鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.4月「沼津宿~吉原宿」取材旅行 その5

2008-04-18 06:41:02 | Weblog
千本浜公園という駿河湾の北部にある長大な松原があるあたりは、実は、幕末の日本における日露交渉の舞台の一つとなった地域でもあります。大きく見てみると、幕末日露交渉の主な舞台となったところは、①蝦夷地②長崎③大坂湾④下田⑤駿河湾北部⑥戸田(へだ)⑦対馬(つしま)の六つだと思われますが、伊豆半島およびその付け根部分(駿河湾北部)にそのうち三つが集中しています。富士川を西へ越えた東海道筋に、「三四軒屋(さんしけんや)緑道(りょくどう)公園」というのがあり、そこには沖合いの水深24mの海底から引き揚げられた巨大な錨(いかり)〔高さ4.2m〕が展示されているそうですが、それは、日本との通商開始と国境確定を目的としてやってきたロシア使節プチャーチン一行を乗せたディアナ号のもの。このディアナ号は、安政の大地震による大津波のため下田港において損傷し、その修理のために戸田に向かったものの、西南西の強い風のために戸田に入港することが出来ず、駿州富士郡宮島村三四軒屋浜の沖合いおよそ183mのところに投錨。ところが、その後、波浪のために座礁してしまいます。そこで戸田への日本の漁船による曳航が始められましたが、風浪のため危険であると判断され、曳航するための元綱が切断されたことにより、ディアナ号はもとの投錨地付近に流され、結局沈没してしまうことになる。それは安政元年(1854年)の12月2日(旧暦)のことでした。このディアナ号の曳航や、ディアナ号の乗組員をはじめとするロシア兵の救助活動に活躍したのが、宮島村をはじめとした駿河湾北部の海岸沿いの村々でした。我入道(がにゅうどう)・桃郷・静浦(しずうら)・江ノ浦(えのうら)・三津(みと)などといった村々。今、歩いている原宿の人々も、実はそのロシア兵たちと無関係ではありません。またディアナ号の乗組員たちは、宮島村から東海道を東進し、原宿→沼津城下を通過して、江ノ浦から真城(さなぎ)峠を越えて、戸田に向かっています。彼らを警護していたのは沼津藩兵。つまり沼津藩兵によって警護されたロシア兵たちがこの東海道を歩き、沼津城下を通過していることになる。その一団は、多い場合は200余名。沿道の人々にとっては、たいへんな見物(みもの)であったに違いない。 . . . 本文を読む