《↑『宮澤賢治の山旅』(奥田博著、東京新聞出版局)表紙》
以前”「早池峰と賢治」展示館”で次のようなことを投稿したことがある。
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《7 『河原の坊』》(平成22年4月8日撮影)
<「早池峰と賢治」展示館展示パネルより>
の中央の部分の写真
《8 『昭和30年代の河原の坊周辺』》(平成22年4月8日撮影)
<「早池峰と賢治」展示館展示パネルより>
を抜き出すと、この2葉の写真の内の上の方の写真中央に『川原の坊』という白いパネルが見える。そしてその中に詩らしきものが不鮮明ながら見えるから、もしかすると深田久弥が『我が愛する山々』(深田久弥著、新潮社)で『河原ノ坊跡には、北上の詩人賢治の詩が掲げてあった』と書いていたのはこの白いパネルのことだったのかも知れない。冷静に読んでみると深田は何も賢治の詩碑があるなどとは書いておらず、詩が掲げてあったと書いているのだから、パネルに詩が書かれていたのであれば深田の表現に間違いはないことになる。
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ということで同展示館訪問後はこのことが気になっていた。それがたまたま昨日、このブログの先頭に掲げた『宮澤賢治の山旅』をたまたま読み返していたならばその中身が詳らかになったので報告する。
著者奥田はこの本の中の章「早池峰山」で次のように述べていた。
私が早池峰山に初めて登ったのは、昭和四十年(一九六五)八月九日とノートに記してある。夜行列車に乗り、バスを乗り継いで岳には朝八時七分着とある。暑く長い林道をひたすら歩いて、河原の坊までたどり着いた。そこで宮澤賢治の「河原坊」の木製の詩碑が建っていた。恥ずかしながら、宮澤賢治の詩といえば「雨ニモマケズ」しか知らなかった青年の自分は静かな、しかし衝撃的な出逢いだった。
こゝは河原の坊だけれども
曽ってはこゝに棲んでゐた坊さんは
真言か天台かわからない
とにかく谷がも少しこっちへ寄って
あゝいふ崖もあったのだらう
鳥がしきりに啼いてゐる
もう登らう
初めて出合ったこの詩に、感激したのだろうか。ノートにこの詩が写し記されている。
<『宮澤賢治の山旅』(奥田博著、東京新聞出版局)より>
と。
一方、深田久弥が大迫の岳を訪れたのは1960年(昭和35年)8月25日、河原坊には翌26日に行っているということだから、深田が見たものと奥田が昭和40年に見たものとは同一のもので、それはこの白いパネルと見なすことことが出来よう。
つまり、
1.当時は河原坊に『川原の坊』という白いパネルが建ててあった。
2.そこに書かれていた詩は「河原坊(山脚の黎明)」の最後の部分
こゝは河原の坊だけれども
曾ってはこゝに棲んでゐた坊さんは
真言か天台かわからない
とにかく昔は谷がも少しこっちへ寄って
あゝいふ崖もあったのだらう
鳥がしきりに啼いてゐる
もう登らう
<『校本 宮沢賢治全集 第五巻』(筑摩書房)より>
だったのだ。
ただし、”昔は”の部分が白いパネルに書かれていたのか、それとも奥田が書き落としかは定かではないけれど。
いずれ、現在の河原坊の賢治詩碑(「山の晨明に関する童話風の構想」)が建つ前に、これとは別の賢治の詩(「河原坊(山脚の黎明)」)が書かれた白いパネルが建ててあったのだった。
続きの
”賢治と昔話(あるいは伝説)”へ移る。
前の
”花巻が燃えた日”に戻る。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
以前”「早池峰と賢治」展示館”で次のようなことを投稿したことがある。
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《7 『河原の坊』》(平成22年4月8日撮影)
<「早池峰と賢治」展示館展示パネルより>
の中央の部分の写真
《8 『昭和30年代の河原の坊周辺』》(平成22年4月8日撮影)
<「早池峰と賢治」展示館展示パネルより>
を抜き出すと、この2葉の写真の内の上の方の写真中央に『川原の坊』という白いパネルが見える。そしてその中に詩らしきものが不鮮明ながら見えるから、もしかすると深田久弥が『我が愛する山々』(深田久弥著、新潮社)で『河原ノ坊跡には、北上の詩人賢治の詩が掲げてあった』と書いていたのはこの白いパネルのことだったのかも知れない。冷静に読んでみると深田は何も賢治の詩碑があるなどとは書いておらず、詩が掲げてあったと書いているのだから、パネルに詩が書かれていたのであれば深田の表現に間違いはないことになる。
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ということで同展示館訪問後はこのことが気になっていた。それがたまたま昨日、このブログの先頭に掲げた『宮澤賢治の山旅』をたまたま読み返していたならばその中身が詳らかになったので報告する。
著者奥田はこの本の中の章「早池峰山」で次のように述べていた。
私が早池峰山に初めて登ったのは、昭和四十年(一九六五)八月九日とノートに記してある。夜行列車に乗り、バスを乗り継いで岳には朝八時七分着とある。暑く長い林道をひたすら歩いて、河原の坊までたどり着いた。そこで宮澤賢治の「河原坊」の木製の詩碑が建っていた。恥ずかしながら、宮澤賢治の詩といえば「雨ニモマケズ」しか知らなかった青年の自分は静かな、しかし衝撃的な出逢いだった。
こゝは河原の坊だけれども
曽ってはこゝに棲んでゐた坊さんは
真言か天台かわからない
とにかく谷がも少しこっちへ寄って
あゝいふ崖もあったのだらう
鳥がしきりに啼いてゐる
もう登らう
初めて出合ったこの詩に、感激したのだろうか。ノートにこの詩が写し記されている。
<『宮澤賢治の山旅』(奥田博著、東京新聞出版局)より>
と。
一方、深田久弥が大迫の岳を訪れたのは1960年(昭和35年)8月25日、河原坊には翌26日に行っているということだから、深田が見たものと奥田が昭和40年に見たものとは同一のもので、それはこの白いパネルと見なすことことが出来よう。
つまり、
1.当時は河原坊に『川原の坊』という白いパネルが建ててあった。
2.そこに書かれていた詩は「河原坊(山脚の黎明)」の最後の部分
こゝは河原の坊だけれども
曾ってはこゝに棲んでゐた坊さんは
真言か天台かわからない
とにかく昔は谷がも少しこっちへ寄って
あゝいふ崖もあったのだらう
鳥がしきりに啼いてゐる
もう登らう
<『校本 宮沢賢治全集 第五巻』(筑摩書房)より>
だったのだ。
ただし、”昔は”の部分が白いパネルに書かれていたのか、それとも奥田が書き落としかは定かではないけれど。
いずれ、現在の河原坊の賢治詩碑(「山の晨明に関する童話風の構想」)が建つ前に、これとは別の賢治の詩(「河原坊(山脚の黎明)」)が書かれた白いパネルが建ててあったのだった。
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