鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その14

2009-12-22 06:58:15 | Weblog
御殿場周辺の古道については、『ごてんばの古道』(御殿場市立図書館 古文書を読む会)がたいへん参考になりました。地元の方々が、実際に道を歩いて調べています。特に参考になったのは、「足柄街道」と「鎌倉往還」、それに「馬車道」の部分。詳細なルート図が付いているのがありがたい。「馬車道」についてはルート図が6枚も収められています。実際に歩いて調べなければ、こういうルート図は書けない。もし「御殿場馬車鉄道」の路線をたどるとしたら、たいへん参考になる本であるといえます。この「御殿場馬車鉄道」を利用した人で、紀行文(乗車体験記)のようなものを書いている人はいないものか、と思っていたら、この本に、竹久夢二(画家)と国府犀東(国学者)、それに徳冨蘇峰が紹介されていました。竹久夢二は「富士へ」という文を書いており、国府犀東は「富士一周」という文を書いています。夢二と犀東は、御殿場~須走間を利用しており、蘇峰は、籠坂峠を越えて山中湖まで赴いています。とくに面白く思ったのは、竹久夢二の場合。彼は二枚橋の「福田屋」という旅館に逗留していましたが、別れた妻であるたま子を呼び寄せ、二枚橋から須走まで鉄道馬車に乗り、そこから富士登山を試みたのです。つまり、須走停車場で下車し、須走の街路を通って、須走浅間神社境内の東裏(あさま食堂のあるところ)から須走口登山道に取り付いたのです。明治42年(1909年)8月14日のことでした。国府犀東が富士一周をしたのは明治40年(1907年)の夏。彼は御殿場駅から鉄道馬車に乗って午後1時前に須走に着きました。彼が御殿場で鉄道馬車に乗ろうとした時、馬車は5、6両ほど並んでおり、彼はその先頭の馬車に乗り込みました。馬車は途中で馬を替えながら進み、行程の半分を過ぎた正午頃、渓流のそばで停まり、そこで馭者(ぎょしゃ)は馬に渓流の水を飲ませました。そこは前方に籠坂や矢筈の諸山を見晴るかすことができるところでした。須走停車場に到着して馬車を下りたところ、鈴を鳴らしながら下山してくる人々が続々と連なっていました。これらの人々の多くが富士講の人々であることは明らかです。竹久夢二と元妻たま子の二人も、この須走口登山道において、多くの白装束姿の富士講の人々と出会っているはずです。鉄道馬車の馭者は、ラッパを「テトウ、テトウ」と鳴らしたため、馬車は「テト馬車」と呼ばれていたそうです。 . . . 本文を読む