鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.9月取材旅行『游相日記』番外編-孫兵衛の歩いた道-その6 

2014-10-07 06:00:35 | Weblog
手元に「半原の宮大工今昔 古代.幕末.大正.昭和の地元矢内匠家」という講演のレジメがあります。講師は矢内匠家14代曾孫弟子の鈴木光雄さん。それによると半原村に大工職が増えていったのは享和年代(1801~1803)頃のこと。矢内家の前姓の本姓は「柳川」であり、その柳川家の12代柳川右兵衛安則が生まれたのは宝暦10年(1760年)。右兵衛安則は明和年代(1764~1772)に江戸本所の立川通りに住む立川流初代幕府御用大工の立川小兵衛富房に工匠技術を伝授されたと伝えられているという。安則は若くして藩主大久保家のお抱え大工となり、後に江戸城御本丸作事方となり、一代限りとして「柏木」の匠姓を許されたとのこと。住所は半原村の下新久(しもあらく)。愛川町消防署半原出張所があるあたりが下新久であったことは、その裏手にあった石造物群の案内板で触れた通り。「柏木」姓を許された柳川右兵衛安則は「柏木右兵衛藤原安則」を名乗り、その立川流妙技技法は一門に伝承されました。文政9年(1826年)の「大工仲間議定之事」には柏木右兵衛安則(右平)を筆頭に、大工が47人も名を連ねているとのこと。柏木匠家の13代は安則の長男徳太郎(1788~1871)。14代が安則の孫である右兵衛高光(1822~1907)。この14代高光は、嘉永元年(1848年)に幕府作事方として「苗字帯刀」と匠姓「矢内」を許され、「矢内但馬藤原高光」と名乗り、以後、半原宮大工矢内匠家を継承したという。右兵衛高光は「右仲郎」とも名乗ったらしい。勝楽寺の山門を造った大工棟梁は、この「右仲」(1822~1907)と「柳川佐仲郎」(1823~1892)と「矢内佐文治」(1829~1900)の3兄弟(13代徳太郎の息子たち)でした。安政3年(1856年・その前年の安政2年10月に「安政の大地震」が発生している)以降、7年間に渡って地震で破損した江戸城の普請工事が継続されますが、矢内匠家一門に加えて近在近郷の大工仲間もこの作事に携わったとのこと。安政大地震後の江戸城の修復事業等に、矢内匠家の棟梁(矢内右兵衛高光)に率いられた半原村の大工集団が関わっていたことになります。 . . . 本文を読む