鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.2月「元箱根~三島宿」取材旅行 その6

2008-03-01 06:19:53 | Weblog
4本足の動物にとっては急坂を登るより下る方が大変に違いない。ということは享保14年(1729年)に箱根峠を越えた象にとって、上り坂である「西坂」よりも、急な下り坂のある「東坂」の方がたいへんであったと思われます。5月21日の朝、ようやく元気を回復した象は、箱根宿を出立。関所を通過し、権現坂を登ってから、「東坂」を下り始めました。ここから畑宿までの間には、「猿滑坂(さるすべりざか)」・「橿の木坂(かしのきざか)」という急坂がある。「橿の木坂」は現在、長い石段の道になっており、車道は「七曲がり」になっていますが、江戸時代の道はここをほぼ直登するルートとなっていたという(『神奈川の東海道 上』神奈川新聞社・P58)。あの急坂を象はどのように下っていったのか。もし道を踏み外して転がり落ちていったなら大変なことになる。将軍の上覧に供する「従四位(じゅうよんみ)」の象を死なせたら、すでに1頭は長崎で病死していることでもあり、由々しき一大事となることは必定。「象道中」の一行14名は、象使いの潭数や漂綿を始めとして、相当に神経を使ったかと思われる。その日、小田原宿の本陣に泊まった象は、翌日、酒匂川を歩いて渡り、平塚宿泊まり。翌23日、馬入川(相模川)を浅瀬を選んで歩いて渡り、藤沢を経て戸塚泊まり。翌24日、権太坂を越えて保土ヶ谷宿・神奈川宿を経て川崎宿泊まり。翌25日、六郷川(多摩川)に仮設された船橋を渡って品川で休憩。その日の午後、浜御殿に入りました。石坂昌三さんの『象の旅』には次のように記されています。「沿道の見物人も一段と増え、これまでにない人出となった」「「お触れに従って群衆は押し黙ったまま、無人のような静けさで、象の通るのを観た」。箱根から江戸までの道中においても、この江戸においても、見物人の中には親に連れられた大勢の幼い子どもたちがいたに違いない。というのも、それは「珍獣」であるばかりか、「疱瘡」や「麻疹」の病除けとなる「霊獣」でもあったから。 . . . 本文を読む