鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.夏の取材旅行「鶴ヶ城(会津若松城)」 その6

2012-09-26 03:45:21 | Weblog
その地域の景観を形づくっていた「もの」は、そのほとんどが大津波によって呑み込まれ、破壊され、流されて、「震災瓦礫」となりました。散乱していた「震災瓦礫」は、この1年半の間に撤去され、集積されて「震災瓦礫の山」となりました。「震災瓦礫の山」は、相馬市原釜の相馬ポートセンターのまわりで目の当りにし、また東北電力原町火力発電所の近くや、JR常磐線山下駅の近くでも見掛けました。「震災瓦礫」が撤去された海岸部の津波被災地は、水田であったところは津波の塩害などによって耕作不能となり、夏草が茂り赤茶けた土地が一面に広がる草っ原のようになり、住宅地であったところも夏草が茂って、コンクリート基礎の部分がその間に露出していました。震災前まではあたりまえの日常生活が繰り広げられていたその地域は、長い歳月の中で培われたその「景観」のほとんど一切を大津波によって失ってしまい、「震災瓦礫」が撤去された後は、流されずに残った神社の石造物やお寺の墓地、また共同墓地などが、わずかにその地域の景観をしのぶよすがとなっているばかりでした。私が訪れた時は早朝ということもあって、その地域ではほとんど人の姿を見掛けることはなく、道路を走る車もほとんどありませんでした。たまたま墓地を見掛け、車を停め、お盆の直後ということから、まだ新しい花や供え物、燃え残ったお線香の束が目立つお墓を見て回りましたが、そのお墓の傍らの「法名碑」に新しく追加されて刻まれた戒名や没年月日、俗名、没年齢を見た時、大津波が押し寄せた時の一瞬の光景を、たしかな現実のものとして想像せざるをえませんでした。この墓地のまわりの集落においても、震災以前においてはごく普通の日常生活が営まれていたはずです。しかし今は区画されたコンクリート基礎がむきだしになった雑草の茂る「更地」となってしまっています。たまたま立ち寄った墓地の「法名碑」に刻まれた名前を、手を合わせながら何枚か写真に収めましたが、特に若くして無念にも亡くなったその人たちの名前を決して忘れずにいたいと思う。 . . . 本文を読む