鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-高尾から小仏まで その4

2017-04-14 06:36:50 | Weblog
広重の『甲州日記』の「旅中 心おほえ」は、18図のスケッチと11月13日(旧暦)から11月22日まで10日間の日記からなっています。その時の旅は、金櫻神社の参詣路である「甲州御嶽道」から始まり、スケッチはその途中にあった「太鼓岩」から始まっています。それから甲府盆地から富士川沿いに太平洋へと抜ける「身延道」に移り、次に「甲州道中」へと移っています。スケッチの15図は「高尾山本社」であり、境内のようすが詳細に描かれています。14図は上野原宿近くの「犬目峠」で、16図から18図までは勝沼宿付近や甲府の寺社を描いたものだから、このスケッチ帳は一つの旅で時系列にスケッチを描いたものとすると不自然です。解説によると、広重の日記には高尾山を参拝した記載はないということですが、このスケッチを見ると広重が高尾山を訪れたことはまず確かなこと。江戸へいったん戻ってから、また甲州道中をたどって甲府まで行き、その途中に道をそれて高尾山に参拝したとも考えられます。とするなら、広重は高尾山を参拝してから、尾根伝いに小仏峠へと歩き、そこで甲州街道に戻って、小仏峠を甲府方面へと下って行ったと考えられます。『甲州日記』の「天保十二丑とし卯月、日々の記」は、天保12年(1841年)4月(旧暦)の甲府への旅を記録したものであり、これを見ると、広重はその月2日に江戸の自宅を出立していることがわかります。「朝五ツ時」(午前8時頃)に出立し、その日は八王子まで歩いて八日町の山上重郎左衛門方に宿泊しています。翌3日、八王子の宿を出立して、高尾山へのわかれ道に差し掛かり、そこで高尾山まで「こゝより一里十八丁」(約5km)と記しています。駒木野関所を越したところに駒木野宿があり、そこで「ここにも高尾へ近道あり」と記しています。それから小仏峠へと広重は向かっているわけだから、この4月の甲府行きの時、広重は高尾山に立ち寄っていないことは確かなことです。 . . . 本文を読む