鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 轟の滝まで その3 

2010-01-14 07:01:33 | Weblog
『日本の民俗 徳島』(第一法規)の金沢治さんによれば、徳島県の各河川(吉野川・那賀川・海部川など)の枝谷を上る山地をサンブン(山分)と言い、また南海岸沿い(阿南海岸)をミナミガタと言いました。「ミナミガタは自給自足が大正時代までも、持ち続けられ、道路ひとつみても車の通るような道は海部郡などでは大正になって通じたありさまで、しぜん同族だけの社会構成がつづいた」とありますが、事情はサンブンも同様で、車が通れる道ができたのは、もっと後のことであったようだ。長い間、川沿いの絶壁をなしているところは、人が安心して通れるような道はなかったのです。サンブンでは、山の急傾斜を切り開いて山畑を作っていましたが、平均耕作面積はきわめて少ない。林産業が長らく続いてきたものと思われ、木こりや木挽(こびき)、炭焼き、木地師、塗師(ぬし)などの生業があったようです。かつては車が通行できるような道はなく、したがって、奥山で伐採された木材の運搬は、小さく原木を切断して丸太にして、丸太流しにするか、あるいは筏(いかだ)流しにして、川の流れを利用するしかありませんでした。「吉野川も那賀川も海部川も自動車の通るようになるまで木材の運搬は大部分筏によって流下されていた」と金沢さんは記しています。道の険しい山道では、丸太や荷物などは肩や頭で運ぶしかなく、海部民俗圏では明治の末期までも、男女とも荷物を頭に乗せて運び、木材や米穀なども頭上で運んだという。「那賀郡木頭村木頭へ運ばれる海部川を遡上した物資は背負うか頭に乗せるかで、棒で担ぐことはあまりなかった。八〇キログラム位まで運んだ」ということで、「いただきさん」もそうですが、とくに女性は頭の上に竹駕籠を乗せて運ぶ場合が多かったようだ。その「いただきさん」については、同書にも詳しい記述がありました。それによると阿南海岸の漁村では農地がほとんどなく、そこで人々は物々交換のために船で買い出しに出る風習がありました。それが安永・天明の大飢饉の時に大坂へ海産乾物をもって女性が行商をしたのが「いただきさん」の始まりで、販路は次第に拡大して、最盛期には瀬戸内海・関東・北陸・甲信地方、西は九州・朝鮮・遼東半島にまで及んだとのこと。関東・北陸、さらには朝鮮や中国にも及んでいたというのは驚きです。大坂(阪)や兵庫の商人とのつながりは、その行商の関係で生まれたものであるでしょう。 . . . 本文を読む

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 轟の滝まで その2 

2010-01-13 06:47:22 | Weblog
奥浦から魚梁瀬の道中、兆民と山崎保太郎の二人だけかと思ったら、密偵はさておき、もう一人同行者がいました。それがわかるのは、次の文章。「此日(このひ)の行程中最も怖る可(べ)く最も険峻なるシバコ山の上りたての処に於て余山崎並(なら)に一担夫三人杉根に腰打ち掛けて喫煙し前路の険を凌ぐ為め予(あらかじ)め勇を養へり」。兆民と山崎保太郎ともう一人、荷物を運ぶ男がいたことになります。この文章で出てくる「シバコ山」。これが阿波と土佐の境界になっている山で、この山を越えて下れば魚梁瀬に至るわけですが、今の地図上にはこの名前の山は載っていないように思われます。島村さんの考証では、「シバコ山」は「柴木屋山」と書き、魚梁瀬の北東にある山であるらしい。魚梁瀬側の東川の上流で、しかも轟の滝のあたりから山へ登って行ったとなると、轟の滝から山の稜線に出て、金瀬(1147.3m)→湯桶山(1372.0m)を経て、東川源流に下って行ったことになりますが、ではその「柴木屋山」というのはどのあたりにあるのだろう。私は今回確かめることはできませんでしたが、湯桶丸からその南方貧田丸(1018.5m)の間の稜線のどこかに「シバコ山」というのがあったと考えました。かつて人々は山は頂上(点)ではなく、山林(面)で見たことを考えると、西側の空と稜線が接する山全体を「シバコ山」と呼んだのかも知れない。土地の人々が分け入って、薪(たきぎ)としての「柴」をとる山でもあったのでしょう。『日本の民俗 徳島』(第一法規)によれば、阿波の土佐と接する山間地帯を「サンブン(山分)」といったようです。このあたりの川沿いは絶壁をなして人の通れるような整備された道はもともとなかったらしい。その理由の一つは絶壁のために造り難いということがまずありますが、藩としても幕末に至るまで自給自足を推奨し、農民の旅行や職場の移動や物資の交易を極力抑えようとしたことも理由の一つに挙げられるようです。山林は全部藩有林で一寸の私有も認められませんでした。明治になって初めて山林は民有地として解放されましたが、道路もない奥山なので、地主は現地の住民に森林の手入れや管理を依頼。これを「ヤマバン(山番)」といったという。木こりは深い山での作業が多いので「ヤマゴヤ(山小屋)」をつくって、作業中は数ヶ月に渡って家族と別居して過ごすこともあったということです。 . . . 本文を読む

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 轟の滝まで その1 

2010-01-12 07:31:12 | Weblog
兆民は、肥後(熊本県)の三太郎峠、大和(奈良県)の多武峰、土佐(高知県)の北山・黒森(四国山脈)などを今まで越えたことがありました。確かに大変な道ではあるけれども、それなりに道と言えるものでした。ところが阿波(徳島県)の奥浦から土佐(高知県)の魚梁瀬(やなせ)へ至る道、とくに阿波の相川(あいかわ)というところより先の道は、道ということができるような道ではありませんでした。ここで兆民は、「土佐奈半利川の上流」としていますが、ここはやはり海部川の上流、ないし海部川の支流である相川という川の上流ということになるでしょう。この道を行く者は、川の上流のカーブの連続にしたがって、川をどんどんさかのぼり、右より左へと何度も川の流れを渡り(川を徒歩で歩いて渡る)、あるいは川の流れのままにその流れをさかのぼり、あるいは深い淵になって歩いていくことができないところに至れば、川に臨む崖によじ登って、崖に生えている樹木の枝を両手で握って足場を確保し、慎重に歩いていかなければ深い淵に落下してしまうといった道。また坂道は、木こりや木挽(こびき)、または土地の荷担ぎが通った足跡や脱ぎ捨てた草鞋(わらじ)を目当てに登っていくような道で、その途中に大木の根っこや岩が高くそびえているとそれを迂回するような道はなく、仕様がなく、それをよっこらしょとよじ登っていくしかない。そういうことを何度も繰り返すことになります。その坂道の勾配ははしごを直立したかのようなところがところどころにあり、また崖の中腹に長さ2、3間(4~5mほど)の丸太が架けられていて、そのはるか下にゴウゴウと急流が流れているというところもある。つまり、兆民と山崎保太郎はそういう道を歩いていったのであり、その兆民の体験記録はなまなましい。兆民にとってはいまだかつて経験したこともない道でしたが、山崎保太郎や山崎唯次にとっては、魚梁瀬から阿波方面に出る場合、あたりまえの道であったと思われます。現に保太郎はこの道を通って浅川にいる兆民を迎えに来たのであり、唯次も一日遅れてこの道を魚梁瀬へと向かったのです。しかしいつもと異なるのは、川の水かさが増えており、また長く続いた台風による風雨のために、道なき道は濡れて滑りやすく、また倒木や落下した枝が散乱していたであろうということです。浴衣に麦藁帽子、そして草鞋履きの兆民は、必死に歩かざるをえませんでした。 . . . 本文を読む

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 奥浦 その2 

2010-01-11 07:38:44 | Weblog
7月27日の朝、兆民と山崎保太郎は、奥浦の宿を魚梁瀬に向けて出発します。海部(かいふ)川に沿って上流へと遡(さかのぼ)って行くのですが、その道中、二人の先になり、あるいは後になって歩いている男がいました。この男は5,6日前、すなわち兆民一行が奥浦に到着した頃から、兆民が1,2度見掛けた人物でした。風雨が小止みになった時、兆民は付近を散歩していますが、その時にでも見掛けたのかも知れない。その男は、浴衣(ゆかた)に兵児帯(へこおび)を結び、手にカバン(革袋)を提げていました。この男もずっと奥浦のどこか、兆民たちとは別の旅館に宿泊していたのでしょう。この魚梁瀬へと向かう海部川沿いの「険悪」な道を利用する人は、木こりか木挽(こびき)かあるいは木こり小屋へ米や塩を運ぶ男や女たち。浴衣や兵児帯、そしてカバンといういでたちは、このあたりでは「紳士」のいでたちと言わざるをえない。ところがその「紳士」然とした男が、このような木こりたちが利用する道を歩いている。「この紳士はいったいどこへ旅行するのだろう」と兆民は訝(いぶか)ります。兆民はこの旅行以前にもしばしば旅行をしていますが、その際にはいつもこの種の「紳士」と同行する羽目になっています。兆民は「何か官用の為めなる可(べ)し」と記していますが、この男も、兆民が先刻から承知しているように「密偵」でした。つまり兆民の動向を探るために、おそらく土地の警察署から命じられた、その探索を任務とする警官(官憲)の一人であったと思われます。もちろんその土地独自の調査ではなく、中央から指令が来て、兆民が行く先々で探索が行われたのです。どこに泊まり、どういう人々と接触し、どういう人々を訪ね、どういう話をしたか。そういったことについて逐一探索し、それを上に報告するのです。その「紳士」が携帯するカバンの中には、探索結果をまとめるための帳面や筆記用具などが入っていたことでしょう。兆民は明治15年(1882年)の秋から翌年の春にかけて、出版社の設立とその同志の募集と称して四国から九州へと旅をしていますが、この時も政府密偵が兆民の動静を探っており、それらは「自由党挙動探聞」・「機密探偵書」といった形でまとめられているのです。密偵が付いたのは兆民ばかりではありませんが、自由民権運動に大きな思想的影響を持つ兆民は、明治政府にとって要注意人物の一人であったのです。 . . . 本文を読む

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 奥浦 その1 

2010-01-10 06:25:48 | Weblog
兆民の「阿土紀游」に戻ります。兆民と山崎唯次、そしておそらく山崎保太郎の3人は、明治21年(1888年)の7月22日の午前11時頃、浅川浦の木賃宿を出立し、浅川より南方一里ばかりの奥浦へ向かいました。その朝9時になって風雨はいったんおさまっていましたが、途中よりふたたび風雨となり、奥浦に到着した頃にはその風雨はますます激しくなり、その後激しい風雨はずっと続きました。翌23日はやや風雨が鎮まったので、朝食後、兆民は付近を散歩。海部(かいふ)川を見てみると、昨日はほんの足首まで浸かって渡った海部(かいふ)川は、怒涛のような流れとなって両岸に溢れるほどであり、もし船があったとしても渡ることができるような状態ではない。海部川の上流を越えなければ魚梁瀬(やなせ)への山越えはできず、おそらく3人は相談の結果、海部川の流れがおさまるまで奥浦に滞在することに決めたようです。唯次も保太郎も、水かさを増した川を渡ることの危険は十分に承知していたはずです。翌24日は風雨が止んだり、また吹いたりの状態。酒を飲んでも飯を食べても、肴(さかな)やおかずは、塩の塊りを食べるかと思うほどの干し魚ばかり。本を読もうと思っても、宿には、天保年間に出版された絵本草双紙の類があるばかり。出発しようと思っても海部川の水かさは依然変わらず、出発できるような状態ではない。さすがの兆民も退屈を覚えます(「怠屈(たいくつ)言はんかた無し」)。翌日の25日も、そして26日も同じ状態で奥浦の宿に滞在。「怠屈益々甚し」と兆民は記しています。やっと27日になって風が止み、雨が上がりました。山崎唯次は用事があってなお一日、奥浦に滞在することとなり、兆民は山崎保太郎(仏学塾での旧門下生・魚梁瀬より兆民と唯次を迎えに来た)とともに、やっと奥浦の宿を出立することに。海部川沿いにその上流へと歩いていくことになったのですが、それから魚梁瀬までの道の険悪さは言語を絶するものでした(「魚梁瀬村に赴く此間道路の険悪なること言語に絶へたり」)。これほどの「険悪」な道を歩いた経験は、兆民の一生の中でも、この時をおいてほかには無かったと思われます。 . . . 本文を読む

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 浅川まで その5 

2010-01-09 07:05:59 | Weblog
かつて阿波の「いただきさん」という女の人たちがいた。頭の上にかごをのせて、その中にワカメや昆布などを入れて運び商いをする人たちのこと。かごは竹で編んだものでかなり大きいものだという。深さは約37cm、口径約47cm、胴回り最大2m。底は長方形になっており、重さは約2kg。頭当ては布製で、ドーナッツ型(『子ども日本風土記 徳島』〔岩崎書店〕による。以下同じ)。この「いただきさん」のふるさとは、由岐町阿部(あぶ)。由岐から海岸沿いに北東方向にある小さな漁村。今回の取材旅行では由岐の港へは行きましたが、阿部には足を伸ばしていません。この「いただきさん」の起こりは江戸の末期。明治、大正の全盛期を経て、昭和の初め頃まで盛んであったとのこと。その行商の範囲は、驚くべきことに、関東から中部(特に長野県)、近畿、中国、四国、九州と、かなり広い範囲にまたがっていました。竹かごの中には普通30kgぐらいの品物、たとえば昆布(トロロ昆布・ダシコブ)やアマノリ、ワカメ、ヒジキなどの海草類を入れました。鮮魚ではなく乾燥した海草類を入れたのです。この『子ども日本風土記 徳島』には常陸(ひたち)ウメノさんという女性が紹介されていますが、それによると、ウメノさんが「いただきさん」になったのは16歳の時。このウメノさんの場合、お得意先は、鳴門市、板野郡、名東(みょうどう)郡、名西(みょうざい)郡など阿波の「北方(きたがた)」と呼ばれる地方でした。夏場は土地でとれたワカメなどをもって盆の頃まで行商し、冬場は昆布を大阪で仕入れてきて、3月の節句の頃まで「北方」のお得意さんを回ったという。この大阪で仕入れた昆布とは、北海道から運ばれてきた昆布も含まれていたのではないか。売れればかなりの収入になり、もうけがあった時には「それはそれはごっついうれしかったもんだ」という。この阿波(阿部や伊座利)の「いただきさん」の行商範囲は、ウメノさんの場合は、徳島県の北部でしたが、場合によっては関東から九州までかなり広い範囲に及んでいたということは、先に触れた通りで、その場合、「いただきさん」たちがどういう経路をたどり、どういう所に泊まったのか、お得意さんの分布はどういうものであったのか、そしてどういう組織形態であったのか、等々、いろいろと興味深いところです。 . . . 本文を読む

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 浅川まで その4 

2010-01-08 07:13:04 | Weblog
兆民が漁船に乗り、宿をとった浅川浦や奥浦は、地域としては阿波の南方の海岸地帯で「阿南海岸」という。この阿南海岸で獲れる魚は磯魚が中心で、伊勢えびをねらうえび建網漁を中心に、いわし(ウルメ)、あじ、さばをとる八田網漁(定置網の一種)、延縄(はえなわ)漁、一本釣りを行っているという。獲れた魚は市場へ出し、売れ残ったものや売りものにならない魚が自家用となり、水揚げのある日はもちろん、漁がない日も、魚の干物(ひもの)や塩ものを食べるというふうに、食膳に魚がのぼらない日は一日もない、とも。獲った魚をおろすのは男の仕事。出刃包丁はいつでも使えるように常に研(と)いである。阿南海岸は岩礁の多い海で、あわび(くろあわび)の名産地であるという。夏のあわびの採取時期には、男も女も海に潜り、あわびばかりか、さざえ、ながれこ(とこぶし)もとる。いいものは売り、きずができた貝は売りものにならないので自家用として利用します。あわびの貝焼きやあわびのわた料理、さざえのつぼ焼きなどは、兆民も浅川浦や奥浦の宿で賞味したものであったに違いない。今回の取材旅行は冬であったので、あわびやさざえを利用した地方料理を食べてみることはできませんでした。海草を利用した料理として代表的なものは「ひじきの煮もの」。一年中のおかずとして一般的なもの。「もずくの酢の物」や「ところてん」もある。「ところてん」は、お茶のみ(お茶うけ)として、夏によく食べられたという。炎暑の候、冷たくのどごしのよい「ところてん」は、とてもおいしい。これも兆民は食べているかも知れない。あわびの採取期間は、7月から9月頃まで。あま漁法は、船で沖合いへ出て、岩礁地帯で船を停めて潜るのだという。阿南海岸の漁業は、各浦の数戸の網元を中心とする網漁で、浅川浦においても兆民が記しているように、漁業はすこぶる盛んであったようだ。夜、戻って来た漁船から、兆民たちは松魚(かつお)と紫錦鯛(しきんだい)を購入しています。そしてカツオの膾(なます)にしたものと、鮓(すし)にしたシキンダイを肴にして、浜辺で酒を酌み交わしています。伊勢えびの漁期は10月から5月頃までなので、兆民らは伊勢えびは食べていない。売りものの魚介類を行商して歩くのは女性たち。「いただきさん」といって、海産物などを入れた大きなかごを頭の上にのせて、各地を行商して歩いたという。 . . . 本文を読む

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 浅川まで その3 

2010-01-07 07:13:44 | Weblog
当時、大阪に住んでいた兆民の住所は曽根崎村2667番地。炎熱はなはだしいこの年(明治21年)の7月中旬、山崎唯次(兆民の旧門下生山崎保太郎の父)が訪ね、兆民と晩酌を交わしたのはこの曽根崎村の家であったでしょう。この年の6月から枢密院は憲法諮詢を開始。その枢密院が憲法諮詢を議了したのは7月13日〈6月18日より10日を使って19回の会議を開催〉のこと。この翌日の7月14日には、名古屋重罪裁判所は大阪事件の控訴審について判決を言い渡し、大井憲太郎・小林楠雄・新井章吾に対して、爆発物取締罰則違反等の罪でおのおの重懲役9年を言い渡しています。これら3名は、兆民にとってかねて親交の深い者たちでした。兆民がそこに登ったかどうかは確かめることはできませんが、「千日前」には当時「眺望閣」という5階建ての高楼が建っていました。この建物は六角形をしており、入口には「TSUBAUKAKU」とローマ字で記されたハイカラな看板が掲げられていました。場内では、呉服・小間物・家具・書籍・文具・菓子類などさまざまなものが売られていたという。東京でいえば「勧工場」(今のデパート)のようなものであったでしょう。ここの5階からは、大阪の全市街を眼下におさめることができたばかりか、河内・和泉・淡路の遠景も見晴るかすことができました。大阪湾や淡路島、晴れていれば四国の山々も見えたかも知れない。兆民が徳島に到着した7月19日、東京では山岡鉄舟が53歳で死去しています。勝海舟は炎暑の中、山岡鉄舟を見舞っていますが、この夏は東京も猛暑であったようです。7月21日の夜、接近してきた台風の影響で風雨が強くなり、浜に留めてあった多くの漁船が波を被って転覆するという出来事が浅川で起こりますが、翌22日の朝9時頃には風雨はいったんおさまりました。山崎唯次の知り合いである鉱山事業(浅川より一里ほど山に入った鉱山)に関係する2人(大阪人と阿波人)は、この浅川より徳島を経て大阪に向かいました。父とともに兆民先生が魚梁瀬に向かっているとの報を得た山崎保太郎が、おそらくこの日の午前か前日の夜までに、魚梁瀬から浅川に到着。22日の11時頃、兆民は、唯次そしておそらく保太郎とともに浅川浦の宿を出立し、正午頃に、一里ばかり南の奥浦というところに到着しました。しかし、途中より強い雨風となって、この奥浦の宿に足留めを食らうことになるのです。 . . . 本文を読む

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 浅川まで その2 

2010-01-06 07:13:31 | Weblog
浅川浦の木賃宿に入った兆民一行4人は、夜、砂浜に出ると、そこに莚(むしろ)を広げ、戻って来た漁船から松魚(カツオ)と紫錦鯛(シキンダイ)を購入。カツオは膾(なます)にし、シキンダイは鮓(すし)にして、それを肴(さかな)に酒を酌み交わし、夜の9時頃に宿に戻って就寝。当時、海部郡の南方のこの浅川浦は、漁業がたいへん盛んであった、と兆民は記しています。酔いが覚めて目覚めると、体全体に痒(かゆ)みが広がっていることに兆民は気付きます。知らず、体全体を両手でかきむしっていたのでしょう。その痒みは蚤と虱(しらみ)によるものでした。蚤や虱が、まるで胡麻を散じたように散らばっている蒲団の上に寝ていたのです。寝てから、そして今、次々と刺された痒みで、全身が熱を発したようになり、たまらず兆民は床から跳ね起きて、襦袢と腰巻姿のまま真夜中の砂浜に出て行ったのでした。他の3人は大丈夫だったのでしょうか。兆民が水平線上に上がる荘厳な日の出を見ている頃、その3人は寝ぼけ眼(まなこ)で起きて来ました。この日(7月21日)、山崎唯次と大阪人・阿波人の3人は、浅川浦から一里ほど離れた山奥の鉱山を見物しに行くということで、兆民も同行しました。体は痒みを抱えたままであったでしょう。山崎唯次ら3人の目的は、この鉱山見物にありました。鉱山に関わって何らかの利益に与かること(「射利」)、あるいは「一攫千金」が3人の目的でした。おそらく阿波人がその鉱山について詳しく、唯次とその知り合いの大阪人がそれに関わることになったのでしょう。その阿波人が誰か、そして大阪人が誰であるかはわからない。同行した兆民はその鉱山を見聞したはずですが、「別に記す可き件なし」と記し、それほど興味・関心は抱かなかったようだ。ただ、鉱山の坑道入口近辺の木々の上に、猿の大群が飛び回っているのが印象的であったようです。この日の夜より大きな台風が接近してきたようで、強い雨風となって海が荒れ、多くの漁船が沈没したことを兆民は聞いています。この台風による大風雨は26日まで続き、22日から27日まで、兆民と唯次、そして魚梁瀬(やなせ)より兆民先生を迎えに来た保太郎の3人は、浅川浦より一里ほど離れた奥浦の宿に足止めを食らうことになります。夏は、台風襲来のシーズン。兆民はその台風に遭遇することにより、旅の予定を大きく狂わすことになってしまったのです。 . . . 本文を読む

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 浅川まで その1 

2010-01-05 06:54:01 | Weblog
兆民を土佐安芸郡の魚梁瀬(やなせ)村に誘った山崎唯次(仏学塾の旧門下生である山崎保太郎の父)は、大阪にどうも鉱山開発の件でやって来たらしい。その年7月中旬のある夕刻、唯次は息子の恩師である兆民を訪ね、一緒に酒を飲みます。しかし、まるで蒸籠(せいろう=蒸し器)の中で対座して熱湯を飲むような浪花の真夏の夜の暑さ。その暑さに閉口している兆民を見て、唯次は、「私はこれから徳島に渡って、徳島から海岸に沿って奥浦というところまで赴き、そこから山を越えて魚梁瀬に戻ろうと思っています。魚梁瀬村は夏の暑い時であっても、都会の十月頃と同じくらい涼しいところ。渓流はきわめて清らかだし、あめのうおという魚がたくさんいて、そのおいしいこと。先生、どうですか。私といっしょに一度魚梁瀬にやって来ませんか」と誘ったのです。見知らぬ土地を訪ねることが好きで、土地のものを食べるのが好きな兆民は、一も二もなく同意。18日の夕刻、安治川河口の川口から汽船に乗り徳島に向かったのです。人力車で徳島から由岐浦に着いた兆民一行(4人)は、そこから漁船を雇って浅川浦に向かいました。漁船を漕ぐ船頭は二人。海岸に沿って船は進みました。この日(7月20日)は雲一つない快晴。真夏の太陽の強い陽射しが、容赦なく船の上の4人の頭上を照り付けます。海風は時折り吹いてはくるものの、太陽の熱を奪い去るほどのものではなく、兆民は麦藁(むぎわら)帽子は被っていましたが、露出していた胸や首まわり、両腕は強い陽射しを浴びて、半ばも行かないうちに日焼けをしてしまうほど。ところが唯次や大阪人や阿波人の3人は、みんな蝙蝠傘(こうもりがさ)を持っており、それを頭上にかざして全身を強い陽射しから覆うことができていました。二人の船頭が漕ぐ舟に、麦藁帽子の兆民と、黒い蝙蝠傘をさす3人の男が座っている情景です。ところがその3人でさえも「暑い、暑い」と訴える。それを見て兆民は笑って言いました。「あんたたちには射利(金儲け)の目的がある。私はただ魚梁瀬村の渓流とあめのうおのために、こんな大焦熱の苦境におちいることになってしまった。」兆民がそう言うと3人はみな大笑いをした、といったことが「阿土紀游」には記されています。兆民のひょうひょうとした人柄、そしてユーモアが感ぜられる場面。「射利の目的」とは、鉱山開発のことであり、その鉱山は浅川浦の山奥にあったようです。 . . . 本文を読む

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 由岐まで その2 

2010-01-04 06:24:03 | Weblog
島村三津夫さんの「魚梁瀬に来た兆民の道を訪ねて」によれば、島村さんは海南町役場の編纂室にあった明治3年(1870年)に阿波藩が作製したという地図で、兆民が、相川の下大内より北へ峠越しに入り、奈半利川の水源になる支流を通り、魚梁瀬の東に位置する貧田丸越えではなく、北東にあるシバコ山越えに東川、そして魚梁瀬に入ったらしいことを知りました。明治3年の地図においては、海部川の支流である相川の上流、皆津の奥は行き止まりで、貧田丸を越えて魚梁瀬に出る道は存在せず、下大内より轟(とどろき)の滝に至る道は確かに存在し、かつては下大内越えの峠に茶屋まであったということを、島村さんは知るに至りました。しかし、その下大内から峠越えの道(かつて峠に茶屋があった道)は、現在(平成6年)は熊笹が生い茂って通行不能の状態だという。浅川→相川→下大内→轟ノ滝→影地山→シバコ山→東川→魚梁瀬、というルートが、どうも兆民と山崎保太郎の二人がたどった道であるようだ、ということが島村さんの記述からわかってきました。ということで、私が旅行前に立てたルート(車利用)は、由岐→浅川→奥浦→相川→下大内→少し戻って左折→轟ノ滝→少し戻って右折→林道(県境越え)→東川林道→魚梁瀬→馬路→安田→赤岡→高知、というルートでした。このルートのかなりの部分は、実際走って見ると、地図上では判断できなかった、深い渓谷や切り立った山肌に分け入る、二間(にけん)弱(3m余)の狭い山道を進むものであり、相当にハードで緊張が連続する道でした。軽自動車で四輪駆動であること(さらにポータブルナビが付いていること)をとてもありがたく思ったルートであったのです。小型乗用車のレンタカーではこわくて通れないような道であったからです。しかしそのような山奥のさらに山奥にも集落や家はあり、人々がしっかりと住んでいました。 . . . 本文を読む

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 由岐まで その1 

2010-01-03 06:38:22 | Weblog
冬の取材旅行に先立ち、「阿土紀游」によって、まずこの時の兆民の旅行ルートを確かめてみました。兆民がこの旅に出発したのは、明治21年(1888年)の7月18日の夕方のこと。同行者は、仏学塾の旧門下生山崎保太郎の父である山崎唯次。おそらく2人は人力車で大阪の街中を走って川口に至り、そこから徳島へ向かう汽船に乗りました。その後のルートは以下の通り。川口→〈汽船・船中泊〉→19日/朝徳島着(泊)→20日/徳島→〈人力車〉→鐘打(かねうち)駅→由岐浦→〈漁船〉→浅川浦(泊)→21日/浅川浦→鉱山見学→浅川浦(泊)→22日/浅川浦→奥浦(泊)→23日/奥浦滞在→24日/奥浦滞在→25日/奥浦滞在→26日/奥浦滞在→27日/迎えに来た旧門下生山崎保太郎とともに奥浦出発→シバコ山→山中の杣部屋(そまべや=きこり小屋)に泊→28日/シバコ山中の杣部屋→魚梁瀬の山崎宅(泊)→29日/魚梁瀬滞在→30日/魚梁瀬滞在→31日/山崎唯次とともに魚梁瀬出立→馬路村→安田(泊)→8月1日/安田→伊尾木(泊)→2日/伊尾木→高知着→11日高知→浦戸→〈出雲丸・船中泊〉→大阪→東雲新聞社。以上、7月18日から8月11日まで、足掛け25日間の旅であったわけですが、この旅に赴くきっかけは、兆民を訪れた山崎唯次から、唯次および保太郎の住む魚梁瀬へ避暑に来るよう誘われたことにありました。その誘いを受けた時、兆民は即座に魚梁瀬行きを決めました。というのは、「余は旅行を好み余り人の通(と)ふらざる路(みち)を通ふることを好み又地方の味を旨(あじ)はふことを好む地方には特別の物有(あ)るが故(ゆへ)なり特別の調理法有るが故なり」であったから。兆民は、あまり人の通らないような道を歩き、その地方独特の料理を食べることが好きであったのです。このルートで最大の難所である阿波・土佐の国境を、兆民とその門下生山崎保太郎の二人は越えていくわけですが、このルートが私が想定していたそれとは異なることを知ったのは、『兆民研究 3号』(亜細亜書房)の島村三津夫さんの文、「魚梁瀬に来た兆民の道を訪ねて」でした。「先達(せんだつ)はあらまほしきこと」です。この島村さんの考証によって、私の、車で(歩いて山越えすることはできないので)たどるべきルートはほぼ確定しました。 . . . 本文を読む

2010年 初日の出

2010-01-02 06:41:05 | Weblog
今年の正月元旦も、近くのビューポイントと思われるところに、初日の出を観にいってきました。そこへ初日の出を観に行ったのは初めてのことですが、あまり人がいないだろうと思っていたところが、だんだんと車が増え、20台以上の車が道沿いに連なりました。三脚を据えカメラを構えている人、家族で来ている人、仲間で来ている人、カップルで来ている人などまちまちでしたが、元日のご来光を観終えると、車に乗り込み、すぐに立ち去っていきました。日の出は見慣れているとはいえ、新春の日の出はまた格別のものがあります。荘厳な日の出の瞬間を待ち続けながら、そしてまばゆい朱色の光を放射させながらぐいぐいと地平線上に姿を現す太陽を眺めながら、新年の決意を新たにしていくのはとても気持ちのよいものです。 . . . 本文を読む