鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士市立博物館 展示会「講 ~人と人をつなぐもの~」 その4

2012-07-17 04:46:25 | Weblog
「講」はどのように分類できるのだろう。大きく分ければ、①民間信仰的な「講」②職人たちの生業的な「講」③金融のための「講」④有名な寺社などへの参詣のための「講」の四つに分けられるのではないか。①としは、氏神講・水神講・山神講・道祖神講・庚申講・念仏講・子安講・地蔵講・観音講など。②としては、太子講・馬持講・ふいご講など。③としては頼母子講・無尽講など。④としては、伊勢講・大山講・富士講・出羽三山講・御嶽講・成田講・榛名講・秋葉講などを挙げることができる。④の講の場合、参詣先は住んでいるところから遠く離れているから、「代参講」である場合が多い。宮田登さんの『山と里の信仰史』(吉川弘文館)によれば、「代参講」は、「一般に近世中期以降簇生したものといわれ」、「中でも豊富なのは山岳代参講であった」という。遠くへの参詣の旅にはお金が掛かる。そのお金を毎年積み立てて、何年に一回か(場合によっては一生に一度)は、泊を重ねて集団での長期参詣旅行をする。それは「代参講」として、自分ばかりか他のメンバー(家族や講員たち)の御利益をも兼ねるものであったのです。参詣の目的地ばかりでなく、そこに至るまでの道筋における経験や見聞は、「代参講」の人々にとって大きな魅力であったはずであり、参詣地が遠方であればあるほど旅日記(寺社参詣日記)が数多く残されたのは、自分のためというよりも後に続く人々(子どもや講員たち)のためであったものと思われます。そこには、泊まった宿場の名前や日にち、その「定宿」(泊まる旅籠が決まっている場合が多い)の名前、「御師」の宿坊(これも大抵決まっていた)での様子、登山のルートやその様子、各所で使った費用の内訳などが細かく記されています。各地の街道には、かつてそのような「代参講」の人々が集団で歩く姿がたくさん見られたのであり、各宿場の繁栄も実はそのような「代参講」の人々によって支えられていたのではないかと痛感させられたのは、かつて須走(すばしり)から小田原まで「足柄道」を歩いた時でした。 . . . 本文を読む