プチャーチンならびに士官、およびロシア兵たちおよそ200名余の先発隊が駿州宮島村を出立したのは安政元年(1854年)12月6日。この先発隊には、数名の幕府役人と200名余の沼津藩士が警護のために付き添っていました。彼らは原宿で休憩をとり、沼津城下を通過。その日は江ノ浦に泊まり、翌日、西浦海岸→真城(さなぎ)峠を経て、戸田に入りました。プチャーチンらが江ノ浦を出立したその日の朝、船将レソフスキーら、宮島村にいた残りのロシア兵200数十名が、やはり幕府役人・下田奉行附同心・200名ほどの小田原藩士の警護のもとに、宮島村を出立。おそらく先発隊と同じく、原宿で休憩をとり、沼津城下を通過して江ノ浦に一泊。翌日の12月8日、真城峠を越えて戸田に入りました。12月2日にディアナ号が宮島村の沖合いで沈没しますが、その翌日、まずプチャーチンらロシア人20名ほどが、幕府役人や沼津藩兵の警護のもと、原宿を西に向かって通過し、その4日後の12月6日、今度は大勢のロシア兵が沼津藩士の警護のもと原宿を東に向かって通過。その翌日、またまた大勢のロシア兵が小田原藩士の警護のもと原宿を東に向かって通過していきました。それぞれ400名以上の行列で、これだけ多数の異国人が東海道を通過したことはかつてなかったこと。その行列を見る沿道の人々にとってはたいへんな見物(みもの)であったことでしょう。沿道の人々は、ディアナ号が宮島村の沖合いで沈んだことも、目の前を通過する異国人がロシア人であることも、ここから沼津城下を通過して、対岸に見える伊豆半島の大瀬崎の向こうにある戸田村へ向かうこともおそらく知っていたに違いない。ディアナ号が宮島沖に沈没した12月2日から12月7日までの6日間、この原宿を貫通する東海道には、幕府役人・沼津藩兵・小田原藩兵・ロシア士官・ロシア兵が多数行き交い、騒然とした雰囲気が満ち満ちていました。 . . . 本文を読む