唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三の五 倶起分別門 (7) 護法の説 ③

2014-01-14 23:00:01 | 第三能変 善・ 第三の五 倶起分別門

 第三は、軽安の存在についての護法の説を述べる。

 四遍善師の説における軽安の存在は、「要ず世間道をもって煩悩を断ずる時に軽安有るが故に。」と主張し、善心であっても散心と無漏道には軽安は存在しない、と述べていました。この主張を護法は論破していきます。

 「若し出世道に軽安(キョウアン)生ぜずといわば、此の覚支(カクシ)は無漏(ムロ)に非ざる応きが故に。」(『論』第六・十左)

  •  覚支 - さとりを助ける修業のこと。七つ数えられる(七覚支) この科段における覚支は軽安覚支を指し、身心が爽快で自由に活動できることをいう。「此の覚支」は無漏位である仏位の覚支をいう。

 護法は、軽安覚支は無漏位でも存在するという。何故ならば、仏には軽安覚支は存在する、即ち無漏位にも存在するのです。従って、四遍善師が主張するように、無漏位には存在しないと云うのは誤りである、若し無漏位に軽安覚支が存在しないと云うのであれば、仏には覚支が存在しないことになってしまう、と論破しています。

 「論。若出世道至非無漏故 述曰。無漏之位若無輕安。應輕安覺支非無漏攝。前師若言散心無此輕安非遍。誰謂無漏輕安不倶。深爲錯難。然以前師輕安覺支。非在無漏觀。有無漏觀後有漏觀時生。然亦名覺支。體非無漏説爲無漏者。無漏定遠引故。如苦根無漏 若爾佛應無此覺支。」(『述記』第六本下・三十九左。大正43・441c~442a)

 (『述して曰く。無漏の位に、若し軽安無しと云わば、軽安覚支は無漏に摂むるに非ざるべし。前師若し散心には此の軽安無きを以て遍ずるに非ずと言わば、誰か謂ふや、無漏の軽安倶ならずと。深く錯難と為すなり。然るに前師は軽安覚支は無漏観に在って有るに非ざるを以てなり。無漏観の後、有漏観の時に生ずること、亦覚支と名づく。体は無漏に非ざれども説いて無漏と為すことは、無漏定に遠く引かれたるが故なり。苦根を無漏というが如し。若し爾らば、仏にこの覚支なかるべし。」)