Good News

その日の説教で語られる福音を、ショートメッセージにしました。毎週更新の予定です。

12月10日のGood News

2017年12月11日 | Good News
「福音の初め」(マルコによる福音書1章1〜8節)

『マルコによる福音書』の冒頭1章1節は、次のような御言葉で始まります。「神の子イエス・キリストの福音の初め」。簡潔な書き出しですが、これは本書の主題です。この福音書の著者は、他のなにものでもないただイエス・キリストの福音を伝えるために、私はこれを書き始めるのだ!と言いたいわけです。ただキリストの福音のみにこだわっていく著者の信仰が、冒頭の書き出しからして滲み出ていると思います。

実に、信仰者にとってもっとも大切なものは、「キリストの福音」をおいて他にはありません。私たちはキリストの福音に与るために、教会に招かれているのです。ここで私たちは、キリストが語られる御言葉を聴き、キリスト御自身が与えてくださる糧をいただく−そうして私たちは力を与えられ、信仰を強められ、ここから遣わされて行くのです。そのことを私たちは忘れてはなりません。無論、教会における兄弟姉妹との交わりや、教会の宣教を考えること、楽しい行事を行うことも必要でしょう。しかし、私たちにとって最も大切なものは、「キリストの福音」です。罪人である私たちが考え実行する宣教方策や教会運営やそれにまつわる人間関係うんぬんよりも、キリスト御自身が語られる福音、キリスト御自身が私たちに分け与えてくださる体と血、それこそが何にもまさって大切なもの!そのことをこの福音書の著者も強調したくて、いきなり「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き始めたに違いありません。私たちもその著者のメッセージをしっかりと受け取りたいと思います。

2節に入りますと、旧約聖書の『イザヤ書』から御言葉が引用され、洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは、罪の赦しを得させるために人々に悔い改めの洗礼を施しました。彼は集まってきた人々に言います。「わたしよりも優れた方が、後から来る。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と。この福音書が描く洗礼者は、人々の罪をあばき、厳しく叱責するのでなく、「後から来られるわたしよりも優れた方」を指し示すのみです。その方とは、イエス・キリスト。ここにも、著者のキリスト一点主義が現れています。

イエス・キリストは、イエスという名の真の人であり、かつキリストです。唯一の救い主であり、まことの神の子でもあられます。このイエス・キリストこそ、もっとも優れたお方なのだ!と、洗礼者は今日人々に告げ知らせました。私たちも洗礼者にならって、ただひたすらにキリストを指し示し続ける者でありたいと思います。そして、キリストが示された愛を、赦しを、恵みをもたらすことのできる小さなキリストとして、遣わされて参りましょう。

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12月3日のGood News

2017年12月04日 | Good News
「ホサナの叫び」(マルコによる福音書11章1〜11節)

新しい教会の1年が始まりました。今日から、教会の暦はアドベント(待降節)です。キリストの降誕を待ち望むアドベントには、典礼色として紫が用いられます。紫は、王の尊厳と悔い改めを表す色です。私たちの真の王・真の救い主として、神がこの世に送られた御子キリストを、悔い改めつつ待つ−自ら神の御前に出て、罪を告白する。アドベントは、そのような季節なのです。

キリストが私たちの唯一の王として来られたことを表す一つの象徴的な出来事が、本日の福音が伝えるエルサレム入城です。これは、キリストが私たちの罪をあがなうために十字架に渡される直前の出来事でした。その時、多くの人々はキリストを「王」として迎えたのです。キリストが通られる道に自分たちの服を敷き、手には棕櫚の葉をもって「ホサナ」と歓呼の声をあげながら。熱狂的な人々の歓迎ぶりをキリストはどのような思いで聞いておられたのでしょう。すべてをお見通しのキリストのことです。今は熱狂的に歓迎している民衆が、やがて祭司長や律法学者や長老たちに扇動されて「十字架につけろ」と叫ぶようになることも分かっておられたに違いありません。それでも、キリストは「ホサナ」の声を浴びながら、子ろばに乗って、エルサレムの町中に通じる道を進まれました。ゴルゴタの丘へと続くその道を!

この日、人々がキリストに向かって叫んだ「ホサナ〜」という言葉は、『詩編』118編25節以下からの引用です。「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、私たちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来られる人に。」このことから、「ホサナ」は単なる歓喜の言葉ではないことが分かります。むしろ、「ホサナ」とは「主よ、私たちを救ってください」という切実な祈りであり、心からの叫びなのです。それがいつしかエルサレムに巡礼にやってくる人々に対する祭司たちの祝福の言葉となり、キリストを迎え入れる歓喜の言葉となっていった…しかし、本来この「ホサナ」は、信仰者が真の救いを神に祈り求め時の絶叫に他なりませんでした。キリストは、この「ホサナ」という叫びに込められていた信仰者の祈りと願いを聞き届けられたのです。だからこそ、エルサレムの城門をくぐり、ゴルゴタの丘へと続く道を歩まれた!ろばのように、静かに、従順に、穏やかに。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ姿になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ書2章)今もなお、私たちがあげるホサナの叫びをじっと聞いてくださるキリストを、真の救い主としてお迎えしましょう。

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11月19日のGood News

2017年11月20日 | Good News
「その日、その時を」(マタイによる福音書25章1〜13節)

教会暦も1年の終わりに近づいてきました。もうすぐアドベント(待降節)。教会の新しい1年が始まります。そして4本のアドベントキャンドルに一つずつ火が灯されると、もうクリスマスですね。

さて、1年の終わりに読まれることになっている聖書の箇所は、「終末(再臨)」のテキストです。私たちの救いのためにこの世にお生まれになられたイエスさまは、私たちの罪をあがなうために十字架に架かって死なれましたが、3日後に復活し、神のみもとに挙げられました。そのイエスさまが、この世の終わりの時に再び私たちの所に来られる!イエスさまが、再び私たち一人一人と向き合い、神の国の宴に招き入れてくださる!その喜びの宴が、『マタイによる福音書』25章に「10人のおとめ」のたとえ話として描かれています。ここで登場する「花婿」とは、イエスさま。そして「10人のおとめ」は、イエスさまの再臨を今か今かと待ちわびる私たちを示していると言えるでしょう。おとめたちは皆、ともしびを持ってイエスさまを迎える役目を果たしたあかつきには、共に婚宴の席に連なることが約束されています。それは、神の国の宴!神のたまわる永遠の命にあずかった者たちが招かれる喜びの宴です。

ところが、その宴に招き入れられる者と、そうでない者とがいるのです。たとえ話に登場したおとめたちの中でも、5人の賢いおとめたちは婚宴の席に入ることができましたが、5人の愚かなおとめたちはそうではありませんでした。その違いは、どこにあったのでしょう?おとめたちは皆ともし火を手に花婿の到着を待っていましたが、花婿が遅れたので眠り込んでしまいました。ともしびの油は減るばかり…そこへ、花婿が到着!すると、賢いおとめたちは油を壷に入れて準備していたのでことなきを得たのですが、愚かなおとめたちは慌てて油を買いに走るしかありませんでした。「油」とは、だれかに分けてあげられる類いのものではありません。一人一人が、それぞれに準備すべきもの。神から与えられた賜物を用いて、準備しておくべきもの。それなしには、宴席につくことはできない!厳しいメッセージですが、こうして私たちが神から与えられたかけがえのない命に感謝し、与えられた賜物を生かして信仰の実りを蓄える人生を送りなさい、とイエスさまは勧めておられるのです。すると、私たちは安心して眠ることが出来る−たとえ花婿の到着が遅れようと、終末がいつ来ようとも、私たちは安心して日々眠りについて良いのです。

「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」然り、その日、その時は、ただ神のみが知りたもう。それゆえ、たとえ私たちの眼は疲れて眠ろうとも、心の眼はたえず神に開かれていますように。

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11月12日のGood News

2017年11月12日 | Good News
「最も重要な掟」(マタイによる福音書22章34〜40節)


ある律法の専門家から、数多ある律法の中でどの掟が最も重要でしょうか?と尋ねられたイエスさまは、旧約聖書の御言葉を引用して答えられました。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である、第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と。前者は『申命記』6章5節の御言葉、後者は『レビ記』19章18節の御言葉です。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神である主を愛する、そして隣人を自分のように愛する。すなわち、神を愛し、人を愛する「愛」こそが、あらゆる掟の中で最も重要なのだ、とイエスさまは答えられたわけです。当時の律法の数は優に600を超えていたと言われていますが、それらも一言でいえば、唯一の主なる神を愛するために、そして同胞である隣人たちを愛するために、定められたものばかりでした。それゆえ、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言われるイエスさまの言葉はまことに真実なのです。

信仰者にとって、イエス・キリストを愛し、その父なる神を愛することは、自明のことです。そのために、私たちはこうして主日ごとに礼拝集ってキリストの言葉を聴き、神に賛美と祈りをささげるわけです。つまり、イエスさまが今日言われた第一の掟『心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、神である主を愛すること』は私たちも十分に守っていると言えるでしょう。しかし、イエスさまはさらに続けて、『隣人を自分のように愛しなさい』という第二の掟も第一の掟と同じように重要である、と言われたのです。したがって、私たちは自分の信仰さえ守られていればよいというのではありません。私たちの周りにいる兄弟姉妹、隣人をも愛さなければならないのです。これの第二の掟も、紛れもなく主イエスが与えられた最も大切な掟なのです。

神を愛することと人を愛することは、いわばコインの表と裏です。どちらかが欠ければもはやコインとは呼べないように、愛もそうです。神を愛していると言いながら、私たちが目の前の人を愛せないのでは、本当の愛とは言えないのです。それは、『ヨハネの手紙(第一)』4章16節以下に書かれているとおりです。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます…私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」主が教えてくださったこの愛の掟を、唯一無二の掟として、大切にしていきたいものです。

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11月5日のGood News

2017年11月12日 | Good News
「キリストに繋がって」(ヨハネによる福音書15章1〜17節)

全聖徒主日です。神のみもとに召された信仰の先達者たちを覚えるこの日は、今やハロウィンの喧噪にかき消されてしまいそうですが、信仰者にとっては大切な日です。なぜならこの日、私たちは先達者たちのありし日の姿を思い返しながら、自らの信仰を問い直すことが出来るからです。先達者たちが、会堂で座っておられたあのお席、御言葉に聴き入っておられたあの表情、晴れ晴れと讃美歌を歌っておられたあの姿を思い返す度に、私たちもまた自分の信仰を顧みずにはいられません。そして、私はまだまだだな…あの方に信仰に比べるとひよっこだな…と思うわけです。そんな私たちに、今日イエスさまが語られた福音は大きな慰めになります。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ福音書15章5節)私たちも、また私たちの先達者たちも、イエス・キリストという同じ木につながっているかぎり、豊かな信仰の実りを結ぶことができる−然り、たとえ今はまだ熟していなくても、刈り入れの時には豊かな実りを!

とかく私たちは先達者たちと比較して、自らの信仰の至らなさを恥じる者ですが、ルターは「信仰」に優劣はない!と言いました。信仰とは、私たちが自らの努力によって獲得するものではなく、ただ神の恵みによって与えられるものだからです。神が与えたもう賜物に優劣はありませんし、私たちが勝手に判断して優劣をつけてもなりません。とすると、神によって与えられる「信仰」についても同様です。キリストに繋がっている信仰というのは、ただそれだけで貴く、何にも代え難い祝福に満ちた神からの賜物なのです。

先週は「宗教改革主日」でしたから、ルターの生き様について話しました。彼の残した言葉はいずれも彼自身の信仰からあふれた出たものですが、中でも「大胆に罪を犯しなさい。しかし、それよりもさらに大胆に悔い改めなさい」という言葉は有名です。このルターが語ったとされる言葉を、このたび発行された『悩み多き人生に答えはあるのか』では、「大胆に罪を犯しなさい。けれども、それよりもさらに大胆に信じなさい」と訳していました。ルターにおいて、「悔い改める」ことと「信じること」は同じことです。自らが犯した罪を悔い、神の御前で罪を告白する悔い改めは、そこに神の赦しが、神の恵みが注がれることを信じるがゆえに出来ることだからです。それゆえ、パウロも言ったように、私たちは罪の中にとどまり続けてはならないのです。「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」(ローマ書6章6節)私たちはいつまでも罪の奴隷ではなく、キリストの十字架によって罪をあがなわれ、信仰によって自由とされた者なのです。

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