鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 轟の滝まで その4 

2010-01-15 06:51:54 | Weblog
『森繁自伝』で森繁久彌さんは、「私の泊った宿は、前に大きな島があったので、津波が直接来なかったために被害は少なかった」と記していますが、この「私の泊った宿」とは、奥浦の「みなみ旅館」のこと。ここで森繁さんは昭和21年12月21日未明に発生した南海大地震に遭遇するのですが、その「みなみ旅館」は津波による被害は少なかったというのです。「前に大きな島があった」からと森繁さんはその理由を示していますが、日和佐の大浜海岸で「日の出」の撮影をしていた地元のおじさんの話から考えると、「前に大きな島があった」からだけではなく、海部川という川幅の広い川がまっすぐに海に向かって流れ込んでいたということも、奥浦の被害を少なくした理由であるに違いない。森繁さんによれは、宿泊て宴会をしている最中にすでに大地震の予兆はありました。それは「地鳴りのようなものを感じた」ことでした。森繁さんは、2、3度、「地震じゃないの?」と宿の人に聞いたそうですが、「ありゃア、海鳴りですよ」と軽く片付けられたという。森繁さんは宿の女将(おかみ)から、あとで、もっと顕著な大地震の兆候について聞いています。それは、宿泊した当日(大地震の前日の夜)、森繁さんは厚さ2センチメートルもある「モンゴウいか」の刺身を食べていますが、女将さんがそのイカを家の井戸で洗っていたところ水が濁っていたというのです。女将さんは「いかの墨でも入ったかな」と思って、100メートルほど先の井戸へ水を貰いに行ったところ、そこの井戸も濁っていたため、「おかしいのう、おかしいのう」と言っていたというのです。森繁さんは、この南海大地震の津波のことがよほど鮮明に記憶に残ったようで、津波のことについて詳しく記しています。津波は三波に渡って押し寄せてきたこと。津波は引いていく時の力が来る時の何倍かで、第一波が家屋の壁をひっさらい、第二波が屋台骨を崩して屋根を落下させ、続く第三波が、屋根も箪笥も柱もすべて山や田んぼに運び去るのだという。「まるでブルドーザーでならしたような、何もない平地となってしまうのである。これが津波で、来る時はまだしも、引く時の力は、いかなる頑丈なものも立ち尽す術(すべ)がないという」と記しています。屋根も箪笥も柱も。まして人間をや。この津波による大被害の様子を、上嶋さんとともに自転車に乗った森繁さんは、浅川浦でまざまざと目撃したのです。 . . . 本文を読む