唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 (1)

2014-01-31 21:39:47 | 第三能変 煩悩の心所について

 三は、煩悩の心所について説かれます(本頌の第十頌から第十四頌)が、その前に、善の心所が説きおわって、煩悩の心所の相はどのようなものであるのか、という問いが立てられます。『述記』はこの科段から、巻第六末に入ります。

 「是の如く已に善位の心所をば説きつ、煩悩の心所の其の相云何。」(『論』第六・十二左)

 『述記』第六初右 成唯識論述記巻第六

 「述して曰く、別して六位諸心所を解する中に、三の門を辨じ訖(オワ)る。此は第四に當る。初は前を結び後を問う。文の如く知るべし。次は頌等を挙げる。」

 遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の六位の心所の中に於て、すでに三位については説明し已った。ここは第四の煩悩について説明する。前の善の心所を結び、次に、煩悩の心所の相はどうであろうか。

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 今日から煩悩の心所について考えます。煩悩の心所は善の心所と対比します。善と煩悩を対比させているのですね。もうお気づきのことと思いますが、善の反対語は悪ですね。しかし悪といわずに煩悩と言っています。何故なのでしょうか。思うに、善は菩提・涅槃にかかわる心所なのですね。そうしましたら、菩提・涅槃を障へるのは何かといいますと煩悩なのです。煩悩障とか所知障といいますね。解脱をさえぎるものです。善悪という場合は相対的概念です。善悪は道徳規範になります。社会生活に於いては大切な規範でありますが、ここでいわれる煩悩は私自身が私に煩い悩むことなのです。自分で自分の心を乱すわけです。『述記』には「煩はこれ擾(にょう)の義。悩はこれ乱の義なり」と教えています。意味は心が騒がしく乱れるということです。煩も悩も自分の中で起こってくるといわれているのです。煩悩は何に由るのかというと、自分なのですね。自分に執われている心が起こすのです。また見たり・聞いたりすることに於て、私の心を煩わしく悩ませるということがあるのですが、これは対象が煩わしたり悩ませたりするわけではないのですね。そのような心を私が持っているということに起因するわけです。私たちは見える世界に執着していますから、見えない世界には眼を向けないのですね。そこが顛倒していると思うのです。「いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ」(真聖P630)ですね。やっぱり私たちはこの世に執着していますから、それを成り立たせている煩悩に由って、私の生き方が決定されてくるのでしょうね。煩悩は人生の方向を障碍する働きをするのであるということを知っておく必要が有ると思うのです。それでは煩悩にはどのような種類が有るのか、これから伺って見たいと思います。

 

 煩悩の心所については、以前に概略を述べていますので、今回は、前回の説明文についての補足説明になると思います。