鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その7

2012-10-10 05:53:14 | Weblog
『桐生織物と買継商─書上文左衛門家の300年─』(桐生文化史談会)という本が桐生市立図書館にあり、それによれば、書上家(本家)に7代文左衛門というのがおり、この7代文左衛門は文化11年(1814年)から文政2年(1819年)まで桐生新町の名主を務めていましたが、文政4年(1821年)に隠居して又左衛門と改名。翌年名主に再任されて天保8年(1837年)まで名主を務めています。ということは、崋山が桐生に初めて滞在していた頃の桐生新町の名主は書上又左衛門であったことになります。しかしこの7代目文左衛門の時に書上家(本家)は借財のために傾きかけてしまい、8代文左衛門がその再建に尽力。書上一門の墓は円満寺にありますが、7代文左衛門(又左衛門)の墓はその一門の墓の中になく、やや離れたところにあるのは、「町政も家業もおろそかのため書上一門から義絶された」からだ、といった話が紹介されています。8代文左衛門(勝安)は桐生新町組頭を務めるとともに「陣屋守」を務めています。「陣屋守」というのは、出羽松山藩の「陣屋」に勤めて分領の支配を行う現地の有力者(町人)であり、この書上家(本家)も佐羽家(本家)とともに桐生の町政を担った有力一族であったことがわかります。この本には、天保7年(1836年)4月の桐生新町買継商一覧表(P18)の中に、No24として「岩本茂兵衛」の名前が出てきており、また天保2年(1831年)当時の桐生新町の人口として「4107」という数字が出て来ます。崋山が雷電山の頂から桐生新町を俯瞰した時、その桐生天満宮からまっすぐに延びる通り沿いおよび近辺に居住していた人々は、4000人を超えていたことになります。 . . . 本文を読む