崋山は厚木に着いてから、丹沢のふもと、田代村の勝楽寺(しょうらくじ)というところに、「相州第一人者」と言われる天外(てんがい)和尚という僧が寺主としていて、そこでもと佐藤一斎の塾生で「天童」という僧が修行していることを知りました。三年ほど修行しているが学問はまだ成就しておらず、現在も薪水の用など天外のために立ち働いているのだという。崋山は厚木にいる間にこの田代村の勝楽寺をぜひ訪ねようと思っていましたが、厚木の人々との応対などが忙しく、結局訪ねることはできませんでした。「為恨」(恨みと為す)と崋山は記しており、よほど訪ねることができなかったことが残念であったようです。崋山は、今は「天童」と名乗っているが、かつては佐藤一斎の塾にいたというその男と顔見知りであったのだろうか。佐藤一斎は崋山にとって儒学の師であったから、「天童」は同門であったということになる。『客坐録』(かくざろく)を見てみると、「天外和尚田代勝楽寺主」とあり、また「天童和尚一斎」という記述がある。「天童和尚一斎」というのは、「天童和尚」は佐藤「一斎」の門下生であった、ということを示すものだろうか。崋山がぜひ訪ねようと思って、結局果たせなかった田代村の勝楽寺とはいったいどういうところであったのだろうか。 . . . 本文を読む