みちのくの山野草

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外山御料牧場跡地(5/3)

2016-05-06 08:30:00 | 賢治関連
 小本街道(国道455号線)を走っていたならば、前回は見落としてしまったようだが、
《1 こんな場所があった》(平成28年5月3日撮影)

ここを右折すればこの道は「蛇塚農道」だということらしいし、
《2 「外山御料牧場跡地」まで500mという案内》(平成28年5月3日撮影)

もあった。私はその「蛇塚」という名に惹かれて右折し、そこを目指して車を走らせた。以前どこかで「蛇塚」という地名を賢治絡みで見たことがあったからだ。
 どうやら、
《3 ここがその跡地らしい》(平成28年5月3日撮影)

 そこには、
《4 開拓の碑》(平成28年5月3日撮影)

《5 小さな祠》(平成28年5月3日撮影)

などもあり、
《6 こんな景が拡がっていた》(平成28年5月3日撮影)

《7 》(平成28年5月3日撮影)

《8 疎らに花が咲いているコブシの木の向こうに見える車は》(平成28年5月3日撮影)

《9 あのかつての日産サニーのようだ》(平成28年5月3日撮影)

それこそ、かつて賢治の甥が私たちを前にして、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いた約半世紀前、その頃にもてはやされた車だったはずだ。懐かしすぎる。
 なお、下図が当時の
【外山御料牧場略図】

              <『外山御料牧場沿革誌』(近代デジタルライブラリー)より>
であるという。池上雄三氏によれば、
 明治九年、岩手県によって外山牧場が開かれ、明治二十四年から、宮内省のもとで御料牧場が営まれた。御料牧場は外山の蛇塚に本部を置き、一万町歩を越える広大な山野を占め、数頭の種馬と百数数十頭の雌馬を飼って良馬の繁殖につとめていた。
              <『宮沢賢治 心象スケッチを読む』(池上雄三著、雄山閣)178pより>
ということであり、その牧場を賢治は大正四年(盛岡高等農林一年の一学期)に訪れていたという。そうだった、頭の隅に残っていた「蛇塚」とはこの蛇塚のことだった。

 そういえば、外山御料牧場を訪れていたといえば、佐伯郁郎もたしか当時ここを訪れていたはずだ。
 具体的には、佐伯研二編の『佐伯郁郎と昭和初期の詩人たち』によれば、
 佐伯の「農民文芸会」に於ける実質的な活動期間は、大正十四年から昭和三年六月までの間である。この間、機関誌『農民』『地上楽園』『女性文化』『家の光』『野菊』等に詩、評論を寄せ、大正十五年七月十五<ママ>日には、白鳥省吾、犬田卯と共に東北への宣伝を兼ね来盛。六日町の「仏教会館」にて啄木会主催の講演会を開催している。この講演会は、花巻、釜石でも開催の予定であったが、主催者側の不手際と、白鳥省吾の急用で実現されなかったとある。佐伯は、その四日後の同月二十九日から、外山牧場にて一ヶ月ほど過ごして同月十月刊行の『農民文芸十六講』の「農民詩・民謡」を執筆する。
とあった。

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