鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 轟の滝まで その1 

2010-01-12 07:31:12 | Weblog
兆民は、肥後(熊本県)の三太郎峠、大和(奈良県)の多武峰、土佐(高知県)の北山・黒森(四国山脈)などを今まで越えたことがありました。確かに大変な道ではあるけれども、それなりに道と言えるものでした。ところが阿波(徳島県)の奥浦から土佐(高知県)の魚梁瀬(やなせ)へ至る道、とくに阿波の相川(あいかわ)というところより先の道は、道ということができるような道ではありませんでした。ここで兆民は、「土佐奈半利川の上流」としていますが、ここはやはり海部川の上流、ないし海部川の支流である相川という川の上流ということになるでしょう。この道を行く者は、川の上流のカーブの連続にしたがって、川をどんどんさかのぼり、右より左へと何度も川の流れを渡り(川を徒歩で歩いて渡る)、あるいは川の流れのままにその流れをさかのぼり、あるいは深い淵になって歩いていくことができないところに至れば、川に臨む崖によじ登って、崖に生えている樹木の枝を両手で握って足場を確保し、慎重に歩いていかなければ深い淵に落下してしまうといった道。また坂道は、木こりや木挽(こびき)、または土地の荷担ぎが通った足跡や脱ぎ捨てた草鞋(わらじ)を目当てに登っていくような道で、その途中に大木の根っこや岩が高くそびえているとそれを迂回するような道はなく、仕様がなく、それをよっこらしょとよじ登っていくしかない。そういうことを何度も繰り返すことになります。その坂道の勾配ははしごを直立したかのようなところがところどころにあり、また崖の中腹に長さ2、3間(4~5mほど)の丸太が架けられていて、そのはるか下にゴウゴウと急流が流れているというところもある。つまり、兆民と山崎保太郎はそういう道を歩いていったのであり、その兆民の体験記録はなまなましい。兆民にとってはいまだかつて経験したこともない道でしたが、山崎保太郎や山崎唯次にとっては、魚梁瀬から阿波方面に出る場合、あたりまえの道であったと思われます。現に保太郎はこの道を通って浅川にいる兆民を迎えに来たのであり、唯次も一日遅れてこの道を魚梁瀬へと向かったのです。しかしいつもと異なるのは、川の水かさが増えており、また長く続いた台風による風雨のために、道なき道は濡れて滑りやすく、また倒木や落下した枝が散乱していたであろうということです。浴衣に麦藁帽子、そして草鞋履きの兆民は、必死に歩かざるをえませんでした。 . . . 本文を読む