三砂ちづる著 「オニババ化する女たち」副題に、「女性の身体性を取り戻す」とある。
女性と男性では、女性には子供を産むという大きな違いがある。ここで女性が自分の身体に対し、もっと向き合わなくてはならないことを赤裸々に語るのである。
神社は女性の性の象徴が建物になったものという話があるという。鳥居は入り口で、参道は産道、お宮は子宮で、鳥居をくぐって入るお神輿は精子ですと。子供を産むということは崇高なことなのである。そして、産み育てるということに比べたら、その他のことはものすごい些末事だというのである。
理想ばかり追いかけても、人生は思い通りにならない。人生なんでも思い通りになるのなら「死」や「次の世代への交替」を、受け入れられない。特に結婚とか、子供を産むとか、誰かと一緒に住むというのは、全部「思い通りにならないこと」を、学ぶことだ。それを学ぶ良い機会が、結婚と子育て。
そういえば、若い人が、夫と結婚したのであって、その親と結婚したわけではないから、同居したくないという。結婚というのは、親や親戚、兄弟とも関わりを持つことなのだと思う。そのことに腹をくくらなくては、私のように夫を亡くした後、姑と暮らすことは無理であろう。お互いに、少しずつ思い通りにならないところを譲り合い、あきらめ仲良く暮らす努力をする。
さて、オニババの話はどこかというと、いくつになっても、自分のことばかり言っている年寄りというのが増えたという。自分が認められてこなかった場合そうなるのだそうだ。
自分が受け止められている意識のない人は、ついいろいろ言ってしまう。そして、人を管理しようとさえしてしまう。人が人を管理するのは、受けとめるということとは全く逆のこと。
受けとめられてこなかった年寄りはしがみついて自分の欲しか見えない。自分はもういいから、次の世代の人たちに世の中を渡していこうと、すっと気持ちよく老いていくことができないのだという。
わたしは、次の世代へ全部渡してしまいたいがなあ。大会の準備をしながら、何年も同じ仕事をしているなあと思う。引き継いでくれる若者は忙しい。けれど、何かと仕事があるから連帯感もあるんだろうとも思う。
オニババにならないように、にこやかにゆったりとしていたい。
http://www.nhk.or.jp/tokuho/program/131206.html
一例
>女性が母を重く感じるようになったのは8年前。
結婚し子どもが生まれると、母は自分がしたのと同じ完璧な子育てを求め、口を出して来ました。
「保育園に預けるのはかわいそう」
「宿題は毎日見てあげないと」
3歳ぐらいで保育園に出すのが普通の加賀では滅多にこんな人いないかもしれませんが都会のニュータウンではこういうの多いみたいです。
これとはまたちょっと違うけど、私の母と伯母も一種の「毒親」だったかも。私の母は死んでいませんけど、伯母はまだ生きてますが(従兄弟はどう思ってるか知らないが・・・)。
毒親も読んでみたいですね。
ちょい興味深いです。
わたしは何親だろうか。