鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

日本民家園「旧広瀬家住宅」について その2

2009-06-10 06:13:39 | Weblog
カタログによれば、旧広瀬家住宅が、現在の山梨県甲州市塩山上萩原より川崎市の日本民家園に移築されたのは昭和44年(1969年)のこと。今から40年前のことになります。私で言えば、中学生の頃まではここにあったということになる。であるなら50代前後の上萩原の人たちには、この「旧広瀬家住宅」という茅葺き農家の記憶があることになり、民家園に移築される時の情景を目撃した人もおられるに違いない。当時において、その周辺地域の農家の屋根が、昔ながらの「茅葺き屋根」であったかどうかはよくわからない。もう銀色のトタンを屋根のまわりに張っているかも知れないし、まだそんな屋根は珍しかったかも知れません。しかし、古江さんが記述されているように、その農家のほとんどは突き上げ2階付きの独特の屋根の形をした農家であって、これは今も、そのほとんどが銀色に輝くトタンで覆われているものの、この上萩原においても景観を形作る要素として散見されるものです。古江さんも述べられていますが、この「旧広瀬家住宅」も移築前は突き上げ2階が付いていましたが、調査の結果、この建物が建てられた当初は突き上げ2階が無かったことが判明し、初期の形式に復元されました。移築前の広瀬家住宅(もともとはここ上萩原に建っていた嚢家)の写真は、カタログのP36に掲載されていますが、確かに中央に突き出し2階があり、現在、日本民家園にある「旧広瀬家住宅」とはかなり趣きを異にしています。明治以降、このあたりにあった農家は、養蚕のために「突き出し2階」のあるこのような形に改造され、それは今でも(屋根の部分に銀色のトタンが被せられているものの)山梨県の東部地方には多く見られるものなのです。樋口一葉の父樋口大吉(後の則義)や母古屋あやめ(後の多喜〔滝〕)が育った家は、幕末の開港以前に彼らがここで育ち、そしてここを離れたということを考えると、当然に「突き出し2階付き」の形ではなく、日本民家園に復元された「旧広瀬家住宅」に見られるような初期の形式の建物であったと考えられます。というふうに考えると、明治以前の甲州東部地域の農村の様子(景観)は、その周辺の耕地の様子も含めて、現在のそれとはかなり異なるものであったことがわかってきます。現在の様子を見て、そこだけを手掛かりにして推し測っていくと、大きな誤解が生じる可能性があるということです。 . . . 本文を読む