みちのくの山野草

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賢治関連七不思議(下根子桜からの撤退、#3)

2017-08-26 10:00:00 | 賢治に関する不思議
《驥北の野》(平成29年7月17日撮影)
 「逃避行」していた賢治
 ところで、昭和3年6月の賢治の上京は実は「東京への逃避行」だったという見方もあるという。それは例えば、佐藤竜一氏が自身の著書『宮沢賢治の東京』の中で主張していることなのだが、
  東京へ逃避行
 一九二八年六月八日夕方、賢治は水戸から東京に着いた。一年半ぶりである。…(筆者略)…
 東京に着いてすぐ書かれた(六月一〇日付)「高架線」という詩には、世相が表現されている。
「労農党は解散される」とあり、次のフレーズが続く。
  一千九百二十八年では
  みんながこんな不況のなかにありながら
  大へん元気に見えるのは
  これはあるいはごく古くから戒められた
  東洋風の倫理から
  解き放たれたためでないかと思はれまする
  ところがどうも
  その結末がひどいのです
 国家主義が台頭してきていた。その動きは当然、羅須地人協会の活動に影を落とした。このときの東京行きは、現実からの逃避行でもあったに違いない。…(筆者略)…
 伊藤七雄は日本労農党に属しており、賢治は活動に理解を示していたからふたりには接点があった。
             〈『宮沢賢治の東京』(佐藤竜一著、日本地域社会研究所)166p~〉
という見方である。

 たしかに、名須川溢男の論文「宮沢賢治について」によれば、
 (昭和2年の)夏頃、こいと言うので桜に行ったら玉菜(キャベツ)の手入をしていた、…(筆者略)…その頃、レーニンの『国家と革命』を教えてくれ、と言われ私なりに一時間ぐらい話をすれば、『こんどは俺がやる』と、交換に土壌学を賢治から教わったものだった。疲れればレコードを聞いたり、セロをかなでた。夏から秋にかけて読んでひとくぎりしたある夜おそく『どうもありがとう、ところで講義してもらったがこれはダメですね、日本に限ってこの思想による革命は起らない』と断定的に言い、『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町をまわった。(花巻市宮野目本館、川村尚三談、一九六七・八・一八)
            <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~>
ということであり、賢治と二人で交換授業をしたと証言している川村尚三なる人物がいて、この川村は当時労農党稗和支部の実質的な代表者であったという<*1>。
 また、「賢治研究」39号には小原忠の論考「ポラーノの広場とポランの広場」が載っていて、次のようなことが述べられていた。
   四、警察署
 次の次の日、警察署から出頭命令がキューストに来る。その日付は
  一九二七年六月廿九日
とある。昭和二年のことである。
 私は丁度この日付の頃「桜」に賢治の家を訪れたことがある。家には居られず川原の畑で草取りをしていた。この日はどういうわけか非常に機嫌が悪く興奮していた。こんな取り乱した姿を後にも先にも見たことがない。私の用向きに対しては耳を貸さず「いま、それどころの話ではないんだ。私は警察に引っ張られるかもしれない。」と言った。私は、それは単なる尋問なのか勾留なのかと問い返すこともできないくらいにものすごい剣幕であった。
              <『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)3p~より>
 よってこの二人の論考によって、この「いま、それどころの話ではないんだ。私は警察に引っ張られるかもしれない」という賢治の発言が事実であったとすれば、まして教え子の小原をして「こんな取り乱した姿を後にも先にも見たことがない」と言わしめているくらいだから、昭和2年の夏頃の賢治は思想上問題があると官憲からかなりマークされていたであろうことは明かだろうし、賢治はそのように警察から思われてしまうような活動をその頃も行っていたということもまた明らかだろう。

 そうすると、先の佐藤氏の引用文によれば、伊藤七雄は当時労農党員であったということでもあるし、実際、あの人間機関車浅沼稲次郎や加藤堪十たちと一緒に写っている集合写真も残っているから、賢治はこのような労農党の幹部等とかなり親交があったと言えそうなので、賢治は労農党の単なるシンパであったというよりはそれ以上の存在だったと考えた方が自然だろう。
 それは当時の労農党盛岡支部役員小館長右衛門の次のような証言、
「宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。…(筆者略)…いずれにしろ労農党稗和支部の事務所を開設させて、その運営費を八重樫賢師を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった」(S45・6・21採録)
            〈『鑑賞現代日本文学⑬宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)265p~〉
の、とりわけ、「実質的な中心人物だった」という証言からも裏付けられるだろう。

 そういえばこの昭和3年とは、3月15日にはあの「三・一五事件」が起きて共産党員が一斉検挙され、労農党等も捜索されたというし、4月11日には同事件及び労農党等の解散命令が報道されたという年だ。となれば、前に述べたような「存在」であった賢治は6月に岩手から一時逃避したということは十分にあり得る。さらには、草野心平が『太平洋詩人』二巻三号(昭和2年3月)において、『(賢治は)岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが』と述べていることは周知のとおりであり、当時の賢治は少なくとも一部の人からはそう見られていたということ、逆に言えば賢治は当時官憲から厳しいマークを受けていたことはほぼ疑いようがない。

 さらには、鳥山敏子が梅野健造に対して、
 さて、昭和3年4月10日、労農党本部・全国支部が政府から解散命令を受けたが、その時に羅須地人協会の賢治も取調べを受けたのか。
と質問したところ、
 私(梅野)は花巻警察署留置所に40何日間程入った。私はいろいろ読んだり書いたり、やったりしたもんだからね、警察にすっかり睨まれてしまってな、警察からいえば重要人物だ私は。警察からいえばな。それで2~3日で帰される人も多かったんだけどもね。私は別に共産党員でもなければ共産主義者でもないんだよ。ないけども警察はだね危険人物と見たんだろう 私をね。別に何も調べもせずに40何日というものを暮らしたわけだ留置所で。
 だからそういう事件で宮澤さんも2~3日警察に呼ばれてね。それは労農党の支部にねいろいろな面倒を見たという風なこともあるわけだよ。警察にね睨まれたいうのもそんなわけだよ。
 労農党というのはね、農村の救済ということをね緊急政策としてね発表したもんだからね。とてもひどかったんだ、その当時の不景気でね。それに対して労農党が緊急政策を出し、農村の救済というかな、主張したもんだから、だから宮澤さんは大いにそれに期待したわけだな。そこで労農党に対していろいろな援助をしていたというのもその辺にあるわけだよ。
 羅須地人協会に青年たちを集めてねいろいろ話をしたりすること以外にね、そういうことをやったもんだからね睨まれてしまったわけだな。2回か3回、3回だろうな、呼ばれた。そういう関係で羅須地人協会も解散したわけだ。 
 私が45日入れられて帰ってきたら、その時宮澤さんは病気だったわな。そして豊沢町の自宅でね病気療養中だったんだ。だけれどもね私を訪ねてくれたよ。夜、私のところに。私が出てきてから何日かたった12月だったな、12月半ば頃だったろうかな、宮澤さんが訪ねてきたの。病気療養中のところをね、夜。そして玄関先で5~6分ねお話をして別れた。大変でしたねって、私にねいたわりの言葉を述べられてね、そしてお金をいくらか、お金をもらったな。
            <『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』(制作 鳥山敏子 小泉修吉 NPO法人東京賢治の学校)の中のDVD「その4 イギリス海岸」(梅野健造)より>
と答えていたから、
    「羅須地人協会時代」の賢治は何度か警察から取調べを受けていた。
ということはほぼ間違いいなさそうだ。

 となれば、当時の厳しい警察からの厳しい追及から逃れるために賢治がふるさとを離れて「逃避行」をしたということは充分にありうることだ。これがもし「逃避行」でなかったとするならば、この時の上京によって賢治は農繁期に半月以上もの期間花巻を留守にしてしまったのだから、帰花後賢治はそのことを気に掛けながら、早速周辺の農家の水稲の生育状況等を大車輪で見廻っていたはずだ。ところが前回触れたように、賢治は花巻に戻ってからも約10日間ほどをぼんやりと無為に過ごしていたと言える。したがって、昭和3年の賢治は農繁期に半月以上もの間上京していて花巻を留守にしていたから、結局その農繁期に稲作指導等をまったくしない計約一ヶ月間もの空白を作ってしまっていたことになる。この点からいっても、佐藤氏の「東京への逃避行」だったという見方はたしかに頷ける。しかもこの時期、当時の賢治は高瀬露との関係でトラブルを抱えていたからそこからも逃げ出したかったという可能性も否定できないので、「東京への逃避行」はなおさらにあり得た。

 そして、巷間、昭和和3年6月の農繁期の上京の主たる「目的」は、伊藤七雄の大島農芸学校設立への助言あるいは伊藤ちゑとの見合いのための「大島行」といわれているようだが、それであれば「大島行」が終わったならば、この時期花巻では「猫の手も借りたい」といわれる田植え等の農繁期だから、農聖とも言われている賢治であるならばそのことが気掛かりなので「大島行」を終えたなら即帰花したと思いきや、「浮世絵鑑賞」そして何より連日のように観劇に出かけていたり、図書館通い<*2>をしたりしていたから、ますます「逃避行」であったという蓋然性が高まる。ちなみに、賢治が後程澤里武治にあてた書簡(243)の中で「…六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず…」と書いているということだったから、その様な観劇等をしていたということをこれは裏付けているからなおさらにである。

 したがって、この時の上京は実は「逃避行」であったという主張はあながち否定できないどころか、それは充分にあり得るということが解って来た。どうやら、賢治は下根子桜の生活に心も体もそろそろ「折れ」始めていたのかもしれない。このようなことを、昭和3年6月の農繁期における「約三週間ほど」の上京は教えてくれる。

 どうもこの頃の賢治はかつてのような賢治ではもはやなくなっていたようで、下根子桜からの撤退は既にこの頃から実質的に始まっていたのかもしれない。

<*1:註> 名須川溢男は同論文「宮沢賢治について」において、
 昭和二年(一九二七)労農党稗貫(ママ)支部は、二十歳前後の若者たちで結成された。…(略)…支部長には泉国三郎がなったが、花巻にはあまりいないので実質中心になったのが川村尚三であった。
           <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)219p~>
ということも述べている。
<*2:註> 土岐 泰氏の論文「賢治の『MEMO FLORA手帳』解析」」〈『弘前・宮沢賢治研究会誌 第8号』(宮城一男編集、弘前・宮沢賢治研究会)所収〉によれば、同氏は、『MEMO FLORA手帳』の使用時期は昭和三年六月八日~二十二日までの間、と判断を下している。つまり、「大島行」を含む昭和3年6月の滞京中に使われたと判断していることになる。
 さて次にその手帳の中身、使用状況と内容だが、同論文によれば、
A(手帳本体)
 1~12p :植物の学名列挙と一部説明
 51p  :植物の学名と和名列挙
 55~62p:植物の学名・和名列挙と一部説明
 82~88p:『BRITISHU FLORAL DECORATION』よりの抜粋筆写他
 90~91p:『BRITISHU FLORAL DECORATION』よりの抜粋筆写
 101~102p:著者名、洋書名、旧帝国図書館の請求番号
 104p  :日記風簡略メモ
B(挟み込み手帳断片)
 1~4p :植物の学名列挙と一部説明
C(挟み込み手帳断片)
 1~2p ::『BRITISHU FLORAL DECORATION』よりの抜粋スケッチと植物の学名

となっており、この手帳の総ページ数は110頁だが、使用している頁の合計は39pであるともいう。

 また土岐氏は、同論文では特に、
    『BRITISHU FLORAL DECORATION』よりの原文抜粋筆写及び写真のスケッチ
について原典との照応を試みたと述べていて、同論文の「第三章『MEMO FLORA手帳』と『BRITISHU FLORAL DECORATION』との照応」において、それを詳述している。具体的には、次のようなそれぞれの照応について原典と比較検討している。
  手帳          原著
  A82pスケッチ  ⇔ 5p白黒写真
   83p       ⇔ 17p
   85pスケッチ  ⇔ 20p白黒写真
   86・87pスケッチ ⇔ 33pカラー写真
   88pスケッチ  ⇔ 37p白黒写真
   90・91p     ⇔ 183p
  C 1p       ⇔ 13p白黒写真
  C 2p       ⇔ 16pカラー写真
 その原典と写真のスケッチを同論文において実際に見比べてみると、なかなか賢治のスケッチが上手くて感心する。また一方で、昨今はコピー機があるからこのようなことをせずともあっという間に原典のコピーができるからありがたいことだと思いつつも、このようなスケッチ等にかなりの手間と時間を要したであろうということもまた想像に難くない。

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