鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.夏の取材旅行「南相馬~相馬~亘理」  その6 

2012-09-08 06:58:59 | Weblog
今まで何度か取り上げてきた「港町銚子の機能とその変容」には、銚子の今宮村の宮内与惣左衛門と相馬中村藩の関係が事例として検討されています。それによると相馬中村城下宇田川(宇多川)町には、吉田屋鈴木庄右衛門という中村藩の御用達商人がいて、相馬藩の廻米や大豆・瀬戸物を江戸・銚子まで運送したり、江戸・銚子からは砂糖・琉玖・綿を仕入れており、特に砂糖と琉玖については独占販売権を有しており、また松前・南部からは鯡(にしん)・秋味といった海産物を仕入れ、領内だけでなく那珂湊・銚子・江戸へ輸送していたという。吉田屋の手代源兵衛は元治和元年(1864年)において9艘の手船を所有し、その船は御穀船・松前通・南部通の3系統に分けられていたらしい。元治元年の11月、相馬中村の外港である原釜から出帆した御穀船の一徳丸には、新穀(廻米)2,720俵以外に、味噌・鯣(するめ)・干鮑・鰹節・鰯粕・昆布などの海産物が積み込まれました。海産物は、南部通の船によって松前・南部地方から運ばれたものでした。御穀船には廻米以外に海産物も積み込まれていたことになります。この一徳丸の場合、下り荷が何であったかはわかりませんが、他の例でへ見てみると、下り荷は、江戸・銚子や浦賀で購入された琉玖・綿・塩、鉄砂などが中心であったらしい。中村の外港原釜からは、藩領内の米や松前・南部産の海産物が積み出され、そして江戸・銚子などから運ばれてきた琉玖・綿・塩・鉄(鉄砂)などが積み下ろされていることが、この論文により知ることができます。では「琉玖」とは何か。私は琉球産の黒砂糖ではないかと考えていますが、まだ確認はできていません。 . . . 本文を読む