鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-高尾から小仏まで その5

2017-04-15 07:24:56 | Weblog
『報告書』に入っている「天保年間の広重の画業と動静」(市川信也氏)によると、広重のスケッチはその多くが焼失してしまい、現在、四冊だけが知られているという。その四冊とは、『甲府行日記』、『鹿野山行日記』、『房総行日記』、そして『甲州日記写生帳』(内題「心おほえ」)。前者三冊は関東大震災の時に焼失してしまい、『心おほえ』だけが最近発見ということは前に触れた通りです。広重は寛政9年(1797)に父安藤源右衛門の子として生まれます。父源右衛門は津軽藩田中光右衛門の子で、八代洲河岸定火消同心。文化6年(1809)、父が定火消同心を引退すると、広重が家督を継ぎ、安藤重右衛門と名乗って定火消同心を継ぎます。その2年ほど後に広重は浮世絵師を志します。広重は定火消同心としての仕事をやりつつ、浮世絵師としての画量を磨いていったことになります。しかし天保3年(1832)、36歳の時、祖父の子である安藤仲次郎に、正式に定火消同心職を引き継ぎ、浮世絵師としてその仕事に徹することになります。広重が妻に先立たれたのが天保10年(1839)10月23日(旧暦)で43歳の時。広重が『甲府日記』の旅に出るのが天保12年のことであるから、妻に先立たれて2年後のことになります。天保13年の春に広重は八代洲河岸定火消同心屋敷を出て大鋸町に転居しています。ということは、『甲州日記』の旅に出る時、広重は八代洲河岸同心屋敷の自宅を出立したことになります。広重は「風景(名所)絵師」としてさまざまな名所地を訪れていますが、詳しいことはよくわからないようです。甲州や房州以外に、武蔵や相模地方、東海道筋、さらに奥州や阿波の鳴門まで足を伸ばした可能性もあるという。市川氏は、「広重は旅が好きで各地の名所旧跡を見学すると共に旅の途中で知り合った人達との会話を楽しみ、俳句を詠み、街道の途中にある茶屋で地元の名物を食し、お酒を呑んでいる。また目的地に着いてからも地元の人たちとほぼ毎日のように酒を飲み交わし地元の人たちと交友を深めている」と記しています。これは『甲州日記』に関するコメントですが、他の多くの旅においても同様であったでしょう。大変気さくで、酒飲みで、食べることが好きであったのです。 . . . 本文を読む