読書感想とロードバイク日記2

週末のお天気の日にロードで走っています。晴耕雨読ならぬ、晴れたらバイク、雨の日は読書の日々

「明治維新という過ち」

2016年07月13日 | 日記
原田伊織(毎日ワンズ)

副題が、「日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」
結構、刺激的なタイトルだが『キワモノ』本ではない。しっかり調べ書かれていると思う。
歴史は勝者の「歴史」という側面があるのは仕方ないが、こうまで現代で通用しているといつのまにやら『真実』として流布、小中学校だってそのままおしえられる。中国共産党が、自国の歴史を書き換えたって仕方ない面はある。
それにしても、いつのまにやら「通説」化した長州版近代史。よく考えると『明治維新』あたりの史実とやらの胡散臭さ、丹念に事実を追いかけたら本書のような結論になるのでしょうね。会津における官軍の虐殺など(死体の埋葬を半年以上許可しなかったり、支配した官軍の兵隊の乱暴狼藉強姦など)悲惨を究める。これでは会津の人たちは終生長州を嫌うだろうと思える。
罪つくりなのは司馬遼太郎の「坂本竜馬」だ。本名は「龍」だが小説だから「竜」にしたらしいが、ほとんど史実と思われ流布し、大河ドラマもこの風潮に追い風だ。

編集者の内容紹介がある。
『□『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』
書名からはスキャンダラスな印象を受ける読者もおられるかもしれないが、底流にあるものは史実を重んじる精神と、倫理観を重視して歴史を読み直そうとする著者独特の視座である。
 日本の近代を開いた明治維新-著者は、日本近代史の大前提となっているこの視点に異議を申し立てる。そして、明治維新を成し遂げたとされている著名な事件、事象の実相を詳しく整理し、幕末動乱の一連のムーブメントを狂信的原理主義によるテロリズムであったと説く。そのテロ行為の実態をもつぶさに列挙し、これまで語られてきた麗しい「明治維新物語」を明快に否定する。たとえば、「吉田松陰」は長州軍閥・山県有朋が創作した虚像だった、といったように…。
 この視点は、明らかに現代の公教育と真っ向から対立するが、それについても「我々は薩長がでっち上げた官軍教育のウソにいい加減気づくべきであろう」と舌鋒(ぜっぽう)は鋭い。
 特筆すべき点は、歴史解釈に長い時間軸を引く必要性を強調し、明治維新を、その後の昭和、平成に至る歴史と同じ時間軸に乗せて、「薩長のテロ革命さえなかったならば、日本が大東亜戦争に突入することはなかったであろう」と断じている点である。
 長州勢力の東北列藩に対する残虐行為にまで詳細に触れ、倫理観を殊更重視して語る著者のいちずともいえる筆致は、曖昧さの支配する現代社会に生きる私たちには鮮烈なインパクトを与える。著者の執念を感じさせる力作である。(毎日ワンズ・1500円+税)
 毎日ワンズ編集長 祖山大』

歴史は分からない。常に批判的視点は持ちたい。
戦争したら負けてはいけないですね。それにしても戊辰戦争はやらなくてもよかった戦争と思える。
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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2019-02-07 13:02:40
会津観光史学Q&A

Q会津観光史学って何ですか?
A会津を独善的に正義の被害者と位置づけ、薩長土肥を何の証拠もないのに悪の加害者だと位置づける中国や韓国の反日政策に類似した被害者商法です。

Q会津恨文化ってなんですか?
A会津観光史学をベースに土着した日本で唯一、会津地方のみに根付いてる文化です。

Q会津が京都守護職に就いたのは、会津が誠実で正義感溢れる土地柄だったからというのは本当ですか?
A嘘です。まず、京都守護職に推されていたのは福井です。天皇が直々に指名しただのなんだのは会津観光史学による誇張です。そもそも何を根拠に任命した側が、会津=正義感があり、誠実だと判断したのか不明です。どこにもそのような史料はありません。

Q会津は京都守護職に就いて何をしましたか?天皇を護っていたというのは本当ですか?
A会津は新撰組などを使って志士の惨殺を行ったり、新撰組の内ゲバ(芹沢鴨等の殺害等)を内密に処理したりしていました。会津は天皇を護っていたのではなく、新撰組などを使い、京都の市街地を警備してたに過ぎません。天皇の身辺を警護してたわけではありません。会津観光史学による誇張です。

Q池田屋騒動は天皇を拉致する山口の企てであり、その企てをキャッチした新撰組が成敗したというのは本当ですか?
A嘘です。まず新選組は、そのような情報をキャッチしてはいません。たまたま発見した会合であると新撰組の永倉の手記に記されています。山口の木戸の日記にも、新選組に捕縛されている滋賀の古高を救うために集まった会合だと記されています。経緯は以下の通りです。屋敷に武器を隠していた古高が新撰組に捕縛され天皇を山口に連れ去る画策を尋問されますが、古高が否定したので、新撰組の土方が五寸釘を使い古高に拷問を加えます。逆さづりにされ、脚を五寸釘で刺しまくられた古高は拷問に絶えかね天皇の拉致計画を認めてしまいます。が、これは拷問自白ですので本当ではありません。天皇を山口に連れ去るという企ては、古高の拷問自白以外に明確な根拠は、幕府側にも尊攘側にもありません。直ぐに永倉が古高の自白通りに行動しますが、1人の浪士に出くわすこともなかったので、片っ端から旅籠を捜索してます。が、結局何も出てこないので諦めて帰ろうとした時に偶然池田屋に浪士が集結してるのを発見し、その後踏み込んでいます。池田屋と四国屋で張っていたというのも創作です。

Q会津が天皇と幕府の忠臣だというのは本当ですか?
A嘘です。まず、会津は公儀に近い大名領でありながら贋金を製作したりシナと密貿易を行っていました。次に会津は、徳川幕府が崩壊しそうになると、ドイツに対して国土(新潟・北海道)売却を条件に後ろ盾になるように打診しています。会津が天皇と幕府の忠臣だったという嘘は、会津観光史学以前の会津名誉回復運動から言われだした嘘です。

Q恭順を示してる会津に薩長がなだれ込み会津戦争になったのは本当ですか?
A嘘です。新政府は、奥羽・北越に対して和平交渉から入ってます。交渉に応じなかった地域が反政府として討伐されました。会津が恭順を示していたのは嘘で、前途でも述べた通り、ドイツに国土を売ってまで戦争しようとしたのは会津ですし、奥羽・北越の同盟も、戦争に躍起な会津・仙台等について行けない東北の小さな地域が次々に離脱しています。会津戦争は、新政府との和平を蹴った会津から白河や今市に侵攻して勃発しています。

Q会津戦争では薩長が蛮行を働いたといわれてますが本当ですか?
A嘘です。鹿児島・山口が蛮行を働いたという史料はありません。あるのは会津系作家や会津贔屓でアンチ薩長の作家の著作物だけです。逆に会津の蛮行は、北関東・東北・北越・道南の史料に掲載されていますし、外国人の報告書にも会津兵による蛮行が記されています。また、会津を討伐したのは、鹿児島・高知を主力に新政府に恭順した東北の地域です。山口は北越に主力を送っています。

Q白虎隊士中二番隊の自刃は史実ですか?
A飯沼貞吉が老年の時に証言した以外に何の証拠もありません。

Q会津の家臣が斗南に行ったのは山口が決めたのですか?
A会津の家臣団のみで会議され会津の山川が決断しました。山口の木戸は、猪苗代を推していました。

Q斗南に行った会津家臣団は、復興に尽力し、鳩侍と恐れられていたのは本当ですか?
A嘘です。怠けてたので斗南の領民から馬鹿にされていました。そもそも恐れる対象に鳩を持ち出すでしょうか?拾い食いをしてたので鳩みたいだと軽視されていたのが史実です。

Q会津は名誉回復されましたか?
A明治政府によって回復されました。松平は華族になってますし、有能な人材も活躍の場が与えられ、斗南に行った家臣も2年で解放されています。また、松平の長男は山口の女性と結婚してます。本当に賊のままなら嫁がせないはずです。

Q会津戦争時の会津兵の死体は、見せしめに埋葬されなかったのですか?
A埋葬されました。会津兵埋葬禁止は会津観光史学による嘘です。歴史家の大山先生が論破してますし、会津若松の市役所などでも嘘だとしています。また、2008年に会津士族の判の手記が発見され、新政府に金銭を貰い死体を埋葬したと記されていました。そもそも残ってる史料には、どの死体にも触るなというものであり、会津兵の死体を放置せよなどとは記されていません。

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