みちのくの山野草

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1687 花巻空襲(宮澤賢治生家)

2010-09-04 08:00:20 | 賢治関連
   《1 ↑現在の宮澤賢治の生家》(平成22年9月1日撮影)

 では、今回は昭和20年の花巻空襲における宮澤賢治生家の罹災状況について少しく報告したい。

 先ずは前回触れた花巻空襲における罹災区域図だが、宮澤賢治の生家の場所を確認すれば下図の地点”M”にあたる。
《2 花巻空襲罹災区域》

   <『花巻の歴史・下』(及川雅義著、図書刊行会)より抜粋>
この図で解るように豊沢町(C の周辺)にあった賢治の生家も空襲による罹災を免れ得ず、火災に遭ってしまった。

 一方次が、それまでの古着・質店をやめて弟清六が大正15年に開いた金物店
《3 宮澤商会》

   <『新潮日本文学アルバム 宮澤賢治』(新潮社)より>
であり、もちろん賢治の生家、宮澤家の店構え部分である。この宮澤家を真横から見てみると次のような概観
《4 宮澤家側図面》

    <『校本 宮沢賢治全集 第十四巻』の「宮澤家側図面」(筑摩書房)より>
をしていた木造2階造りであったという。
 また、その頃の生家の屋敷の平面図は同著によれば下図の”(移築後)”のようなものだったという。
《5 宮澤賢治生家の屋敷》

    <『校本 宮沢賢治全集 第十四巻』の「宮澤家一階平面図」(筑摩書房)より>

 さてそれでは、宮沢清六談の「花巻から山小屋までの高村先生」から賢治の生家の花巻空襲における被災状況を見てみよう。
 (高村先生は)七月に入ってからは花巻付近を歩かれたり、訪客とも快く会われる様になった。警戒警報が頻りに発せられたが、裏の離れ<*1>は四方の家と十数間ずつ離れ、三方に栗・胡桃・杉などの立木が生えていたので、私達も焼けないものと安心していたのであった。しかし千代田氏は防空壕<*2>の完備をすすめ、私達は毎日土を掘ったり人夫を頼んだりして相当丈夫な火災に堪えるものを造り上げた。また千代田氏と二人でダリヤやトマトを植え、胡瓜や野菜もつくった。このころ先生は
 「僕はこれから自炊をはじめますからどうか心配なさらないで下さい。米は一日に一合八勺で大丈夫です<*3>。」ということで…(略)…
 八月になって釜石港も艦砲射撃を受けた。花巻の西南二里に後藤野飛行場があったので空襲は必至と思われたが、私達は焼けないと決めて荷物の疎開はしなかった。防空壕には兄の原稿と衣類などを入れた<*4>が、先生は自分のものは蔵われなかった。
 そして八月十日になった。この日、警報は朝から幾度もあったが、先生は落ち着いていられたし、私は『ジャン・クリストフ』を夢中で読み耽っていたのであった。午前十一時半(午後1時半頃?=投稿者)に艦載機が数機飛来して駅方面に爆撃を集中した。間もなく我々の防空壕付近も機銃掃射を受け、町の中央に落下した爆弾から火災となった。
 先生はバケツで屋根に水をかけ、消火につとめられたのであったが、火災が猛烈で、それに風が出て来たので消火は諦めて、防空壕に手当たり次第に物を運びはじめた。先生の道具や砥石や寝具は幸い運び込まれたが、賢治関係の大部分や本や肉筆の書画や農民芸術論などは間に合わなかった<*5>
 …(略)… 
 思ったより火の廻りは早くて、千代田氏と私が防空壕の両方の入り口に二尺以上の土をかけている中に、四方がもう火の海になっていた。千代田氏は布団に水をかけて、火の中に飛び込んでやっと逃れたがひどい火傷を負った。
 私はそこで死ぬかとあきらめたのだったが、天佑にも火傷寸前に防空壕に入って助かった壕の中にも火は入って来たのだったが、中に入れてあった瓶に入った醤油で消し止めて、なかのものも無事なるを得た。

   <『兄のトランク』(宮澤清六著、ちくま文庫)より>
ということである。

 それでは次に<*1>~<*5>のそれぞれについて少しずつ補足したい。
<*1> さて、この”裏の離れ”とは前掲《4 宮澤賢治生家の屋敷》の図の”遠裏”に当たる場所に立てられた離れのことであり、そのことについては岩田シゲが「一三 紬」の中で次のように語っているという。
 先生が病に伏し病後の静養をしていた住居は、政次郎さん宅の裏にある離れです。賢治の病中建ててやりたいという親心も、賢治の死が早まったため及ばないで、その死後一つの悲願ともなって建てられた静かな家です。座敷の正面は襖になっています。これを開くと中に仏壇があって、わきに賢治の形見の品がおいてあります。座敷の前には広いサンルームがあり、そのほか二つばかりの室、台所も整備してあります。
     <『高村光太郎山居七年』(佐藤隆房著、高村記念会)より>
《6 離れの仏壇》

     <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)より>

ということで、賢治が亡くなった後に完成した離れに、疎開した先生(高村光太郎)はこの時期寄寓していたということになる。

<*2> 次に防空壕の場所であるが、「一七 非常の時(一)」で
 防空壕は離れの南西方で、境の板塀の隅の近く
   <『高村光太郎山居七年』(佐藤隆房著、高村記念会)より>
に造ったと清六が話したと佐藤隆房は述べている。とすれば、前掲の《4 宮澤賢治生家の屋敷》の”遠裏”付近に建てた”裏の離れ”の南西方境界の隅に防空壕を造ったということになろう。

<*3> 気になることの一つが「米は一日に一合八勺で大丈夫です」の部分である。高村光太郎は身長が191㎝、足は29㎝もあった大男と聞く。『雨ニモマケズ』で宮澤賢治が「一日玄米四合」と言っているのに、大男の光太郎が「一日米一合八勺」と言っているわけで、この大きな差は一体どう解釈すればいいのだろうか。

<*5> 賢治関係の大部分や本や肉筆の書画や農民芸術論などは間に合わなかったと清六は語っているようだが、一方では、10日当日に防空壕に運び入れた賢治関係の物は一切無かったわけではなく、清六自身が前掲の「一七 非常の時(一)」において
 賢治関係で壕に運び入れたのは賢治の遺品のレコード
   <『高村光太郎山居七年』(佐藤隆房著、高村記念会)より>
と語っているという。さて実態はどうだったのであろうか。

<*4> そして、防空壕には兄の原稿と衣類などを入れたに関しては、『兄のトランク』の中で清六は
 昭和二十年八月十日に花巻が空襲に会って、賢治の遺品は概ね焼けてしまったが、防空壕に入れてあった原稿は全部損傷なく残ったのであった。
   <『兄のトランク』(宮澤清六著、ちくま文庫)より>
と語っている。清六たちの判断が幸いしたということになろう。

 最後に、賢治生家の土蔵についても触れておきたい。
 同じく「一七 非常の時(一)」によれば、
 宮沢家の土蔵は空襲の日は別状なく次の日の午前も別状がないので「残った。」と思ったのでしたが、その日の午後になって黄色な煙を吹き出しました。消火したいのですがポンプが引張凧でないのです。ようやく三日目にポンプがあいたのがあってそれが来て戸をあけると同時に放水しました。しかし、大切な衣類は蒸焼きになって一つも役に立ちません。ただ一つ残ったのは賢治さんの箪笥だけで、その中には賢治さんの未整理の原稿と、遺言で出版した国訳妙法蓮華経七八十冊と、父母恩重経のパンフレット百余冊が入っていて、それらは無事でした。
   <『高村光太郎山居七年』(佐藤隆房著、高村記念会)より>
と清六は語っているという。

 結局この空襲で賢治の生家は母屋も裏の離れも全焼してしまった。そして、かろうじて焼け残った土蔵もその役目を全うは出来なかったが、不幸中の幸い、賢治関係の原稿等は清六の命懸けの努力等で案外焼け残ったことがこれで解った。

 では次回は山折哲雄の実家専念寺に関して報告したい。

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