鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.9月「元町~地蔵坂~本牧」取材旅行 その2

2008-10-05 08:00:50 | Weblog
鎖国時代、外国人は基本的に日本の領土に上陸することは許されてはいませんでした。見付かれば、ただちに捕らえられ、唯一の公式な海外との窓口である長崎へと送られて、そこからバタビア(ジャカルタ)か中国に送還される、というのが一般的でした。幕末、日本に潜入しようとしたアメリカ先住民系でラナルド・マクドナルドという興味深い青年がいましたが、彼も、蝦夷地から日本海まわりで長崎に運ばれ、そこからオランダの船で日本国外へ追放されました。前後して、逃亡して蝦夷地に上陸したアメリカの捕鯨船員もいましたが、彼らも長崎へ送られ、やがてオランダ船に乗せられました。ペリー来航時においても、一般の乗組員などが上陸して自由に行動することは厳しく制限されました。プチャーチンが来航した時も同様で、ぺリーもプチャーチンも、乗組員たちの上陸と「遊歩」を幕府側に強く要求しますが、幕府側は頑としてそれをはねつけます。長い艦内生活を送っている乗組員たちにとって、上陸して緑美しい自然の中を歩きたい、見知らぬ土地を歩いてみたい、見知らぬ土地の珍奇なものを手に入れたい、若い女性と会って話してみたい……、といった要求や願望は相当に強いものがあったに違いない。「遊歩」(自由散策)の許可をペリーやプチャーチンらが迫ったのは、乗組員たち(すべて男たちで、しかも多くは独身)のそういう要求が背景にあったからでしょう。その要求を拒絶し続けた幕府側も、「開国」と方針が決まれば、その要求を受け入れざるを得ませんでした。しかし全面的というわけにはいかない。制限は、政治的・経済的・治安的な観点からもぜひともしなければならない。ということで、ついには「外国人遊歩規程」というものが設けられることになりました。「日米修好通商条約」の第七条がそれで、それによると、神奈川(=横浜)の場合、「六郷川(多摩川)筋を限(かぎり)として、其他(そのた)各方へ十里」以内とされました。これは他の条約締結国にもとうぜんに認められた規程でした。しかし攘夷の風潮が高まる中で外国人殺傷事件が相次ぐ(とくに「生麦事件」が大きなきっかけになりました)と、外国側は、横浜居留地近くの手軽で安全な「遊歩」コースの設定を幕府側に要求。その結果、山手および山手周辺を巡る「外国人遊歩道」が建設されることになったのです。幅は6m。長さは8kmにおよぶ、馬車が通れるような広い道でした。 . . . 本文を読む