鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その10

2009-12-17 06:52:51 | Weblog
瑞穂村(現下吉田付近)と中野村籠坂間を結ぶ「都留馬車鉄道」が開業したのは明治33年(1900年)の9月21日。『富士登山案内図』には、その鉄道馬車の姿が描きこまれていました(P37)。それを見ると屋根部分には明かり取り(採光)のための屋根のある出っ張りがあり、馬は1頭。右下に「都留馬車鉄道会社」という大きな看板が架かった駅舎のようなものがあります。引き込み線があって、馬車はその中に入るようになっています。よく見るとその建物(駅舎?)の前、やや右手に、もう1台鉄道馬車が描きこまれています。これは山中湖・籠坂方面へ向かう鉄道馬車。現在、杉並木のある参道入口の少し手前(上吉田寄り)に、右手に入っていく参道とその手前の広場がありますが、そのあたりがこの「都留鉄道馬車会社」の看板がある建物があったところかも知れない。この都留馬車鉄道の鉄道馬車そのものが写った写真はないかと調べてみると、『冨嶽写真』には2フィート2インチ幅の軌道は写っているものの(P9)、鉄道馬車は写っていません。写っていたのは『絵葉書にみる富士登山』(富士吉田市歴史民俗博物館)でした。P14の「2 金鳥居」と「3 金鳥居」、それとP15の「6 金鳥居」の3枚。これらを見ると、屋根の部分は、『富士山登山案内図』のP37のそれとは異なり、出っ張りはあるものの明り取りにはなっていない。「図版解説」に、街路に電柱が立ち始めるのは大正2年(1913年)に宮川電灯株式会社が始業して以降であるとあるから、これらの写真は大正に入ってからのもの。『富士山登山案内図』のP36~37の銅版画は明治36年(1903年)のものだから、別の車両に変わっていたのかもしれない。不思議なことに車両は写っているものの、肝心の車両を引っ張る馬が写っていません。P14の「2 金鳥居」に馬が写っていますが、これは大八車をひく馬で、車両をひく馬ではない。興味深いのは「3 金鳥居」の写真。金鳥居を潜る鉄道馬車を3人の子どもが眺めていますが、手前の子どもの頭はつるつる頭。臼井秀三郎が上吉田の通りで写した写真の左手前にはやはり男の子のつるつる頭が写っていましたが、大正時代に入っても子ども(男の子)の頭はつるつるに剃られていた(小さい子の場合)らしいことが、この写真でわかります。金鳥居を配した富士山の写真は多く、定点観測による歴史的変遷を探ることが可能です。 . . . 本文を読む