鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士市立博物館 展示会「講 ~人と人をつなぐもの~」 その6

2012-07-23 04:11:15 | Weblog
徳富蘇峰は、明治13年(1880年)の夏、上京の途次、大宮(富士宮)から富士登山をしています。大宮から登ったということは、おそらく村山口登山道を利用して登頂したと思われる。下山は須走口登山道を利用し、須走→足柄峠を経て、小田原より東海道へと入って東京に向かっています。それから33年後の大正2年(1913年)の夏、蘇峰は高根村増田(現御殿場市)の青龍寺に一ヶ月ほど滞在しているのですが、ある日(8月3日)の早朝、古沢の浅間神社に立ち寄った際、その北側を走っている街道を見て、33年前に17歳の自分がここを通ったことを思い出しました。そして竹之下(足柄峠のふもと)まで、その足柄道を歩いています。翌8月4日、蘇峰は青龍寺の住職と御殿場鉄道馬車を利用して山中湖まで赴き、帰途、須走停車場から鉄道馬車に乗ろうとしたところ、馬車に乗るのは東京で割引電車に乗るよりも難しいと思わず感想をもらすほどの、「道者」による大混雑を経験しています。この「道者」とは、須走口へ下山してきた白装束姿の「富士講」の人々であることは言うまでもない。須走口へ下山した「富士講」の集団は、かつてのように歩いて足柄峠を越えるよりも、鉄道馬車で東海道線の御殿場駅へと向かい、そこから東海道線に乗って東京方面へ向かうルートを選ぶようになっていたのです。かつて(明治13年〔1880年〕の夏)は「富士講」の人々で賑わっていた足柄道が、東海道線や御殿場馬車鉄道の開通により閑散としたものになってしまっている現実を、大正2年(1913年)夏の蘇峰は目の当りにしていました。 . . . 本文を読む