唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三の五 倶起分別門 (13) 護法正義 ③

2014-01-20 22:14:58 | 第三能変 善・ 第三の五 倶起分別門

  第一師の主張に対する『述記』の釈は下記の通りです。欲界でも、定の前の加行として聞・思の時をいい、坐禅などを修めることを定におさめて定地という、と。

 「論。有義定加行至通一切地 述曰。上來是總。下子段異説解疑。如聞・思位修定之時。未得上定。定前近加行。亦名定地。此時微有調暢義故。除遠加行餘散善位。今坐禪者。雖不得定亦有調暢故。即是欲界亦有輕安。若欲無者。便違本地分第三卷説信等十一法通一切地。若言從多地説言通。一切非實通者。應從多分説彼倶起。十恒倶故。既不許爾。故知欲界亦有輕安。其五十六・六十三卷・顯揚第六皆云不定地者。謂無輕安地。欲界者。謂除輕安倶定等。彼云謂若根本上界勝妙輕安無故。作如此説。非説無欲界輕安。如説無色界無色。彼非無定色故。」(『述記』第六本下・四十一左)

 (「述して曰く。上来は是れ総なり、下は子段(シダン)、異説を以て疑を解す。聞思の位の如く、定を修する時に未だ上定を得ざれども、定前の近加行(ゴンケギョウ)を以て亦た定地と名づく。此の時に微しく調暢の義あるが故に。遠加行(オンケギョウ)の余の散善の位を除く。今、坐禅する者は定を得ずと雖も、亦た調暢すること有るが故に。即ち是れ欲界にも亦た軽安有り。若し欲界に無しと云わば、便ち本地分の第三巻に、信等の十一の一切地に通ずと説くに違す。・・・・・・」)

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 第二師の釈、これが護法の解釈になり、正義とされます。

 第一師の解釈は誤りである(然らず)。

 「有義(護法正義)は、軽安(キョウアン)は唯だ定のみに有ること在り、定に滋養(ジヨウ)せらるるに由って調暢(ジョウチョウ)なること有るが故に。」(『論』第六・十一左) 

 護法正義は、軽安はただ定にのみ存在すると主張します。その理由は、定に養い育てられることに於て調暢ということがあるからである。

 「論に、欲界の諸の心心所は軽安を闕きたるに由って不定地と名づくと説けり。」(『論』第六・十一左)

 定にのみ、ということですから、欲界には軽安は存在しないということになります。第一師とは解釈の異なりがありますが、護法は、軽安という場合の定は、上界上地の定に限られ、欲界の斂心(レンシン)は実の定ではないという立場になります。
 斂心は、斂は「おさめる」、斂心は、欲界の禅定を指します。この斂心は上界の軽安を闕くといわれています。即ち、定地といわれる状態のものではなく、不定地である、というのが護法の解釈になります。

 ここで問題が発生します。『瑜伽論』に「軽安を含め、十一の善の心所は一切地に通ず」と説かれているのか、という問題です。

「論。有義輕安至名不定地 述曰。不然。輕安唯在上界定地中有。所以者何。由定滋潤所長養故。有調暢故。欲界斂心決非實定。故無滋潤名調暢也。何以得知。六十三等説欲界諸心・心所闕輕安故名不定地。不爾應言闕上界輕安故。名不定地 若爾如何説通一切地。」(『述記』第六本下・四十二左) 

 (「述して曰く。然らず。軽安は唯だ上界の定地の中のみに有ること在り。所以は何ん。定の滋潤(ジジュン)に長養(チョウヨウ)せらるるに由るが故に。調暢(ジョウチョウ)すること有るが故に。欲界の斂心(レンシン)は決して実の定に非ず。故に滋潤(ジジュン)するを以て調暢と名づくること無し。何を以て知ることを得るとならば、六十三等に、欲界の諸の心心所は軽安を闕くが故に、不定地と名づくと説く。爾らずんば、上界の軽安を闕くが故に、不定地と名づくと言うべし。
 若し爾らば、如何ぞ一切地に通ずと説くや。」)