鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士講の富士登山道を歩く その6

2011-08-16 11:02:50 | Weblog
平塚や小田原など、相模国南部や西部の富士講の人たちの登山ルートは、足柄峠→須走→東表口浅間神社→富士山頂→須走→足柄峠を利用するものでした。つまり須走口登山道を利用して富士山頂を目指したわけですが、これは甲州街道回りでは遠距離になるからでしょう。明治に入って、明治22年(1889年)に東海道本線が新橋~神戸間の全線開通となると、御殿場駅からの富士講登山者が増大し、また明治32年(1899年)に馬車鉄道が御殿場の新橋(にいはし)から須走間が全通すると、須走口登山道は賑わいのピークを迎えました。従来の吉田口登山道から富士山頂に登って須走口登山道を下山する人たち(これが圧倒的多数)と、鉄道でやってきて須走口登山道を利用する人たちとが交錯したからです。しかしその須走や須走口の賑わいは、明治36年(1903年)の中央線の開通によって、大きな打撃を受けることになりました。富士講の富士登山は、従来の甲州街道の利用から中央線を利用するものになったからです。行程を全て歩いた時代から鉄道を利用する時代となったことにより、「三十三度大願成就」や「五十五度大願成就」は格段に達成可能なものとなったのではないか。その「大願成就」の記念碑が大正・昭和に建てられたものが多いことは、鉄道利用が可能になったことに由来するのではないかと私は考えています。しかし須走の富士講の宿(御師の宿坊)が賑わったのは、戦勝祈願を兼ねての参拝もあったアジア・太平洋戦争の中頃まででした。昭和20年(1945年)の夏には、宿坊の一つである「大申学」においては一人の参拝客もなかったという。岩科小一郎さんの『富士講の歴史』によれば、「富士山道中」(富士講の人々の富士登山)は「江戸時代文化文政の頃を頂点として第二次大戦前まで栄えて」いましたが、戦後、急速にその姿を消していきました。地域の庶民の生活の中にあった、「富士講」など「講」を中心とする信仰・相互扶助・親睦のネットワーク(コミュニティー)は、戦中・戦後において、地域からどんどんその姿を消していったということです。 . . . 本文を読む