鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その7

2010-12-11 08:16:03 | Weblog
崋山が麹町の自宅を出立したのは、文政8年(1825年)の6月29日、曇り空の朝6時頃。日本橋小網町三丁目の行徳河岸へと従僕一人を連れて向かい、そこからは小林左伝という崋山の友人らしき者も一緒になっている。崋山たち3人が乗り込んだ船は、貸切船。その船は、下総の行徳河岸(新河岸)へと向かいます。日本橋川→隅田川→小名木川→中川口→中川(旧中川)→新川→江戸川(旧江戸川)→行徳船場(新河岸)という経路。崋山はつねに写生帖と矢立、絵の具を携行している人でしたが、この旅においてももちろんのことそれらを携行しており、まず最初に彼が描いたのが中川船番所。小名木川が中川に出る手前の船の上から描いたもの。第2図が、行徳船場の「新河岸」の情景でした。そこからは陸路をたどり、八幡の葛飾八幡宮→鎌ヶ谷の牧→鎌ヶ谷宿(夕食)→白井宿とたどり、この白井宿の藤屋八右衛門方にその日は泊まりました。その日同宿した人物に、九十九里浜の漁村椎名内村の名主弥右衛門という者がおり、八ツ手網の使い方などについて崋山はその弥右衛門から聞いたりしています。翌7月1日は、白井宿→手賀沼西端→布佐→木下河岸(きおろしがし・昼食)→神崎(こうざき・夕食)→津ノ宮河岸まで来て、そこの佐原屋で宿。7月2日は、香取神宮参拝→津ノ宮→牛堀→潮来(いたこ)。この潮来の「いずみや泉助」にこの日は泊まり。7月3日、利根川に出て銚子の河岸に到着。ここ銚子で崋山は銚子浜の写生を精力的に行っています。香取神宮や鹿島神宮の参拝という当時の庶民のポピュラーな旅の経路をたどり、銚子に出て、その町や太平洋に面した磯のようすを描いているのですが、この銚子は、「東北地方から江戸への廻船の寄港地として、また利根川高瀬船への積替地、いわゆる『内川廻し』ルートの中継点として、東廻り海運の『湊』であると同時に、利根川水運の『河岸』としての性格を持って発展」(『河岸に生きる人々』川名登)した港町であったのです。江戸日本橋小網町から銚子までの川筋において、崋山の目は、江戸を支える利根川水系(小名木川・新川・江戸川・霞ヶ浦・利根川)の水運の盛況ぶりをしっかりと捉えていたに違いない。 . . . 本文を読む