛り合わせてトマトを食卓に出しても、どういうわけかお義父さん(恭)は全然食べなかった。その理由が後で分かった。お義父さんが宮澤賢治と一緒に暮らしていた頃、他に食べるものがない時に朝から晩までトマトだけを食わされたことがあったからだった、ということでした。
・お義父さんは羅須地人協会に7~8ヶ月くらい居たんでしょう。
ということなども教えてくれた。
 しかしながら、下根子桜の別宅で恭が賢治と一緒に生活していた期間等は二人の子息の証言によっては明らかにできなかった。ところがあることが切っ掛けで、確かなルートから、恭が穀物検査所を一旦辞めた日、そして正式に復職した日等があっけなく判明した。それはそれぞれ、
大正15年6月22日 穀物検査所花巻出張所辞職
昭和7年3月31日  〃 宮守派出所に正式に復職
というものであった。
 一方、年次の「昭和四年」には問題があるものの恭は、
 昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサ〳〵してとう〳〵役所を去ることになりました。                    〈『四次元5号』(宮澤賢治友の会)9p〉
とか、
 その中に賢治は何を思つたか知りませんが、学校を止めて櫻の家に入ることになり自炊生活を始めるようになりました。次第に一人では自炊生活が困難となつて来たのでしよう。私のところに『君もこないか』という誘いがまいり、それから一しよに自炊生活を始めるようになりました。 
〈『イーハトーヴォ復刊2号』、宮澤賢治の会)〉
と述べていたし、前掲したように三男の滿夫氏は、
・穀物検査所は上司とのトラブルで辞めたと父は言っていた。
・父は穀物検査所を辞めたが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないので賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
と教えてくれたから、宮澤家別宅寄寓の始まりは穀物検査所を辞めた大正15年6月22日頃であったとほぼ判断できるだろう。そして、冒頭の大正15年7月25日の記載事項、「下根子桜の家に寝泊りしていた千葉恭」はそのことを傍証してくれる。
 また一方で、その寄寓期間についてだが、恭自身は、
 賢治は、当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮たきをし約半年生活をともにした。一番困つたのは、毎日々々、その日食うだけの米を町に買いにやらされた事だつた。  
〈『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の會)〉
と述べていたり、先に少し引用したように、
 先生との親交も一ヶ年にして一應終止符をうたねばならないことになりました。昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサ〳〵してとう〳〵役所を去ることになりました。私は役人はだめだ! 自然と親しみ働く農業に限ると心に決めて家に歸つたのです。
〈『四次元5号』(宮澤賢治友の会)9p〉
ということだったり、さらには、前掲したように益夫氏夫人も、
   お義父さんは羅須地人協会に7~8ヶ月くらい居たんでしょう。
と言っていていずれにも違いがあるが、恭のの宮澤家別宅寄寓期間は長くとも一年以内であろう。
 するとこの時に思い出すのが、
 詩人と云ふので思ひ出しましたが、山形の松田さんを私がとうとう知らずじまひでした。その后有名になつてから「あの時來た優しさうな靑年が松田さんであつたのかしら」と、思ひ出されるものがありました。                          〈『四次元7号』(宮澤賢治友の会)8p〉
とか、
 松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。しかしどやされたけれども、普通の人からのとは別に親しみのあるどやされ方であつた。しかも〝こらつ〟の一かつの声が私からはなれず、その声が社会をみていく場合つねに私を叱咤するようになつてまいりました。
〈『イーハトーヴォ復刊2号』(宮澤賢治の会)〉
という、いずれも松田甚次郎に関する恭の証言である。よって、恭は甚次郎を下根子桜の別宅内で目の当たりにしていたとほぼ判断できそうである。
 一方で、甚次郎は周知のように昭和2年3月8日に賢治の許を訪れ、
 先生は「君達はどんな心構へで歸鄕し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「學校で學んだ學術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答へたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を學校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
  一、小作人たれ
  二、農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。…(筆者略)…
 眞人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として眞に生くるには、先づ眞の小作人たることだ。小作人となつて粗衣粗食、過勞と更に加わる社會的經濟的壓迫を體驗することが出來たら、必ず人間の眞面目が顯現される。默って十年間、誰が何と言はうと、實行し續けてくれ。そして十年後に、宮澤が言つた事が眞理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、實行してくれ」と、懇々と説諭して下さつた。私共は先覺の師、宮澤先生をたゞ〳〵信じ切つた。
〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)2p~〉
ということだし、同年8月8日に賢治の許を再度訪れた甚次郎は、この時のことに関して、
 何だか脚本として物足りなくて仕樣がないので困つてしまつた。「かういふ時こそ宮澤先生を訪ねて教えを受くべきだ」と、僅かの金を持つて先生の許に走つた。先生は喜んで迎へて下さつて、色々とおさとしを受け、その題も『水涸れ』と命名して頂き、最高潮の處には篝火を加へて下さつた。この時こそ、私と先生の最後の別離の一日であつたのだ。餘りに有難い貴い一日であつた。やがて『水涸れ』の脚本が出來上がり、毎夜練習の日が續いた。              〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)28p〉
と述べていることも周知のとおりである。
 しかも、甚次郎の日記(『新庄ふるさと歴史センター』所蔵)によって、彼が賢治の許を訪れたのはこの2回しかなかったということが調べてみたならば判った。したがって、「松田甚次郎も大きな声でどやされた」という様子を恭が目の当たりにしたのは前者の昭和2年3月8日であったと判断できる(甚次郎の日記等から、後者の場合は怒られていないが、前者の場合の賢治の口調は「どやされた」と言えるからだ)。つまり、少なくとも恭は2年3月8日までは「下根子桜」で寄寓していたと判断できるのではなかろうか。
 そこで今まで述べてきた事柄から、宮澤家別宅寄寓期間について次のような、
〈仮説1〉千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。
が定立できるし、その反例もないことが確認できたから検証できたことになる。ただし、恭は一方で、
 先生が大櫻にをられた頃には私は二、三日宿つては家に歸り、また家を手傳つてはまた出かけるといつた風に、頻りとこの羅須地人協會を訪ねたものです。      〈『四次元7号』(宮澤賢治友の會)16p〉
とも語っているから、毎日いつも下根子桜の別宅に泊まっていたという寄寓の仕方ではなく、「二、三日宿つては家に歸り」という寄寓の仕方での少なくとも「8ヶ月間余」という意味でだが。また一方で恭は、
   私が炊事を手傳ひましたが
とか、
   私は寢食を共にしながらこの開墾に從事しましたが  〈共に『四次元7号』(宮澤賢治友の會)15p~〉
とはっきり述べていた。
 したがって、本当のところは、「羅須地人協会時代」の賢治は厳密には「独居自炊」であったとは言い切れないということになりそうだ。そして、どうやら千葉恭の宮澤家別宅寄寓等ついては、一部意識的に隠されてきた蓋然性が高いし、新たな事実も幾つか明らかにできたので、これらのことに関して実証的かつ詳細に論じた拙著『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』を平成23年に自費出版した。

 拙著出版後、同書を宮澤賢治研究の第一人者のお一人A氏に謹呈したところ、
 これまでほとんど無視されていた千葉恭氏に、御著によって、初めて光が当たりました。伝記研究上で、画期的な業績と存じます。それにしても、貴兄もお書きになっておりますが、当時身辺にいた人々が、どうして千葉氏に言及していないのか、不思議ですね。     (傍点筆者)
というご返事を頂いた。まさにA氏の指摘どおりで、なぜ言及していないのか私も不思議に思っていた。
 なお、確かにそのとおり不思議なのだが、同時に次のことも私にはとても不思議だった。それは、千葉恭の著した追想の中身等が賢治に関する論考等においてしばしば資料として引用されているというのに、恭自身のことが全くといっていいほど調べられていないということがだ。それは裏返せば、賢治に関する論考においては、本来は必須であるはずの裏付けを取ることや、検証することもないままに「賢治研究」等がなされてきた虞があるということである。一方で、基本に忠実に研究しようという姿勢があればそれはかなりのことが可能だったはずだ。例えば、恭は当時鎌田旅館に下宿していたと言っている(『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房発行(昭和33年版)257p)わけだし、澤里武治もそこに下宿したと言っている(『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社)61p)わけだから、武治に聞き取りをすれば恭の言動等を裏付けることができたはずだが、どうして賢治研究家はそのようなことをしてこなかったのだろうか。
 話を元に戻す。A氏の指摘のとおりかなり不思議だ。私も今まで恭のことを調べてきて知ったのだが、恭自身が書き残している賢治関連の資料は結構残っているというのに、恭と賢治との関係に言及している恭以外の人物が書き残している資料等はなさそうだからだ。恭は賢治と少なくとも8ヶ月間余を「下根子桜」で一緒に暮らしていたはずなのに、また二人の付き合いは大正13年~昭和3年頃までの足掛け5年の長期間に亘っていたと考えられるのに、さらには、賢治が亡くなった際には電報を貰っていたというのに(恭の三男滿夫氏によれば、賢治から父に宛てた書簡等もあったそうだが昭和20年の久慈大火の際に焼失してしまったと恭は言っていたそうだから、それはやむを得ないにしても)、である。
 いや、しかし絶対未だ明らかになっていない資料が必ずあるはずだ。そう思っていた矢先、ある資料が私の目に留まった。それは『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』掲載の17枚の〔施肥表A〕を眺めていた時のことである。私は吃驚し、次に抃舞した。それは、〔施肥表A〕〔一一〕の中に、
   場処 真城村 町下
   反別 8反0畝
という記載があったからだ。そう、〝真城村〟といえば他でもない千葉恭の出身地ではないか。そして閃いた、この〝真城村 町下〟とは彼の実家の田圃のあった場所ではなかろうかと。それは、彼が実家には田圃が8反あると、何かで述べていたことを私は思い出したからだ。早速確認してみると、「宮澤先生を追つて(二)」(『四次元5号』所収)の中で恭は、
 鋤を空高く振り上げる力の心よさ! 水田が八反歩、畑五反歩を耕作する小さな百姓だが何かしら大きな希望が見出した樣な氣がされました。  〈『四次元5号』(宮澤賢治友の会、昭和25年3月)9p〉
と述べていた。確かに実家の田圃は8反であった。したがって恭の実家では当時真城村の〝町下〟という所に8反の田圃を持っていたと推理できる。        
 そしてもしこの推理が正しければ、この施肥表は恭以外の人物、それも何と、当の賢治自身が書き残した、賢治と恭の関係を示す客観的資料である。しかも初めて明らかになったそれと言える。私は思わぬ発見に嬉しくなった。その喜びに浸りつつ『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』の続きの頁を捲っていったところさらに確信が深まっていった。というのは、この施肥表〔一一〕の他に同書には同〔一五〕と〔一六〕が載っておりそれぞれの〝場処〟が、
  〔一五〕の場処は 真城村中林下
  〔一六〕  〃   真城村堤沢
となっていたからである。すなわちこれら3枚の〔施肥表A〕の〝場処〟はいずれも恭の出身地である真城村のものだった。
 さらに、これらの3枚の左上隅には
  〔一一〕の場合〝D〟
  〔一五〕  〃 〝E〟
  〔一六〕  〃 〝C〟
の記載がある。ところがこの『校本全集』に所収されている17枚の〔施肥表A〕のうち、これら3枚以外にはそんなアルファベットの記載はない。ということは、これら3枚はワンセットのものであり、同時期にまとめて賢治が設計した施肥表に違いないはず。それもC、D、Eの3枚があるということは少なくともA~Eの5枚はあったはずであろう。どうやら、これだけの枚数を、花巻から遠く離れた真城村の人たちが賢治からわざわざ肥料設計をしてもらったということになりそうだ。なぜだったのだろうか。
 実は、前頁で引用した追想「宮澤先生を追つて(二)」の中に、真城村の実家に戻って帰農した恭は地元の仲間32名を誘って「研郷會」を組織して、羅須地人協会と似たような取り組みをしたということも述べている。そして、その後も恭はしばしば下根子桜の賢治の許を訪れては指導を受けていたということで、
 農業に從事する一方時々先生をお訪ねしては農業經濟・土壤・肥料等の問題を教つて歸るのでした。…(筆者略)…私が百姓をしているのを非常に喜んでお目にかゝつた度に、施肥の方法はどうであつたかとか? またどういうふうにやつたか? 寒さにはどういふ處置をとつたか、庭の花卉は咲いたか? そして花の手入はどうしているかとか、夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ、また農作物の耕作に就ては種々の御示教をいたゞいて家に歸つたものです。歸つて來るとそれを同志の靑年達に授けては實行に移して行くのでした。そして研鄕會の集りにはみんなにも聞かせ、其後の成績を發表し合ひ、また私は先生に報告するといつた方法をとり、私と先生と農民は完全につなぎをもつてゐたのです。
〈『四次元5号』(宮澤賢治友の会)10p〉
ということも述べていたから、そのような指導の一環として賢治から施肥の指導も受けていたのであろう。その具体的な事例がこれらの施肥表であり、これらの3枚は恭及び「研鄕會」の他の会員分2枚を恭が取りまとめて「下根子桜」に持参し、賢治に肥料設計を依頼したものに違いない。
 なお、これら計17枚の〔施肥表A〕のうちの何枚かにはそれぞれの提供者名のメモがあると『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』の〝校異〟にはただし書きがある。したがって、これら3枚の〔施肥表A〕についても提供者名の記載があればことは簡単に解決するはずなのだが、残念ながらこの3枚の施肥表にはその記載がなかったようだ。

 こうなれば、恭の長男の益夫氏に会ってその田圃の場所を確認をし、恭の実家の近くには〝町下〟だけでなく〝中林下〟及び〝堤沢〟という地名があるか否かも確認したくなった。もしこれらの地名がその辺りにあれば、これらの〔施肥表A〕は100%、賢治が恭に頼まれて設計してやったものだろうと断定できると思ったからである。実は、このこともあって益夫氏の許を訪ねたのが、先に述べた平成23年6月16日その日であったのだった。そして、『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』掲載の件の3枚の〔施肥表A〕のコピーをお見せしながら、
 お父さんが真城のご自宅に戻って農業をしていた頃、〝町下〟に8反の田圃があったでしょうか。
と訊ねると、嬉しいことに、
 確かに真城の実家の近くに〝町下〟という場所があり、そこに田圃がありました。その広さから言っても実家の田圃に間違いない。
という予想どおりの答が返ってきた。そして、
 そもそも水沢の〝真城折居〟は、かつては〝真城村町(まち)〟と呼ばれていて、〝折居〟は以前は〝町〟という呼称だった。
ということも教えてもらった。これで、〔施肥表A〕の〔一一〕に記されていた
   場処 真城村 町下
   反別 8反0畝
は、まさしく当時の千葉恭の実家の田圃のことであり、
〔施肥表A〕〔一一〕は恭の実家の水田に対して賢治が設計した施肥表である。
と、もう断言してもいいだろう。
 また〝中林下〟及び〝堤沢〟という地名が〝町下〟の近くにあるということも知った。もっと正確に言うと、〝中林下〟及び〝堤ヶ沢〟という地名が真城村の〝町下〟の近くにあることが判った。おそらくこの〝堤沢〟は〝堤ヶ沢〟のことだろうから、
   町下、中林下、堤沢
という地名のいずれもが、当時の真城村の〝町下〟の周辺に存在していたとしてもいいだろう。よって、これら3枚の〔施肥表A〕のそれぞれに記された場処、
   〔一一〕の〝町下〟、〔一五〕の〝中林下〟、〔一六〕の〝堤(ヶ)沢〟
は全て〝真城村 町下〟周辺に実在していた地名であり、
〔施肥表A〕の〔一一〕〔一五〕〔一六〕の3枚はいずれも恭に頼まれて賢治がわざわざ設計した、花巻から遠く離れている真城村の田圃に対する施肥表である。
と言い切っていいだろう。
 これでやっと、今まで千葉恭が残した幾つかの資料から一方的に賢治を見てきたが、初めて逆方向からも見ることができた。つまり今までの流れの図式は、
  ・千葉恭→賢治
というものであったが、これで
  ・賢治→千葉恭
という逆の流れも初めて見つかったので、両方向の流れができた。それゆえ、先に定立した
〈仮説1〉千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。
の妥当性に私はますます確信を持った。

 それからもう一つ、『拡がりゆく賢治宇宙』の中に次のような記載があることも知った。それは、賢治が「下根子桜」の近所の青年たちと結成した楽団のメンバーについての、
   第1ヴァイオリン  伊藤克巳(ママ)
   第2ヴァイオリン  伊藤清
   第2ヴァイオリン  高橋慶吾
   フルート      伊藤忠一
   クラリネツト    伊藤与蔵
   オルガン、セロ   宮澤賢治
 時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです。
〈『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)79p〉
という記載である。つまりこの楽団に、「時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです」と、推定表現ではあるものの「千葉恭」の名前がそこにあったのである。ということは、「羅須地人協会時代」に恭は時にこの楽団でマンドリンを弾いていたようだということになるから、恭が下根子桜の別宅に来ていた蓋然性が高いということをこの記載は意味している。
 なお、このことに関しての『新校本年譜』の記載は、
   しかし音楽をやる者はほかにマンドリン平来作、木琴渡辺要一がおり
〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)314p〉
というように、推定の「あったようです」が「おり」と断定表現に変わっているとともに、「千葉恭」の名前だけがするりと抜け落ちている。そこで、どうして「賢治年譜」には恭だけが抜け落ちているのですかとイーハトーブ館を訪ねて関係者に訊ねたところ、「それは一人の証言しかないからです」という回答だった。もしそういうことであればそれは尤もなことである。
 ところで、そもそも「それは一人の証言しかないからです」というところの「一人」とは一体誰のことだろうかと思って調べ回ったところ、この楽団メンバーの記述を担当した人は阿部弥之氏であることを知った。そこで同氏に、「時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです」となぜ記述できたのかと問うと、
 あれですか、「時に、マンドリン・平来作、千葉恭」という証言は、私が直接平來作本人から聞いたものです。
とその根拠を教えてもらった。よってこれで証言者が確定した。賢治の身辺にいた教え子平來作であった。
 そこで次に私はその裏付けを取ってみようと思っていたので、実はそのためもあって、先に述べた平成22年12月15日に恭の三男滿夫氏に会いに行ったのであった。そして、同氏に「お父さんはマンドリンを持っていませんでしたか」と訊ねてみたところ、「はい持っていましたよ」という回答であった。さらに長男益夫氏からは、そのマンドリンに関する面白いエピソードまで教えてもらった。したがって二人の子息の証言から、前掲の「時に、マンドリン・平来作、千葉恭」という記載はほぼ事実であったと言えるだろう。それは、当時岩手でマンドリンを持っていた人は珍しかったはずだからなおさらにである。
 これで、「恭は件の楽団の一員であり、マンドリンを担当していた」ということについてのかなり確度の高い裏付けを私は取れた。つまり、「当時身辺にいた」(16p)教え子の平來作が、「恭は「羅須地人協会時代」に下根子桜の別宅に来ていた」ということを実質的に証言していたことになり、これはほぼ事実であったと判断できた。もちろん、こう判断できたのも恭の二人の子息の証言等があったからであり、これで、『拡がりゆく賢治宇宙』の「時に、マンドリン・平来作、千葉恭」という記載については、「それは一人の証言しかないからです」という理由によって棄却することはできなくなったし、逆にその信憑性は極めて高いものとなったと言える。したがって、賢治が設計したと言える前掲の3枚の〔施肥表A〕と、この平來作の証言によって、恭の下根子桜での宮澤家別宅寄寓が客観的にも裏付けられたと言えるだろう。

 ㈡「羅須地人協会時代」の上京について
 どうやら賢治は東京が大好きだったようで、大正15年に花巻農学校を辞して「下根子桜」に住まっていた時代、いわゆる「羅須地人協会時代」の約二年四ヶ月の間にも何度か東京へ行っていたという。比較的はっきり分かっているものとしては、大正15年12月2日からの約一ヶ月間の滞京と、昭和3年6月の18日間ほどのそれがあろう。
 ところが今まで誰一人として公的には指摘していないし、なおかつ基本に忠実に調べれば容易に気付けることだと私は思っているのだが、前者の典拠がかなり危ういということを実証できた。さらには、これらの他にもこの時代に約三ヶ月間に亘る長期間の滞京を賢治がしていた蓋然性が極めて高いということも示すことができた。それはとりわけ、去る平成28年10月17日、「父はこれを書く際に相当悩んでいた」と付言しながら子息の裕氏が私に見せてくれた、澤里武治が74歳頃に書いたという自筆の三枚の資料(この資料はこれまで公になっていないはずだ)によってだ。
 もう少し具体的に言うと、その中の一枚〝(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」〟には、
 大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり   (傍点筆者)
という記述があり、年は「大正十五年」と書いてあったものの、その月が定説の「12月」ではなくて「11月」のままだったからである。さらに、もう一枚の〝(その三)「附記」〟の方には、
 関徳弥氏(歌集寒峡の著者)の来訪を受けて 先生について語り写真と書簡を貸し与えたのは昭和十八年と記憶しているが昭和三十一年二月 岩手日報紙上で氏の「宮沢賢治物語」が掲載されその中で大正十五年十二月十二日付上京中の先生からお手紙があったことを知り得たのであったが 今手許には無い。
と書かれていて、実は「大正15年12月12日付澤里武治宛賢治書簡」があったのだがこれが行方不明になっているという。しかも、この書簡内容も、その存在自体すらも公には知られていないことだ。ならば、同時代の上京に関して再検証をせねばならないと私は思ったのだった。そこで以下にその検証をしてみる。
 まず、いわゆる『新校本年譜』の大正15年12月2日の項についてである。そこには、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れがたく冷たい腰かけによりそっていた(*)。
〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)325p〉
と記載されていて、賢治がこのような上京をした霙の降る寒い日は「大正15年12月2日」であったというのが定説となっている。
 ところが、この〝*65〟の註釈について同年譜は、
関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
と、その変更の根拠も明示せずに、「…ものと見られる」とか「…のことと改めることになっている」と、まるで思考停止したかの如き、あるいは他人事のような註釈をしていたので私は吃驚した。
 そこで次に、〝関『随聞』二一五頁〟を実際に確認してみると、
 沢里武治氏聞書
○……昭和二年十一月ころだったと思います。…(筆者略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅までお見送りしたのは私一人でした。…(筆者略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。             (傍点筆者)
〈『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~〉
となっていて、私は今度は愕然とした。
 それはまず、本来の武治の証言は「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」だったのだが、故意か過失かは判らぬが、同年譜の引用文では「少なくとも三か月は滞在する」の部分が綺麗さっぱりと抜け落ちていたからである。その上、この武治の証言の中で、「賢治が武治一人に見送られながらチェロを持って上京した日」が「大正15年12月2日」であったということも、「大正15年12月」であったということも、「大正15年」であったということも、「12月」であったことさえも、何一つ語られていなかったからである。
 その挙げ句、「先生は三か月間……帰郷なさいました」というところの「三か月間の滞京」を同年譜の大正15年12月2日以降に当て嵌めようとしても、次頁の《表2『現 宮澤賢治年譜(抜粋)』》から明らかなように、それができないという致命的欠陥があるからである。そしてこの致命的欠陥は次のことを逆に教えてくれる。典拠となっている「ものと見られる」というところの、〝関『随聞』二一五頁〟自体が実は同年譜の「大正15年12月2日」の記載内容の反例になっているということ、それゆえこの記載内容の少なくとも
一部は事実と言えないということ、延いては典拠が危ういということをである。
 一方で、武治の証言通りにこの「三か月間の滞京」を『新校本年譜』の昭和2年11月~同3年2月の間に当て嵌めようとようとすれば、次頁の《表3『現 宮澤賢治年譜(抜粋)』》から明らかなように、すんなりと当て嵌められる「三か月間」の空白があることが直ぐ判る。 したがって、まさにこの〝関『随聞』二一五頁〟が、
〈仮説2〉賢治は昭和2年11月頃の霙の降る
日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、しばらくチェロを猛勉強していたが病気となり、三ヶ月後の昭和3年1月頃に帰花した。
が定立できるということを否応なく教えてくれている。
 さらに、『賢治随聞』には次のような問題点があることも知った。それは、昭和45年出版の同書の著者名が「関登久也」となってはいるものの、実は関自身が出版したものではなかったという問題点がである。関は疾うの昔の昭和32年に亡くなっていたからだ。
 ではなぜこのような不自然なことが為されたのか。そのことについては、森荘已池が書いた同書の次のような「あとがき」が教えてくれている。
 宗教者としては、法華経を通じて賢治の同信・同行、親戚としても深い縁にあった関登久也が、生前に、賢治について、三冊の主な著作をのこした。『宮沢賢治素描』と『続宮沢賢治素描』そして『宮沢賢治物語』である。…(筆者略)…
 さて、直接この本についてのことを書こう。
 『宮沢賢治素描』正・続の二冊は、聞きがきと口述筆記が主なものとなっていた。そのため重複するものがあったので、これを整理、配列を変えた。明らかな二、三の重要なあやまりは、これを正した。…(筆者略)…
 なお以上のような諸点の改稿は、すべて私の独断によって行ったものではなく、賢治令弟の清六氏との数回の懇談を得て、両人の考えが一致したことを付記する。
〈『賢治随聞』(関登久也著、角川書店、昭和45年)277p~〉
つまり、宮澤清六と懇談の上で、森荘已池が関の既刊の著作を改稿して出版したのが〝関登久也著『賢治随聞』〟であったというのである。しかもこれに続けて森は、
 多くの賢治研究者諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい。
という懇願まで述べているのだが、なんとも奇妙なことだ。関登久也に対してあまりにも失礼であり不遜な謂(いい)だ。そしてこの懇願を受けたかの如くに、『新校本年譜』はまさに「本書によって」(後に34pで述べるが、これは初出でも一次情報でもないというのにも拘らずである)いることが、先の〝*65〟の註釈から判る。
 そこで次に、この「あとがき」で挙げている関の「三冊」を、出版年を遡って澤里武治の証言に注目しながら少し調べてみた。 
(1)『宮沢賢治物語』(岩手日報社、昭和32年)
 まず、『宮沢賢治物語』には次のようなことが書かれているが、
   沢里武治氏からきいた話
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
「上京、タイピスト学校において…(筆者略)…言語問題につき語る。」
 と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。…(筆者略)…その十一月のびしよびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
「沢里君、しばらくセロを持つて上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。」
 よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。そのみぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。     (傍点筆者)〈『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年)217p〉
というわけで、一読して変な文章であり、意味がすんなりと通じにくい。
(2)『續 宮澤賢治素描』(昭和23年) 
 では次に、『續 宮澤賢治素描』においてはどうかというと、
   澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴァイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。そのとき花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。驛の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが、先生は「風邪を引くといけないからもう歸つて呉れ、俺はもう一人でいゝのだ。」と折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸ると云ふことは私としてはどうしてもしのびなかつた。また先生と音樂について樣々の話をし合ふことは私としては大変樂しい事でありました。滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました。
〈『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年)60p~〉
となっていて、こちらならば意味はすんなりと通ずる。
 しかもこの冒頭では「確か」という措辞がなされているから、『賢治は「昭和二年十一月頃」の霙の降る日に私一人に見送られながらチェロを持って上京した、ということはまず間違いない』という意味のことを、武治は相当の確信を持って言っていたことになる。その上、著者の関も同書の「序」で、
 果たしてこの私の採錄が正しいかどうか、書上げた上に、一度はその物語りの人達の眼を通しては頂いたが、それでも多少の不安がないでもない。
というように慎重を期していたから、逆に同書の証言内容の信憑性はかなり高いと期待できる。
 最後に『宮澤賢治素描』についてだが、昭和22年版、同18年版のいずれにも武治のこの証言は載っていなかったから、同証言の初出は〝(2)『續 宮澤賢治素描』〟であったこともこれで分かった。

 それから、この証言に関してとても重要なものが見つかった。それは論考等において最も尊重されねばならないはずの一次情報とも言える『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』であり、このノートの冒頭にに書かれていた件の武治の証言は次のようになっていた。
(3)『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』
        三月八日
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村(〈註一〉)に於て、農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。「沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞険(ママ)だ少くとも三ヶ月は滞京する 俺のこの命懸けの修業が、結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。
 其の時花巻駅…(この部分は基本的に前項〝(2)〟と同じだったから割愛)…そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。
〈関登久也の『原稿ノート』(日本現代詩歌文学館所蔵)〉
 そして、この『原稿ノート』の表紙には〝1.續 宮澤賢治素描/昭和十九年三月八日〟と書かれていた。よって前々頁の「澤里武治氏聞書」、つまり件の武治の証言は、同ノートの場合のタイトルが「三月八日」となっていることからして、昭和19年3月8日に聴き取ったものと判断できる。
 一方で、一読して変な文章の〝(1)『宮沢賢治物語』〟とは、同書の出版以前に『岩手日報』紙上に連載された関登久也の「宮澤賢治物語」を単行本化したものであり、件の武治の証言は新聞連載の場合には次のようになっていたことも知った。
(4) 「宮澤賢治物語」(昭和31年『岩手日報』連載)
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには…(筆者略)…
 その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
 『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』…(筆者略)…
 その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
                      (傍点筆者)〈昭和31年2月22日付『岩手日報』掲載〉
 そこで〝(1)〟と〝(4)〟の両者を見比べてみたところ、一箇所だけ決定的に違っている箇所があった。それは、
  単行本の〝(1)『宮沢賢治物語』〟の場合における
  ・昭和二年には上京して花巻にはおりません。…………①
  新聞連載の〝(4)「宮澤賢治物語」〟の場合における
  ・昭和二年には先生は上京しておりません。 …………④
の部分だ。この両者の違いは決定的である。①ならば賢治は上京していることになるし、④ならば上京していないということになるからだ。そして、新聞連載の方の④は関存命中のもので、①は歿後のものだから、④の方が当然本来の記述であるはずだ。
 ということは、新聞連載の「宮澤賢治物語」を単行本化して『宮沢賢治物語』として出版する際に、関以外の人物がたまたま間違えたか、あるいは、わざとある意図の下に改竄したかのいずれかになるだろう。さて、それではどちらの方が起こっていたのか。
 まず、他の箇所は基本的には違っていないのにも拘わらず唯一この箇所だけが違っていることが確認できた。なおかつ、①と④とでは全く逆の意味になってしまう。それも重要な意味を持っている一文だ。したがって、たまたま間違えたわけではなくて意図的に改竄が行われていたと判断せざるを得ない(それゆえに、〝(4)「宮澤賢治物語」〟ならばすんなりと文章の意味が通じるが、〝(1)『宮沢賢治物語』〟の方は一読して変な文章だったということか)。
 では、なぜこのような「改竄」が可能だったのか。それについては、〝(1)『宮沢賢治物語』〟の次のような「後がき」が教えてくれる。
 単行本にまとめる企画を進めていたのが、まことに突然、三十二年二月十五日、関氏は死去されたのである。
 不幸中の幸として、生前から関氏は、整理は古館勝一氏に依頼したいということを明らかにしていた。監修は賢治の令弟宮沢清六氏にお願いし序文は草野心平氏に書いていたゞいた。
つまり、新聞連載を単行本化して出版する直前に関は亡くなってしまったので、最後の段階では関以外の人物が携わっていたからだと言えるだろう。
さてこうなってしまうと、賢治に関する論考等において使える件の武治の証言としては、『賢治随聞』や〝(1)『宮沢賢治物語』〟に所収されているものは著者である関以外の人物の手が加わっている蓋然性が高いということが判ったから除外されるべきだ。逆に、最もふさわしいのは一次情報とも言える〝(3)〟に、次にふさわしいのが初出の〝(2)〟に所収されているものとなろう。
 そこで、この〝(3)『原稿ノート』〟及び初出の〝(2)〟に所収されている件の武治の証言と〈仮説2〉(29p)を照らし合わせてみれば、この仮説そのものをズバリ裏付けてくれていることが直ぐ判るから、「羅須地人協会時代」の賢治の上京に関する〈仮説2〉の妥当性がまずは示された。
 しかも、このことに関しては次のような他の証言等、
 (a) 柳原昌悦の証言
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。    〈菊池忠二氏による柳原昌悦からの聞き取り〉
 (b) 伊藤清の証言
地人協会時代に、上京されたことがあります。そして冬に、帰って来られました。 
 〈『宮沢賢治物語』(昭和32)268p〉
 (c) K(高橋慶吾)とM(伊藤克己)の証言
K 先生の御病氣は昭和二年の秋頃から惡くなつたと思ふが――。
M よく記憶にないが東京へ行つてからだと思ふ。東京ではエス語、セロ、オルガンなど練習されたといふ話だつた。               〈『宮澤賢治素描』(関登久也著、協榮出版、昭和18)254p〉
 (d) 昭和3年1月16日付『詩人時代』編集部宛の賢治書簡
 病気も先の見透しがついて参りましたし、きつと心身を整へて、今一度何かにご一所いたしますから。
〈『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、昭和41)184p~〉
 (e) かつてのおしなべての「賢治年譜」の次のような記載
   昭和三年 一月……漸次身体衰弱す。
もあるから、先の〈仮説2〉(29p)の妥当性をさらに裏付けてくれる。
 つまり、まず(a)からは、この「あのとき」とは、「澤里一人に見送られて」と巷間言われている大正15年12月2日の上京の時のことをもちろん指しているはずで、その際は澤里だけでなく自分も一緒に賢治を見送ったと、職場の同僚だった賢治研究家菊池忠二氏に対して柳原が証言していたことが分かるからだ。
 次に(b)からは、「そして冬に」と言っているわけだから、賢治が花巻を出立した時期は当然「冬」ではなく、なおかつ、賢治が帰花したのは「冬」であるということになるので、〈仮説2〉のような上京であればピッタリと合うし、しかもこの他に、「羅須地人協会時代」のこのような上京は知られてはいないからだ。
 そして(c)については、羅須地人協会員のK(高橋慶吾)は賢治が「昭和二年の秋頃」から「御病気」が悪くなったと記憶していたことに対して、同じく協会員のM(伊藤克己)はそれは「東京へ行つてからだと思ふ」と話していたわけだから、その頃に上京した賢治は病気が悪くなったということになるので、先の仮説の妥当性をやはり傍証しているからだ。
 では(d)についてだが、これはそのものずばりで、昭和3年1月16日頃の賢治は病気であり、やっとその快復の見通しが立ってきたという意味のことを自分自身で語っていたからである。
 最後に(e)だが、これも前項と同様で、昭和3年1月頃の賢治は「漸次身体衰弱す」ということで、もちろん先の仮説を裏付けてくれるからである。

 ただし、問題が一つあった。それはこの仮説に対する反例となり得るかもしれないものが見つかったからだ。具体的には、
 花巻駅までチェロをかついで見送った沢里武治の記憶は「どう考えても昭和二年十一月頃」であった。…(筆者略)…「昭和二年十一月頃」だが、晩年の沢里は自説を修正して自ら講演会やラジオの番組でも「大正十五年」というようになっている。 …………★
〈『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社、平成10)68p〉
という、武治が自説の修正をしたともとられる〝★〟が見つかったからだ。それ故、この〈仮説2〉(29p)には反例が全くないと言えるのかという指摘がなされ得る、という弱点があった。そこでこれまでの私は、この〈仮説2〉には反例が全くないとは実は言い切れずにいた。
 ところが、先に26pで掲げたように、澤里武治(79歳歿)は、
 大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり
(傍点筆者)
と晩年(74歳頃)でも書いていたことをこの度私は知ったし、こちらは〝★〟とは違っていて、「大正十五年」ではなくて「大正十五年十一月末日」だった。つまり、チェロを持って上京する賢治を武治一人が見送ったという月は、定説の「12月」ではなくて晩年でも「11月」のままだった。武治は終始一貫して「11月」であると主張していたことになる。したがって、彼は修正していたとまでは言えないと私には判断できた。
 なぜならば、もし武治が本心から自説の間違いを認めて修正したということであれば、定説ではその上京の日は「大正15年12月2日」となっているので、「大正十五年十一月末日」であってはそうならないからである。一方で、武治が「大正十五年」と書いていたのは、不本意ながらもやむを得ず「定説」と折り合い(〈註二〉)を付けて妥協するしかなかった(あるいは逆に、「11月」は彼の矜恃だった)ということも充分にあり得るからだ。
 だから『新校本年譜』の担当者がまず為さねばならなかったことは、件の「三か月間の滞京」が、定説となっている「大正15年12月2日、チェロを持って上京する賢治を武治一人が見送った」の反例になっているということに気付くことであり、次に、この「定説」には反例があったのだからそれを棄却(〈註三〉)することであった。しかし現実には、前者も後者も為されなかった。それは逆に言えば、武治は万やむを得ず折り合いを付けたという蓋然性が極めて高いということであり、おのずから〝★〟は〈仮説2〉の反例とまでは言えない。よって、この仮説の反例は今のところ見つからないからその検証が完了したので、今後この反例が見つからない限りはという限定付きで、〈仮説2〉は「真実」となる。
 さて、ここまでの「仮説検証型研究」によって、賢治が大正15年12月2日に武治一人に見送られながらチェロを持って上京したということは事実であったとは言えないということを、一方で、賢治には昭和2年11月頃からの三ヶ月間に亘るチェロ猛勉強のための長期滞京があったという、新たな真実を明らかにできた。同時に、「三ヶ月間の滞京」期間もこれで問題なく同年譜にすんなりと当て嵌まるので、先の致命的欠陥もこれであっさりと解消できた。
 したがって、この〈仮説2〉に対する反例が今後提示されない限り、最初の《表1の1~4「修訂 宮澤賢治年譜」》にも掲げたように、本当のところは、
・大正15年12月2日:〔柳原、〕澤里に見送られながら上京(この時に「セロを持ち」という保証はない)。
・昭和2年11月頃:霙の降る寒い夜、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」と賢治は言い残し、澤里一人に見送られながらチェロを持って上京。
・昭和3年1月頃:約三ヶ月間滞京しながらチェロを猛勉強したがそれがたたって病気となり、帰花。漸次身軆衰弱。
であったとなる。つまり、新たな真実が明らかとなったので、現「賢治年譜」はその修訂が迫られている。
 最後に、武治宛賢治書簡は本来は約17通程残っていたのだが、どういうわけか「大正15年12月12日付」の一通については現在行方不明であるということだから、この書簡が発見されることを願ってこの節〝㈡〟を終えたい。それが発見されれば、一連の顚末の真相がさらにはっきりするであろうからだ。
(詳細は拙著『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』を参照されたい)

 なお、この節の私の主張は、いわば「賢治の昭和二年上京説」は、拙ブログ『みちのくの山野草』においてかつて投稿した「賢治の10回目の上京の可能性」に当たる。その投稿の最終回において入沢康夫氏から、
祝 完結 (入沢康夫)2012-02-07 09:08:09「賢治の十回目の上京の可能性」に関するシリーズの完結をお慶び申します。「賢治と一緒に暮らした男」同様に、冊子として、ご事情もありましょうがなるべく早く上梓なさることを期待致します。
というコメントを頂いた。しかもご自身のツイッター上で、
入沢康夫 2012年2月6日
「みちのくの山野草」http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku というブログで「賢治の10回目の上京の可能性」という、40回余にわたって展開された論考が完結しました。価値ある新説だと思いますので、諸賢のご検討を期待しております。
とツイートしていることも偶々私は知った。そこで私は、同氏からこの〈仮説2〉に、そしておのずから、チェロ猛勉強のための「賢治の昭和二年上京説」に強力な支持を得ているものと認識している。

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